ハライソ
ノリヲ
エピローグ 囚われの青年
水は低きを求め流れる、お前はそうなるな、より高みを目指せ。助九郎は事ある毎にいつも師からそう言われていた。しかしながら水は生き物を潤し、作物を実らせ草木を育てる唯一無二の存在、助九郎は漠然ながら要は生き方次第なのではと考えていた。
重厚な石積と太い木組みの格子に囲まれたカビ臭く薄暗い部屋……。ビュッと鋭く風を切る音、直後にピシッ!と何かを弾く音、続けて苦痛を告げる男の声、この三つの音が順序狂う事無く延々と繰り返し聞こえてくる。
天上から垂れた荒縄に両手を頭上へ吊るされ膝立ちにされブラブラと揺れている
「徳川に味方して結局これだもんな」「
与力達は交互に青年へ鞭を入れる。尋問して何かを聞き出すといった様子が無く、明らかに拷問が目的だった。時に足蹴にされ、意識がモウロウとすれば水を打たれ意識を強制的に保たれる。鞭は青年の体力を奪わず、ただ苦痛のみを与える便利な道具。青年の目に力は無く、ただただ眉間にシワを寄せ、波のように繰り返される痛みに堪え忍ぶより他は無い――ここは牢獄の一角に在る拷問部屋、救いの神が訪れる余地はない。
どのくらい時が過ぎたであろうか、青年の身体中に出来たアザの数々に与力達が満足感を得た頃、牢番と獄長に案内されて軍服を着た中年の男が獄舎に入って来て格子の前に立った。
獄長「おい、もうその位にしておけ」
与力「へーい」
与力達はニヤニヤしながら鞭を床にほおり投げ青年から離れた。
獄長「こいつです」
獄長は案内して来た軍服姿の男に話しかける。男は格子の間から中を伺い、痛々しい青年の姿には眉一つ動かさず何かを見極める様にじっくり全身を見回す。
男「顔を見たいが暗くて良く見えんな。おい、もっと前に」
与力「へい」
与力は青年の縄をほどこうと左右から手を出すが縄は青年の重みで結び目がしっかり締まっている。与力は縄を切ろうと部屋の隅にある棚から短刀を取り、青年の背後から縄に近づいた。
「おい!不用意に背後へ近づく―」
獄長が言いかけた刹那!青年が背後の与力にいきなり後ろ蹴りを繰り出した。青年の
「バカめが、言ってあったろうに…」
獄長は片手で顔を覆い、もう一方の手で格子を叩いた。もう一人の与力は無抵抗にブラブラと吊るされていた青年の唐突な反撃と威力に恐怖し腰が抜けてヘナヘナと床に座り込んだ。青年は右足を後方に突き出し一本足で立ったまま微動だにせず「俺の背を盗るんじゃねぇ…」とブツブツ言っている。
男「素晴らしい!合格だ!コイツはこの黒田清隆が貰い受ける!」
黒田「早速放免の手筈を取る!アイツの手当てをしておけ!」
獄長は駆け足で黒田の後を追う。
獄長「そんな急に…上の方がどう言う」
黒田「かまわん!お前は言われた通りにしろ、責任は俺が持つ!」
黒田は獄長が話し終る前に話し出す。
獄長「はぁ、しかしヤツには特別な事情がありまし」
黒田「他の徳川方は既に放免されたぞ」
獄長「しかし事情が事情ですし私の権限では、その……」
黒田は急に立ち止まり後ろを振り向くと獄長を一喝した。
黒田「責任はこの黒田が持つと言ったろおが!」
獄長はビクッとして目をつむり肩をすぼめた。
黒田はまた踵を返し廊下をズンズンと進み、座敷へ入ると『獄長』と書かれた札が垂らされた文机にドカッと胡座をかき「借りるぞ」と返事を待たずに筆を走らせた。
黒田「見たかヤツの業を」
黒田は視線を紙に落としながら獄長に話しかけた。
獄長「はぁ」
黒田「片足で立っていたあの姿、まるで雪原に立つ鶴のごとく美しかった……大の男を吹き飛ばす蹴りを繰り出しながら自身は微動だにしないあの体幹、あれは相当な鍛練の成果、剣の腕も噂に違わぬと確信したぞ!」
獄長「確かに剣の腕は相当だとき」
黒田「ところで獄長」
獄長「はぁ」
獄長は先ほどから自分の言葉を遮る黒田に少し嫌悪しているが当の本人はお構い無しに喋り出す。
黒田「与力がヤツに蹴り飛ばされた時、『言ってあったのに』と言ったな?あれはどう言う事だ?」
獄長「それはですね、ヤツの背中にあります刺青に由来します」
黒田「刺青?」
獄長「はい、黒田様はヤツの流派をご存知ですか?」
黒田「流派?確か水月館流とか聞いたなぁ」
獄長「
黒田「湖南……徳川警護筆頭……どこかで聞いたような……あの『コナミ』か?確かコナミの者が徳川の御用金を密かに隠して守っていて、一部の政府関係者がそれを狙っていると噂に聞いたぞ(……だからいつまでも捕らえられていたのか……)全く、下らない余田話を一国家が本気にしておるとは情けない……」
獄長「国家?聞き慣れぬ言葉ですが?」
黒田「日本国を一つの家に例える新しい概念だ、そんな事はどうでもいい、で、刺青がどうした」
獄長「あっはい、武士は背後を取られる事すなわち負け、死を意味しますが水月館流は徳川の警護役、自身の死がそのまま徳川へ及ぶは必至、なので辞世の句を背に刻んで常に背水のごとき覚悟を持ち続け、後を取られぬ訓練をしているそうですが、まさかあのような状態になっても」
黒田「辞世を刺青に…見られた時は死を意味する…自身の死が徳川へ難を及ばせぬが為に背水の覚悟か……益々気に入った!」
タンッ!と筆を置いた黒田は書いた手紙を獄長に差し出した。
黒田「乾いたら即座に代官へ届けてくれ、俺はこの足で鍋島様に会ってヤツを貰い受ける」
獄長「承知いたしましたが大丈夫でしょうか…」
まだ獄長は手紙を見つめているが黒田は既にドタドタと部屋を出てズンズンと廊下を進む、そして呟く。
黒田「
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