サクラのおかげで
TK
サクラのおかげで
それは、凍てつく冬の寒さを僅かに残す、初春の日の巡り合わせだった。
顔を赤らめながら仲間と談笑する大人たちを横目に、我関せずといった感じで、築40年のアパートを目指しひたすらに歩みを進めていく。
「はぁ、今日も疲れたな・・・」
全身をファストファッションで固めた僕は歩みの途中、空虚に向けてそう言葉を漏らした。
世界恐慌の煽りを受け、勤めていた会社は態度を一変させた。
手前味噌になるが、それなりに名の通ったメーカーだった。
ボーナスが出るし有給も使える。パワハラやセクハラとも無縁。
環境が良かったおかげか、疲れを感じることもなかったと思う。
ブラックとは程遠いまともな企業であり、将来は安泰だと信じて疑わなかった。
でも、それは幻想にすぎなかったようだ。
異国の地であるアメリカの銀行が破綻したことをキッカケとして恐慌が発生し、会社はものの数ヶ月であっけなくも情を捨てた。
固定費削減のためとして、僕は半強制的に退職させられたのだ。
まあ会社なんてそんなもんだ。文句を言う気力も湧かなかった。
現在僕は、最寄り駅からバスで25分の所にある工場で作業員として働いている。
今は試用期間であり、あと1ヶ月ほどで正社員登用への道が開ける予定だ。
「ニャーオ…」
「え?」
暗い路地裏に入った途端に弱々しい鳴き声と遭遇し、それが僕の歩みを止めた。
「・・・ここかな?」
歩道の植え込みをかき分けると、やせ細ったハチワレ猫と目が合った。
直径1cm弱の丸い火傷痕を右耳の付け根に携えており、僕を捉える目の奥には鋭い憎悪が構えていた。
「・・・」
猫は好きでも嫌いでもないし、飼ってあげられる余裕も無い。そもそも、助ける義理も無い。
ぶっちゃけて言えば、見て見ぬ振りをすることもできた。
だが、この状況で帰路につけるほど、僕は冷静な人間ではなかったようだ。
「・・・助けてやるか。こっちおいで」
「シャー!」
「うわっ!」
手を差し伸べた瞬間、僕は威嚇された。
この世の全てを信用できなくなっているのだとわかり、同情心が芽生えていく。
「大丈夫だから、こっちおいで・・・」
「シャー!」
「・・・」
恐る恐るもう一度手を差し伸べると、猫は僕の右手首に噛みついてきた。
ただ、その力はあまりにも弱く、今すぐ助けなければならないことは明白だった。
「・・・もう、噛まれたまんまでいいか」
左手で体を抱き上げると、右手首を噛ませながら近くの動物病院に駆け込んだ。
「先生、その猫助かりますか?」
「うん。大きな怪我や病気はなさそうだ。断定はできないけど、妊娠もしていないかな。ただの栄養失調だから、ご飯を食べさせれば元気になるよ」
「・・・!そうですか!良かったです」
妊娠の有無を聞いて、始めてメスだとわかった。
「うん。ただ、心の面が心配だね」
「え?心?」
「君も気づいていると思うが、この猫は虐待を受けた跡がある。
飼い主がやったのか、それとも赤の他人がやったのかはわからないが。
まあとにかく、人間を全く信用できなくなってるね。
ほら、僕の腕見て。検査中に何回も引っ掻かれちゃった」
先生の腕には、弱々しくも生々しい引っ掻き傷が複数刻まれていた。
「この猫、どうする?もし飼えないなら、知り合いの保護猫会に連絡してあげるけど」
「いや、僕が飼うので大丈夫です」
「そっか。優しくしてあげてね」
なぜか考える前に「飼う」と言ってしまった。衝動的に答えてしまう、僕の悪い癖だ。
「ちなみに、家で猫は飼っているのかな?」
「いえ、ペットは何も飼っていないです」
「そっか。じゃあ、検査代とキャリーバッグ代。それにトイレ代と砂代とエサ代なんかも合わせて、合計で2万円になります」
「え?バッグとかトイレってなんですか?ってか2万円?」
「これからその子を飼うんだろ?持って帰るにはバッグが必要だ。動物なんだから、当然トイレやエサだって必要だ」
多分この人は、猫が好きなんだろう。
急に持ち込まれた野良猫に対して、用意周到すぎる。
だから、2万円という料金には驚いたが、ボラれていないと確信できた。
「そ、そうですね。あっ・・・」
10年以上愛用している長財布を開けると、3千円ほどしか入っていなかった。
「すいません、手元に2万円ないんですけど・・・」
「そっか。じゃあ支払いはまた今度でいいよ」
「わかりました。今日はお世話になりました」
「うん。荷物が多いから気をつけて帰ってね」
先生はそう言うと、僕の身分を確認しないままに送り出してくれた。
「ただいまー」
家に着いた僕はキャリーバッグを降ろし、中を覗いてみる。
猫は小刻みに震えながらも、鋭い眼光を保ち続けていた。
「・・・開けるよー」
キャリーバッグを開けると猫は一目散に駆け出し、部屋の隅っこに縮こまってしまった。
近づくとやはり「シャー!」と威嚇してくる。
威嚇されると同時に、過去に受けたであろう仕打ちの凄惨さを想像してしまい、やり場のない怒りが蓄積していった。
「・・・エサとトイレだけでも用意しておくか」
僕は、とてつもなく無力だった。
猫がいる隅の対角線上の隅にエサとトイレを用意し、その横に申し訳程度の座布団も置いてみる。
だが猫は、一向にその生活空間に足を踏み入れる素振りを見せない。
「これは時間かかりそうだな・・・」
せめて僕の意識が向いていないうちにと願いつつ、ベッドに横たわり夜明けを待った。
***
「夕焼けが燃えてこの街ごと」という歌い出しがスマホから流れたところで、アラーム停止ボタンを押した。
「うーん・・・。おっ!」
昨夜用意したエサは、きれいすっかり無くなっていた。
トイレの砂を見ると、茶色が濃くなっている部分が見受けられる。
座布団の上には、僅かに猫毛が散らばっていた。
ただ今は、その生活空間に猫の姿はない。
対角線上の隅に目をやると、猫は昨夜と同じ様に縮こまっていた。
「よう!エサは美味しかったか?」
「シャー!」
勢いに任せればいけると思い近づいた僕がバカだった。
人間に対する警戒心は相変わらずだ。
「あっ、もしかしたら探している人がいるかもな・・・」
怯える猫を左側から撮り、大まかな位置情報と共にSNSに投稿した。
「じゃあ、行ってくるわ。留守番よろしく」
エサを足しトイレを掃除した僕は仕事へと向かった。
「連絡は来てるかなーっと」
昼休憩中にSNSを開くと、連絡と呼べる類のものはなかったが、その代わりに無数のコメントがついていた。
“かわいいですね!”
“ハチワレちゃん!”
“吸引してええええええええ”
一部狂ったコメントもあったが、猫愛溢れる光景に思わず口角が上がった。
「猫ちゃん飼ってるんですか?あっ、勝手に覗いちゃってすいません」
一度も雑談をしたことがない青年が、僕に声をかけてきた。
「いえいえ。実は、昨夜拾った野良猫なんですよ」
「えー!そうなんですね!めっちゃ優しいですね!」
「そ、そうですかね?」
「はい!野良猫を飼うってそんな簡単に決断できることじゃないですからね。凄いことですよ」
「はは、ありがとうございます」
ほぼ衝動的に飼うと決断してしまったのだが、まあ言わなくてもいいか。
「で、なんて名前にしたんですか?」
「あっ、名前はですね・・・」
この質問を受けて、初めて気づいた。そういや名前をつけてなかったな。
どう答えようか逡巡していると、窓越しに桜の樹が目に入った。
「・・・“サクラ”っていいます。可愛いでしょう?」
「サクラちゃんですか!いいですね!」
またしても、衝動的に動いてしまう悪い癖が出てしまった。
おそらくこれは僕の性根なので、一生付き合っていくしかなさそうだ。
「実は僕も猫を飼っているので、何かあったら相談に乗りますよ」
「マジっすか!?ありがとうございます!」
「はい!じゃあ、休憩時間も終わるんで、そろそろ作業に戻りましょうか」
「あっ、そうですね。戻りましょう。」
僕はこの工場内で、始めての仲間ができた。
「・・・」
「もうどれくらい時間が経ったかな?」と、単純作業中に1番考えてはいけないことが、幾度となく頭をよぎってしまう。
なんの製品に使われるか見当がつかない基盤に、どんな性能を持っているのか見当がつかない部品を挿し、リード線を切った後にはんだ付けする。
これをひたすらに繰り返していくと、
「無心になる者」と「余計なことを考えてしまう者」の2パターンの人間が誕生するのだが、どうやら僕は後者のようだ。
「おい!チンタラやってんなよ!もっとテキパキこなせ」
若い女にだけは優しい班長が愛情ゼロの表情を携えながら、無意味な説教をぶつけてくる。
そんなことを言われても作業効率になんら寄与しないのだが、理屈が通じる相手でもなさそうなので、
「はい、すいません」と下手に出る発言でその場をやり過ごした。
「ただいまー」
猫は、いや、サクラは相変わらず、定位置で縮こまっている。
近づこうとすると、やはり睨みを利かせてきた。
ただ、生活空間を利用した跡がくっきりと残っているので、とりあえずは一安心だ。
「ったく、いつになったら懐いてくれるんだお前は・・・」
思わず愚痴がこぼれたが、不思議と嫌な気分じゃなかった。
サクラのおかげで、僕には仲間ができた。
世に溢れる純粋な猫愛にも触れることができた。
それを思えば、現状の関係性にもまあ我慢できる。
「まあ、いつか仲良くなれるだろ」
確かな希望を胸に抱きながら、サクラの生活空間を整えた。
***
「夕焼けが」という歌い出しがスマホから流れたところで、即座にアラーム停止ボタンを押した。
「うーん・・・。え?」
布団から起き上がった瞬間、エサがほとんど減っていないことに気づいた。
いつもどおり、サクラは部屋の隅に縮こまっている。
「だ、大丈夫か?」
布団から飛び出し近づくと、多少の警戒心を感じさせるものの、いつものように威嚇してこない。
「なんか雰囲気変わったな・・・」
威嚇してこないことは、冷静に考えれば良い変化だろう。
ただ、エサの減りが先日に比べ少ないことを踏まえると、一気に強烈な不安に襲われる。
猫の知識があまりにも不足している僕は、現状をネガティブに捉えることしかできなかった。
「一応、病院に連れていくか・・・」
仕事終わりに連れていくという選択肢もあったのだが、万が一のことがあれば、僕は正気を保てない。
仕事を休む旨を伝えるために、班長のスマホに電話を掛けた。
「・・・あっ、おはようございます。」
「おう、どうした?」
「すいません、今日の仕事休ませてほしいんですけど・・・」
「は?ダメに決まってんだろ」
「・・・実は、飼っている猫が病気かもしれないので、病院に連れていきたいんです」
「猫?いや、そんなの仕事終わった後でいいだろ」
「いや、万が一のことがあったら嫌なので・・・」
「お前、今試用期間中なのわかってるよな?そんなふざけた理由で休む奴は正社員にしてやれないけど」
「・・・」
人生で初めて、怒りで体が震えた。
言ってしまえばコイツは、僕の生殺与奪を握っているわけだ。
その圧倒的な立場を利用して、僕の行動を操作しようとする卑怯さは、到底受け入れられるものではなかった。
そしてもう1つ許せなかったのが、「ふざけた理由」という表現だ。
飼っている猫の体調を気遣うことは、ふざけているのだろうか?
猫を病院に連れていくために仕事を休むことは、異常な行動なのだろうか?
常識的な判断ができているのは一体どちらなのか、僕には全くわからない。
ただ、1つハッキリしたこともある。
それは、もうコイツの下で働くことはできないということだ。
「・・・班長」
「なんだよ?」
「くたばれロリコン野郎」
下品な捨て台詞を吐き、一方的に電話を切った。
「先生、サクラは大丈夫でしょうか?」
「サクラっていう名前にしたんだね。良い名前だ」
「あ、ありがとうございます。で、サクラは大丈夫なんですか?」
「君は心配性だねえ。サクラちゃんは元気だよ」
「え?でも、エサをあんまり食べなかったんですよ。それが凄く心配で・・・」
「単に腹が減ってなかっただけだよ。多分だけど君の部屋、上り下りできるような場所が少ないだろ。あと、部屋の隅で縮こまってることも多いんだろ?そりゃあ、腹も減らないわけだ。運動してないんだもん。うち、キャットタワーとおもちゃも置いてるからさ、買って帰りなよ」
「は、はい。ありがとうございます。あ、あと、もう1つ心配なことがあって・・・」
「なんだい?」
「今朝サクラに近づいたら、あまり威嚇してこなかったんですよ。今までは力強く威嚇してきたのに。もしかして元気が無くなったのかなって思っちゃって・・・」
「はは、考えすぎだよ。威嚇してこないのは、君に慣れてきた証拠だ。エサやトイレの世話をしていればな、猫だってだんだんわかってくるんだよ。この人は仲間だってな」
「そ、そうですか!」
「うん。まだまだ警戒心は残っているけど、だいぶ慣れてきてるよ。
そのうち、隅っこで縮こまることも減ってくるはずだ」
「いやあ、よかったです。過剰に心配しすぎちゃいました」
「まあ猫はデリケートだからね、気にかけることは大切だよ。
じゃあ、診察代とキャットタワー代とおもちゃ代で1万5千円だ。
あっ、この前の料金と合わせると3万5千円だね。」
「・・・すいません。お金持ってくるの忘れてました」
「・・・僕の優しさにも限度があるからね」
「す、すいません!今度は必ず持ってきますんで」
「はは、まあ君は踏み倒したりしないだろう。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい!お世話になりました」
家に帰りスマホを開くと、「お前、もう来なくていいから」というメッセージが目に入った。
つまりこの瞬間、動物病院に3万5千円の借金をつくった無職が誕生したわけだ。
「僕、なにやってんだろ・・・」
サクラをキャリーバッグから開放し、部屋のドア前にへたり込んだ。
客観的に見ても主観的に見ても、今の僕はあまりにも滑稽だった。
職を捨ててまでしてサクラを病院に連れていったのに、ただ腹が減っていなかっただけだったとは・・・。
衝動的に行動してしまう性根が、さすがに憎くなってくる。
「はあ、この先どうしよ・・・」
「ニャーオ」
「え?」
弱音を吐いたその直後に、サクラが僕の膝の上に乗ってきた。
右手首をペロペロと数回舐めると、俗に言うニャンモナイトという形状になり、そのままスヤスヤと眠ってしまった。
「・・・サクラ」
この瞬間、自分のやったことは正しかったのだと確信できた。
借金をつくった上に職を失ったが、いずれも些末なことにしか思えなかった。
安堵の表情に満ちたサクラはとても可愛く、ただそこにいてくれるだけで、僕を取り巻く後ろ向きな想いが一掃される。
「・・・もう、今日はこのままでいいや」
僅かに滲んだ視界の中、僕はサクラを撫で続けた。
サクラのおかげで TK @tk20220924
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