まがつものども

espo岐阜

第1章

case-01 神薙ぎの少女

 かつて……少なくとも彼の知る限り10年前まで、岐阜県の山奥には廃村一歩手前の限界集落「神憑村」が存在していた。

 その村には60年周期で、「禍身カミ」と呼ばれる禍々しく恐ろしい存在に対抗し得る力を持つ子供が生まれ、その子供たちを「神薙かんなぎ」と称していた。

 神薙ぎは「ケガレ」の集合体である禍身を「神であれども薙ぎ祓う」と呼ばれる力によって討ち斃し、村に平穏と安寧をもたらす。――というのが、表向きの話だ。


詠路よみじさん、またねー」

「詠路さんバイバーイ」

「みなさんも、また明日」

 

 学友たちに別れを告げて、帰路を一人歩く少女――詠路珠緒よみじたまお

 美しい黒髪を腰まで伸ばし、一切の光すらも混じることのない黒い瞳は、彼女自身の現実離れした独特の雰囲気も併せてまるで日本人形のよう。

 けして不愛想でもなく、道行く人々に朗らかな笑顔を向けて挨拶をし、困っている老人や子供を見れば手を差し伸べる優しさも持ち合わせているのに、誰もが口を揃えて彼女をこう称す。


『生きている気がしない』


 それは、彼女の白すぎる肌がそう言わせているのか。あるいは、ひんやりとした体温か。

 どちらにしても、字面からは好意的に受け入れられないそんな言葉も、彼女は「ふふふ」と小さく笑って去っていく。


 そんな彼女には3つ、秘密があった。

 ひとつは、「禍身」と呼ばれる悪霊や怪異といった「よくないもの」が見えること。

 ひとつは、そうした「禍身」と呼ばれるものたちを祓う力を持っていること。

 そして最後のひとつは――、


「あっ! 知紅ちあきさん!」

「おお、珠緒。久しぶりだな。元気にしていたか?」

「はいっ!」


 養母――呉内紅莉くれないあかりの実兄、呉内知紅くれないちあきに恋慕の情を寄せていること。


 



「今日の獲物はずいぶんと大物みたいだよ、知紅」

「……獲物の力量など知らん。相手が禍身であるのなら、オレのすべきことは同じだ」


 禍身。堕ち神。悪神。よくないもの。荒ぶるもの。まがつものども。

 をどう呼ぶかは人によるが、共通しているのは「神に至ろうとしていたもの」「神に至れなかったもの」「神としての力を上回るケガレを持つこと」の3つ。理由は様々だが、とにかく禍身と呼ばれるものたちは神に至るほどの信仰や畏怖を向けられていた存在が、膨大な「ケガレ」を身に纏って「おぞましく恐ろしいもの」へと堕ちた存在。多くの場合ケースにおいて普通の人間には知覚することすらできず、一方的かつ圧倒的な「ケガレ」を人々に浴びせ、それを浴びた者はいずれ死に至るということ。

 故に、何もしらない人々を禍身から守るため、この世にはそうした「認識の闇」と呼ばれる誰にも感知されない世界で奔走する者たちがいる。


「なんだなんだ、愛想ないなぁ。大物とは言ったが、お前なら大丈夫だろ。なんたってあの神薙ぎの嬢ちゃんが――」


 軽口を叩くスーツ姿の同僚の体が宙に浮く。

 2メートル以上ある知紅の巨体と剛腕は、彼の胸倉を掴み上げると床に爪先すらつけられない高さまで持ち上げていた。

 

「おーぅ。すまん、冗談だから降ろしてくれ、普通に怖い」

「……冗談にしても悪質だとは思わなかったか?」

「悪かったよ、もう言わない」


 軽薄な態度と装いだけの笑顔は、同僚なりのポーカーフェイスか。

 

「人々が禍身に怯えず生きられる世界のために、オレたち『禍身祓い』がいるんだろう」

「けど、あの嬢ちゃんも禍身とは浅からぬ因縁のある子じゃないか」

「だが今は禍身とは関係のない平穏な世界で生きる少女だ。人々の平穏を守るオレたちが、彼女の平穏を奪うようなことは看過できない。まして子供を守るべき大人が、大人の都合で子供を危険に晒すなど以ての外だ」


 それはそう、と同僚も苦笑いと共に頷く。

 知紅は腕時計をちらりと見ると、まだ「その時」まではしばらくあることがわかる。先んじて現着すべきか、あるいは軽食を挟むなりしてリフレッシュをすべきか。少々の時間をかけて悩んだ末に、彼は同僚に断りを入れて妹夫婦の家に連絡を入れた。

 もうすぐ、妹に預けた「彼女」も学校から帰ってくる頃だろう。愛想もなく、口下手な上に熊のような巨体。おおよそ人から好かれるような容姿ではない自分に懐いてくれるその少女を、知紅はたいそう気に入っていた。彼女との出会いは決して明るいものではなかったが、彼女を「あそこ」から連れ出した時、本当ならば知紅自身が彼女の世話を看るつもりではあった。しかし、禍身祓いという危険な仕事を生業としている以上、自分だけでなく時には彼女にも禍身の脅威が降りかかるかもしれないと考えた知紅は、やや寂しさを覚えながらも彼女を妹夫婦に託したのである。


「ひとまず、時間までまだ余裕がある。オレは今から出て、少し寄り道をしてから予定通り現着する。後で合流しよう」

「あーはいはい、いつものとこね。じゃあ俺ものんびり行くから、遅れないでね」

「わかっている」


 



「今日も、禍身祓いのお仕事ですか?」


 妹夫婦の家に着くと、当然ではあるが義弟は仕事中。妹も友人と出かけているのか不在で、ちょうど学校から帰ってきたばかりの珠緒と出会った。

 珠緒に促されて家に入り、リビングのソファーに腰かけて勝手ながらテレビの電源を点けると、麦茶と二人分のコップをお盆に載せた珠緒がそれらをテーブルに置き、まるでそれが当然であるかのように知紅の隣に座る。ソファーの幅的にもまだ十分な余裕があるというのに、ぴったりとくっついて座る彼女に「いつまでも甘えたがりな子だな」と小さく笑みを浮かべながらも、知紅は彼女の問いに答えた。


「……ああ。ひと仕事する前に、珠緒の顔を見ておこうと思ってな。お前や紅莉たちのためと思えば、こんな仕事でもやる気が出る」

「だったら、わたしもお手伝いを」「ダメだ」

 

 間髪入れることも許さない強い口調の彼に、珠緒は少しだけ気持ちを落とす。

 彼がそれを受け入れるわけがないというのはわかっていた。怒られるかもしれないということも、彼の語気がやや強くなることもわかっていた。

 それでも、僅かな望みに賭けて勇気を紡いだその言葉は、やはり予想通りの言葉に弾かれる。


「……ごめんなさい」

「いや、オレも少し強い言い方をしすぎた。だが、わかってほしい。君には……珠緒には、あまり禍身と関わってほしくない。君のような子たちが平和に暮らせる世界を守るために、オレたちは禍身祓いをしている。どうかオレに、君を守らせてほしいんだ」

「はい……」


 ズルい言い方だ、というのはどちらが思ったことだろうか。あるいは、どちらもか。

 珠緒の恋心を理解しないまま、彼女の未来を案じて慈しみと共に放った彼の言葉は、間違いなく本心だ。

 しかし同時に、そう言われてしまえば珠緒が何も言えなくなってしまうこともわかっていた。

 

「……この仕事が片付けば、しばらくは休みがもらえる。今度の土曜、珠緒の行きたいところにいこう。だから、君はここにいてくれ。それだけでいいんだ」

「知紅さん」


 大きく、ごつごつとした手が彼女の小さく白い手を包む。昔から、彼女が不安そうな表情をしている時はこうして手を繋いであやしていた。他人ひとと比べて、触り心地のいい手ではないことは、知紅も自覚している。それでも、彼女は知紅の手をいつもまじまじと見ながら何度も何度も握り返して、いつの間にか微笑んでいる。今回も、きっとそうして機嫌を直してくれるだろうと思っていた。


「なんでさっきから、自分がいなくなるみたいな言い方なんですか?」


 心臓が揺れる。


「今日の知紅さん、おかしいですよ。わたしのことを案じてくれるのも、大事にしてくれるのも、いつもの知紅さん。みんなを守るために頑張っているのも、いつもの知紅さん。わたしたちが平和な世界で生きられるように、自分のことを省みようとしないのも、いつもの知紅さん。でも……知紅さんいつもそんなこと言ってくれないじゃないですか。誰にも言わずに……黙って禍身を祓って、黙って怪我して、黙って帰ってくるじゃないですか。なのに……なんで今日だけ、それを全部言ったんですか?」


 しまった、という表情は他の誰を偽ることができたとしても、今ここにいる少女を偽れなかった。


「まさか、これから祓いに行く禍身って、知紅さんでも危ないような相手なんですか?」

「…………ッ!」

「……わたしも行きます。禍身だろうと神だろうと、知紅さんをわたしから奪うような存在は……わたしが薙ぎ祓います」


 逝きはよいよい、還りはこわい。こわいのならば……黄泉へ逝け。

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