第11話 私の身体何回分
放課後、俺は旧校舎の向こう側にある、武道館へ向かった。
教室には羽黒の鞄が置きっぱなしになっていて、帰ったわけではないと思ったのだ。
なら、きっと、武道館にいる。
武道館への渡り廊下は、築何十年もたっているのだろう、古すぎて歩くたびにギシギシと鳴る。
柔道の授業もおわり、柔道部も剣道部もないこの学校、今はもう、誰もこの渡り廊下を歩くものはいない。
羽黒楓を除いては。
渡り廊下の突き当たり、木製の引き戸をあける。
いた。
緑色の畳が敷き詰められた広い柔道場。
その真ん中に、柔道着を着た少女が一人、仰向けで横になっていた。
ぱっと見、羽黒は目を閉じて、寝ているように見えた。
羽黒楓の身体は小さすぎて、柔道場がやけに広く感じられる。
いつかと同じように、夕日が差し込んできていて、それが羽黒の身体の一部分を照らしていた。
柔道着の白さが目にまぶしい。
足音を立てないように、ゆっくりと近づく。
少女は目を閉じたまま、ぴくりともしない。
数メートルまで近づく。
耳の下で結んでお下げだった髪の毛は、今はもっと上でまとめていて、短めのツインテールにしている。
教室ではいつもうつむいていてわからないけれど、こうして見てみると、やっぱりきれいな顔立ちをしていて、真っ白な肌とあいまってとても魅力的に見えた。
こじんまりとした体つきをしていることもあって、まるで人形のよう。
かすかに胸のあたりが上下しているので生きていることがわかるけど、そうじゃなかったら本当につくりものか何かと勘違いしそうだ。
寝ているのだろうか、それともただ目を閉じているだけか?
俺は、とりあえず羽黒の横に、静かに腰をおろす。
と、突然。
「私ね、練習の前の、誰もいない柔道場って、好きなんだ」
羽黒が口を開いた。
「だれもいなくてさ、静かでさ。あと少ししたら、ほかのみんなもやってきて、すごくうるさくなるんだけど、それまでのほんの短い間、こうやって畳の上でさ、一人で寝ているとさ、これから始まるみんなとの練習が楽しみで、ああこの静かな道場も、すぐに先生とかみんなの声や、気合いいれるための叫び声とか、だれかが投げられる音とか、乱取りの時間をはかるストップウォッチのブザーの音とか、お願いしますとかありがとうございましたとかの挨拶の声とか、とにかくとにかくそんな声や音でいっぱいになるの。でも、今は、静かなの。なんか、いいよね、って。でもこの学校に来てさ。こんな立派な武道場があるのに、だれもいなくてさ。ずっと静かなんだよね。ずうっと静かなんだ。がんばって一人で声出すんだけど、私しかいないから私の声だけが反響してさ、すっごく、……寂しくなるんだよね」
俺は、目を閉じたままの羽黒が、呟くように話すのを、邪魔せずにじっと聞いていた。
「私、今、片親でさ、お母さんはずっと働いて深夜までいないしさ、私もバイトしてるからお母さんと時間あわなくてさ、普段ほら私ああいう性格だからバイト先でも一人でさ。バイト帰りにおばあちゃんちに妹を迎えにいくまでずっと一人でさ。こんなにこんなに一人でいるの、生まれて始めてでさ。柔道してるときもさ、一人だなんて考えもしなかったことでさ、いいわけするわけじゃないけど、私、もう、頭がテンパってたんだと思う」
そこまで言うと、羽黒はむくりと起き上がり、俺のほうを向いた。
そしてその場で正座をして、まっすぐ俺の目を見る。
黒い瞳、黒い髪の毛、黒い帯。
羽黒楓は、
「さっきは、ごめんなさい。スマートフォン、壊れちゃった? すみませんでした」
そういって、そのまま頭をべったりと畳につけた。
「いや、いいよ」
いきなり土下座されてびっくりしつつも、俺はそう答えたが、
「でも、壊れちゃったよね、あれ。あのさ、あれ、定価いくらするの?」
定価? スマホのことか?
「いやまあ、定価で言えば九万円くらい……」
そのとたん、土下座したままの羽黒の身体がビクンっとふるえた。
そして、かすれる声で、
「あの、一括では、弁償できません。ごめんなさい。バイト代、月三万円くらいしかないし、お母さんに渡さなきゃならないし、あの、分割で、お願いできませんか」
「いやいや、定価はそうだけど、そもそも買ったときはキャンペーンでただみたいなもんだったし、補償サービスにはいってるから、まあ四千円くらいで交換できるし」
畳についた羽黒の手のひらが、ぎゅうっと畳をつかみとろうとするかのように力が入るのが見えた。
「四千円……ごめんなさい。それも、一括じゃ、無理です。二回にわけてもらえませんか……。
ごめん。壊したのは私なのに。ごめんなさい」
会話の間、俺の心の中ではいろいろな思いがぐるぐるまわっていた。
田舎にはよくあることだが、この学校は公立だけどこの辺では唯一の進学校で、アルバイトをするような奴はほとんどいない。そんな暇があれば勉強をするのが普通だ。
バイトをするには学校の許可が必要で、それも家庭の経済状況を助けるためだときちんと認められないと駄目なのだ。
母子家庭とか言ってたけど、つまり、そういうことなのだろう。
幸い、俺の家は両親とも健在で、父親は市役所つとめ、母親は中学校の教師をしていて、裕福ではないにしても、まあ経済的に困窮しているということはない。
俺は昨日、帰宅してから深夜アニメの録画をリビングで見て、妹が帰ってきてからは自室でネットサーフィンして、家族みんなで夕食をとり、妹と少し口喧嘩したあと風呂にはいって、そのあと自室でまたアニメを見ていた。
そのあいだ、こいつは、たったひとりでこの広い柔道場でトレーニングして、その後アルバイトして、多分まだ小さい妹を祖母の家まで迎えにいって……。
羽黒に目をやる。
頭を下げているので見えるのは頭頂部。
つやつやと輝く黒い髪のツインテール。髪の毛の分け目から白い地肌が見えた。
さっき日和に調べてもらったら、補償サービスを使えば本当に四千円くらいで修理できるらしい。
俺の一ヶ月分の小遣いと同額だけど、魔法少女アニメのBDを買うために少しは貯金があるので、それを使えばいいだけの話だ。
こうやってきちんと頭を下げて謝ってくれてるし、もともとは俺が羽黒を怒らせたのが悪いんだし。
「羽黒、いいよ。そのくらいの金ならなんとかなるよ。謝ってくれたし、別に怒ってないぞ。なんか、同級生に土下座されてると変な気分になるからもう頭あげてくれよ」
「でも、私が壊したんだからさ、弁償しないと私の気がすまないし」
「いや、金もらってもなあ。それより、さっきなんであんなに怒ったのかを教えてほしいけど」
「ごめん、それは言いたくない」
教えてくれないのか。
でも、ということは、簡単に口にだせないほどのことだったのだろう。俺のスマホを壊してしまうくらいの事情があったということか。
「うーん。じゃあ、ほかのことで返してくれよ」
「ほかのこと?」
「ああ。ええとだな」
俺はそこで、言いよどんだ。
そして今から自分が羽黒に言おうとしている内容に自分で驚いた。
あれ、なんで俺こんなこと言おうとしているんだ?
そんなつもりはぜんぜんないのに、どうしてだろう、目の前の同級生の女の子を、助けてやりたいという気持ちが胸の奥から沸き上がってきたのだ。
うん、羽黒楓は、顔かたちはかわいい。
うん、見た目は好みだ。
うん、それは認める。
でも、教室での羽黒と、柔道場での羽黒はあまりに違いすぎていて、正直に言えばちょっとやばい奴っぽいし。
別に、好きだからとかそういうわけじゃなくて、でも、やっぱり。
ええと、なんていうんだこの場合。
えーと……。
うん。
そうだ。
放っておけない。
そう、道ばたに捨てられた子猫がいたらどうしたって立ち止まって見てしまうように、俺は羽黒を目の前にして立ち止まって――それどころか、拾い上げて助けようとすら思ってしまっていたのだった。
「羽黒、俺、おまえに――」
俺は本当にこの女の子にこれ以上深く関わろうっていうのか?
躊躇して少し黙り込んでしまった。
それをどう思ったのか、羽黒は顔をあげ、大きく目を見開いた。
ぶるるん、と大きく肩を震わせ、そして、
「身体で、ってこと? あのさ、私の身体なんて、たぶん、つまんないよ?」
「ちげーよ!」
「四千円って、私の身体何回分?」
「一回四〇〇万円でもだめだよ、許すなよ!」
なんだこいつ、ずれてやがる!
「えっとさ、私経験ないし初めてだからそんな価値ないと思うんだけど」
「どっからつっこめばいいんだよ!」
「つっこむって……」
そういって顔をあからめてうつむく羽黒。
つっこむってそっちの意味じゃねー!
あ、やばい、こいつ頭おかしい。初めてとかそんなこと聞いてねーし! こっちの顔が赤くなるわ! なに真剣な顔してあほなこと言ってんだよ! 変すぎだ、そりゃ友達もできねーよ! いや友達いないからこうなのか?
口をパクパクさせて心の中でつっこみをいれまくっている俺の表情をどう思ったのか、羽黒は少し顔を曇らせて、
「でも、お母さんや妹に怒られちゃう」
「俺もお前に俺がそんなこと要求する奴だと思われてることに怒ってるよ! そうじゃなくて、その、俺に、柔道教えてくれ!」
「はい?」
きょとんとした顔をする羽黒。
「だからさ、おまえ、すごいだろ、俺みたいな男を簡単に投げたりしてさ。俺も、柔道に興味わいた。おまえみたいに人を投げてみたいんだ。だから、これから放課後、俺に柔道を教えてくれ。それで四千円はチャラだ。どうだ?」
「……それって、柔道部に入部してくれるってこと?」
「まあ、そうなるな」
「……練習相手になってくれるの?」
「柔道をきちんと教えてくれたらな」
羽黒は手品でも見たかのようなぽかーんとしたような顔で、
「それってさ、部員が増えて、四千円払わなくてよくて……私だけが得してない?」
「俺も男だ、強くなりたいのは当たり前だろ? 強くなれたら俺も得だ」
「いや、私女だけど強くなりたいよ?」
「あー、まー、そうだろうけど、そういうことをいいたいんじゃなくて」
不思議そうに俺の顔を眺めたあと、
「もしかしたら月山君って、ものすごく、いい人?」
「いいから、ほら、柔道着は持ってきてるんだ、どこで着替えればいいんだ?」
「あそこの階段あがると部室があるからさ、そこでいいんじゃない? え、ほんとに? 柔道、してくれるの? 私と?」
「ああ」
俺は道着のはいったバッグを持ち上げると、部室の方へと歩いていく。
ふと後ろを振り返ると、羽黒楓が両手で握り拳をつくり、
「いやったぁぁ! いっぱい投げられる!」
と歓喜の声をあげていた。
そのうれしそうな顔を見て、やっぱりこうしてよかった、と思った。
羽黒は振り返った俺にまっすぐな笑顔で、
「月山君、ありがとう! すっごいうれしい!!」
ああ、女の子にこんな純粋に感謝されるなんて今まであったっけ?
悪くないよな、いや、すごく、いい。
そう思いながら、部室への階段をのぼっていった。
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