第6話 教室に居る時の私は私じゃないから
柔道の黒帯だろうが、羽黒はちっちゃくて非力な女子にすぎない。
羽黒が全力を傾けたとしても、正直、男の俺の腕力にはとても及ばないのだ。
俺が本気で投げられまいとすれば、羽黒の背負い投げを防ぐのはたやすいことのはずだった。
そして事実、その通りだった。
俺の力には羽黒は逆らえなかった。俺を投げることができなかった。
だけれども、俺はすぐに気がつく。
羽黒が、俺の力に逆らえなかったのではないことに。
逆らわなかったのだ。
最初に俺が思ったのは、「俺の左足がどこかに消えたぞ?」ということだった。
もちろん本当にそうだったわけではなく、実際には、背負い投げをこらえようと後方へと重心を傾けた俺の左足を、羽黒の右足が内側からものすごいスピードで刈ったのだ。
背負投げから大内刈りへの機敏な変化。
このコンビネーションが羽黒の得意技の一つだと知るのはあとのことになる。
重心を支えてくれるはずの足の一つが突然消え去れば、これはもう言うまでもなく俺は体勢を維持していられるわけもなく、その上、俺に対して羽黒が小さな身体をあびせたおしてくるのだ。
俺の身体と羽黒の身体がひとつになって、重力の導くまま畳に背中を打ち付ける。
結局のところ、俺が見るのはさきほどと同じく天井と羽黒の大きな瞳。
ただひとつちがうのは、今回は前方に投げられたのではなく、後方へ刈り倒されたということ。
そして身体ごと浴びせ倒してきた羽黒の顔が、とても近いこと。
いまや俺の身体の上には羽黒の小さな身体がのっかってきている。
びっくりするほど軽い。
こんな軽い女の子に、いいように身体をコントロールされて簡単に投げられたり刈り倒されたりするとは。
なんだかもう、感心を通り越して感嘆するしかない。
いや、感嘆している場合じゃない、今、畳の上で仰向けに倒れている俺の身体の上に女の子が身体を重ねているのだ。
お互いの吐息がかかる距離、少し怒りを含んだ瞳で、羽黒が俺をにらんできていた。
羽黒の額から大粒の汗が落ちて、俺の頬をぬらした。
女の子の汗のにおい、いままで意識したこともなかったけれど、どことなく甘くて、軽い。
女の子とこんな体勢になるなんて、初めての体験だ。
普通に考えればおかしな気分になってもいいだろうが、不思議なことに俺はそんなことはみじんも感じなかった。
ただただ、感動していた。
すごい。
こんな小さな女の子が、俺みたいな男をこんなにも簡単に投げることができるんだ。
魔法か何かじゃないか?
俺は自分にのしかかってきている少女の瞳をじっと見つめる。
それはとても綺麗で澄んでいた。
羽黒は、眉をつり上げ、今までよりもすこしだけ低い声で、
「あのね、月山くん」
「あ、ああ」
「危ないから」
「……悪かった」
「試合でも乱取りでもないんだから。いきなりそういうことやられると、私かあなた、どっちかがケガすることになっちゃうんだよ」
「悪い」
「ケガはね、……怖いんだから。一瞬で全部をね、柔道にかけた全部を、あっと言う間に吹きとばしちゃうんだから。気をつけようよ」
「ああ」
目の前数十センチにある羽黒の唇が少し、震えている。
本気で怒っているみたいだ。
わりかし怖い。
いや、ものすごく怖い。
自分の身体をいともたやすく投げ飛ばしたり刈り倒したりする女の子。
怖くて、恐ろしくて、そしてとても――。
なんだろう、これ。
畳の上で俺に覆いかぶさってきている羽黒の瞳の引力に逆らえず、俺の視線は羽黒をじっと見つめ続ける。
お互いの肌の熱気までもが伝わる距離、しばらくそのままの体勢でいたが、クラスメートの同級生にのしかかられている格好に、俺もさすがに気恥ずかしさを覚えてきた。
「ごめん。悪かった、もうやらないよ」
と改めて謝る。
「ん。わかればよろしい。月山君、さすがに疲れちゃってるみたいだし、今日はこのくらいにしておこっか。私は一人でトレーニングしていくけど、月山くんはもう帰りなよ。疲れたでしょ?」
「ああ……」
二人身体を離して立ち上がり、柔道着の襟をただす。
「じゃ、柔道は礼に始まり礼に終わるっていうから。きちんと挨拶だけしよ」
と羽黒が言うのにしたがって、お互いに向かい合い、お辞儀をかわす。
「ありがとうございました!」
俺は大声で心からそう言った。
柔道の黒帯の女の子に、こんなに簡単に投げられ続ける経験なんて、めったにないことだろう。
いやあ、ほんと、いい体験をしたよ、俺がそう思いながら下げた頭を上げると、羽黒はまだお辞儀をしたままだった。
そして、顔を畳に向けたまま、
「あのね、月山くん、今日はほんとにありがとう。人間相手に練習できたの、すっごく久しぶりだったんだ。あのさ、……できれば、これからも、練習につきあってくれないかな」
どう答えようか? と、俺は思った。
いや、正確に言うと、どう答えたら羽黒を傷つけたり怒らせたりしないで断れるだろうか、と思った。
確かに今日はおもしろかった、でもこれを毎日やるとなると話は別だ。
俺はもともと体育会系でもなければ、運動が特に好きなわけでもない。
これからの高校生活、ずっと汗にまみれて柔道……? いやいや、ないない、さすがにそんなことする気はない。
逡巡したあと、俺は日本人なら誰もが使ったことがある、魔法の言葉でかわすことにした。
「ま、そのうちまた機会があったらな」
それが断りの言葉だと羽黒は正しく理解したようで、
「そう……」
と失望した表情を隠しもせずに肩を落とす。
少し心が痛むが、それでもどうしても断りたい理由が俺にはあった。
――悪いな、俺は放課後、妹がかえってくる前に居間のでかいテレビで録画したアニメをみなきゃいけないんだ。
十八インチの自室のテレビより、居間にある五十インチのテレビでアニメを見たい。生粋のアニメファンである俺にとって、わりと本気で重要な問題なのだ。
妹は俺がアニメを見てると露骨に嫌な顔をして邪魔してくる。
よく友達をつれてくることもあるんだが、そのとき俺がアニメなんて見ていようものなら、本気でカバンで殴りかかってきやがる。
だから、あいつが部活からかえってくるまでの二時間だけが、大型液晶テレビでアニメ鑑賞できる至福の時間なのだった。
「じゃあ、俺は着替えて帰るわ」
「うん……。今日は、ありがとね。……あ、そうだ、明日教室とかで私に話しかけたりしないでね」
よくわからないことを言う。
「どうしてだよ」
言おうかどうか迷うような表情をしたあと、羽黒は、恥ずかしそうに、
「教室に居る時の私は私じゃないから」
と言った。
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