4-7-2 わかるわけねえだろ
「……ひどいのはね。ボクはそれを聞かされるまで、母さんにされたことを何とも思ってなかったんだよ」
――母さんが笑ってくれるなら、別にいいかって。
ボクは“女の子”だけど、母さんが喜ぶならそれでもいいやって。
それが虐待って呼ばれるようなことだって気づいたのは、あとになってからだった、と。
そう寂しげに笑ったアマツマは……だが不意に、表情を消した。
「……ねえ、ヒメノ。“ボク”は誰なんだろう」
「アマツマ……?」
何かが変わった。それがわかった。アマツマの瞳から完全に光が消え、こちらを見ているはずなのに、どこも見ていないような。
そんな焦点の合わない瞳で――迷子のように、声だけを続ける。
「母さんは、ボクを“ボク”として育ててくれなかった。鏡を見るたびに思うんだ。母さんはボクをあの人として育てた。あの人みたいになるように、あの人と同じになるようにって。鏡に映るボクは、きっと母さんの望んだあの人だ。じゃあ、ボクは? ねえ。ボクはどこにいるの?」
「おい、アマツマ――」
呼ぶが、反応は返ってこない。尋常じゃない様子で取り乱して叫ぶアマツマを止めようと、ヤナギはアマツマに駆け寄った――
それがそもそもの間違いだった。
「――ボクは、ここにいるはずなのに!!」
「ぐっ!?」
激痛。世界が回転する。何をされたのかわからないまま、背中で衝撃を味わった。
数秒ほどの窒息の間に、アマツマが合気道の有段者らしいことを思い出す。投げ飛ばされたのだと気づけたのは、それを思い出したおかげだった。
地面に倒れて見上げた先に、ずぶ濡れになったアマツマの顔があった。
いつの間にかマウントを取られて、身動きできないまま見降ろされている――逃げられないまま、悲痛な嘆きをぶつけられた。
「誰も、ボクを見てくれない――母さんだけじゃない、あの人だってそうだ! わかってたよ。だけどさっき、はっきりわかった。あの人は、ボクを通して母さんを見てる。ボクを引き取ろうとしたのも、いきなり一緒に住もうって言ってきたのも、全部――母さんに謝りたいからボクを使ってるだけで! ボクのことなんか、かけらも見てない――」
「…………」
「学校のみんなだって!! そうだろう!? みんな、ボクのことを“王子様”って呼ぶ! だからボクはそれに応えるしかなくて――でもそれは、あの人みたいになれって言われたボクが演じている“誰か”だ。“ボク”じゃない! ボクじゃないんだ!!」
嘆くたびに、言葉が途切れるたびに胸に拳が落ちてくる。痛みはない。
だが、だからこそ、衝撃だけが強く響いた。
「キミだって、そうだろう!! キミだって、ボクのことを“王子様”扱いしてた!! キミだって、ボクのことを見てくれない――!!」
「アマツマ!! 俺は――」
「違うって言うの!? だったら教えてくれよ――ボクは何なんだ!? キミにボクの、何がわかるのかを教えてよっ!!」
最後に振り下ろされた拳だけは、本当に痛かった。
肺を突き抜けた衝撃に、呼吸が詰まる。だが本当に言葉を失わせたのは……ヤナギを見降ろしてくる、アマツマのその顔だった。
はらはらと。雨とは違う粒が、ヤナギの顔に落ちて弾ける。唇を噛みしめて答えを待つ顔が、ヤナギをまっすぐに見つめている――
久しぶりに、アマツマの顔を見入った。“王子様”なんて呼ばれる程に整った顔立ち――それも、再び見るその泣き顔に。
最初の一回目も、同じように見入った。アマツマが怪我をして、公園で黄昏てた日。見捨てられて、嫌いになりそうだったと告げられた時のこと。
あの時には、その涙を見てしまったことを後悔した――
だが、今は違う。
観念した。後悔などしていられない。本気で泣いている相手に嘘もつけない。今度はもう逃げられない……
だから。ヤナギは素直に白状した。
「――腹立つくらい、キレイに泣くよな」
「……なっ?」
伸ばした手で、アマツマの頬に触れた。
雨でずぶ濡れになった頬の、新たに増えた一滴に触れる。行為としてしたのはそれだけだ。だが。
「……っ!?」
はじかれたようにアマツマは飛びのいた。まるで汚れを恐れるように。それがなんだか、癪に障りもしたのだが。
アマツマが離れてくれたのは、ちょうどよかった。体の上から重しが消えて、ようやくヤナギはゆっくりと立ち上がる。
口の中に土の味がした。押し倒されたときに、口の中に入ったらしい。ついでに言えば全身泥まみれで、ひどいありさまだった。雨でずぶ濡れ、背中は泥まみれ、体も冷えてきた。状況は最悪だ。
なんでこんなことになっているのか――わからないが、面白くもない。
「わかることなんかあるかよ」
だからつい、不機嫌に吐き捨てた。
「入学してからすぐに、顔がいいってんで有名になった。知らんうちにいつの間にか“王子様”なんて呼ばれ始めて、いろんなところでちやほやされてた。変な奴だと思ってたよ。だけどそれだけだ。大して仲良くもないクラスメイト。俺から見たお前なんて、それだけだったよ」
「……やっぱり、キミも――」
「――一週間前まではな」
「……え?」
呆けたアマツマに。
逆転するように、言葉を叩きつけた。
「ここ最近の一週間で、そっから悪いほうに吹っ切れたよな。なんでか公園で黄昏てたから、心配して声かけてやったら睨まれるわ言い返されるわ。正直散々だったよ。それでも怪我の手当てしてやって、それで終わりかと思ったら風邪の見舞い持ってくるとか、変に義理堅いんだよな。そのくせ雨に濡れたからって風呂入れろとか厚かましいことのたまいやがってよ。ふざけんなっつーんだ。しかも一回だけじゃねえしよ」
「いや、あの……ヒメノ?」
「んでだ。風呂だけならまだしも晩飯食わせろとか一日泊めろとか、いろいろ注文つけてくるしよ。なあ。俺は厚かましい奴って呆れりゃよかったのか? それとも同級生とはいえ異性相手に風呂とか寝泊まりとか、クソ無防備だろうがって説教でもすりゃよかったのか? なあ、どっちがよかった? どうすればよかった?」
話が変な方向にズレたと、アマツマも感じてはいるだろう。泣き顔に困惑を混ぜ込んで、呆けたようにヤナギを見ている。
だが不機嫌に顔をしかめたまま、ヤナギは更に言い募った。
「なあ。一週間だぞ? その程度の付き合いしかない人間に、お前は自分のこと全部わかれっていうのか? 俺に、わかるよって言わせたいのか? それがどれだけ無責任でバカげた話かって考えねえのか?」
「……ヒメノ……」
「わかるわけねえだろ。わかれって言うなら時間をくれよ。一週間でわかることなんて、お前が予想以上に厚かましいくせに無防備な奴ってことくらいしかねえよ」
唇を尖らせて、そう言い切った。
ヤナギが今言ったそれは、“学園の王子様”らしからぬ一面だろう。おそらくは、あの父親とも似ていない箇所に違いない。
迷子とも、捨て犬ともつかぬ目を困惑させて。アマツマがうろたえたように訊いてくる。
「……こういう、ときってさ……わかるよって、言うものじゃないの? ……今の流れ的に、というかさ」
「アホか。しったかぶった言葉で慰めてほしいなら他当たれ……俺が人付き合い苦手の、知ってるだろ」
ふてくされたように言う。実際に、言ってみて面白いものではなかった。
それはアマツマがヤナギに突きつけた言葉だ。あのズル休みの次の日、友達をなくすぞと説教された日のことの。
それを彼女も思い出したのだろう。虚を突かれたようにぽかんとしたアマツマは……だが一度だけ噴き出すと、力なく言い返してきた。
「そうだった……そうだったね。キミは……ボクの予想より、ひどい奴だったね」
「そうだよ。知ってただろ」
「そうだね。キミと過ごした一週間の中で、ボクが知ったことだ……」
そう言って、アマツマは微笑んだ。
声はまだ、弱々しくても。その目にはもう、涙の色は見えなかった。
これでよかったのかどうか。それはわからない。なにしろ、ヤナギは何も解決してはいないのだ。単に話を聞いて、気に食わないところを言い返しただけ。アマツマを取り巻く環境は何も変わってはいない。
それでも。ヤナギに言えることなど、その程度のことしかないのだ。今一瞬だけ迷子の子供を泣き止ますような、そんな程度。
だから、肩をすくめて告げた。
「とりあえず帰るぞ。流石に寒くなってきた」
話が一区切りついたからと言って、天候が忖度してくれるかというとそんなはずもない。夜は寒いし、雨は相変わらず強いままだし、服も泥まみれ。下着まで濡れてきたので状況は最悪だ。このままでは間違いなく風邪を引く。
なので帰ろうと歩き出した背中に、ぽつりと声。
「帰るって……どこに?」
迷子のように不安そうなアマツマに、ヤナギはつっけんどんに言い返した。
「俺んちでいいだろ、別に。一日も二日も大差ねえよ」
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