好きの後遺症

@Irohagashi

好きの後遺症

 もういっそ殺して欲しい。






 深夜26時を回った頃、私はもう誰も居なくなった部屋で泣いていた。

 ついこの間まで、この部屋には沢山の思い出があった。今でも鮮明に思い出せる。


 あなたの趣味だという、ギター。あまり上手くなかったけど、たどたどしいながらに練習している姿が可愛くて仕方なくて…見ているだけで私は満足だった。


 あなたのくれたぬいぐるみ。ゲームセンターに遊びに行った時に、私が気になっていたキャラクター物のぬいぐるみを、こっそり取ってきてくれた。ゲームなんて上手くないくせに、カッコつけて、一体いくら使ったのかは結局教えてくれなかった。


 あなたと一緒に選んだ食器。2人で暮らそうと決めた時、一緒に買いに行った。無機質なものばかり選ぼうとするあなたと、可愛いさや実用性で選ぶ私で喧嘩もしたっけ。


 嫌いだった煙草も、あなたが吸っているものなら我慢できた。ベランダで煙を吐くあなたは、凄く様になっていて私を気遣ってくれているのが凄く愛おしくて。


 夜は2人で抱き合って映画を見たり、そのままテンション上がってキスなんて。

 2人で飲み明かし、語り明かした夜も数えきれない。

 私が風邪を引いた日には、仕事を休んで一日中看病してくれた。結局、あなたも移って2人して寝込んだり。


 朝の行ってきます、夜のお帰りを言うのが、私は凄く幸せだった。

 あなたのためにする料理は、自分のためだけに生きていたあの頃とは、まるで違って。喜んでくれるあなたの顔が浮かぶだけでどんな苦労も辛くないと本気で思えた。


 好きだよと言えば、いつだってあなたは優しい顔で愛してると返してくれる。

 いつかは結婚して、家族も増えて。

 辛い夜も、寒い朝も、穏やかな昼下がりも。全部全部全部あなたがいてくれたおかげで乗り越えてこれた。


 なのにどうして。どうして、私の前にあなたがいない?ついこの間まで、当たり前のようだったのに。あなたは私の前から忽然と姿を消した。


 何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故


 私はあなたのことをこんなに愛しているのに。

 あなたがいない私の生活に価値なんてないのに。

 どうして1人にするの。

 空いた心の穴が大きすぎて何をしても感情が溜まらない。満たされない。

 あなた以外私には考えられなくて、あなたには私しかいなくて、ずっとあの生活が続くと信じていて、なのになのになのになのになのになのになのになのに。


 …何もする気にならない。もう涙は枯れ尽くした。

 いくら泣いてもちっとも満たされないし、この部屋にいる限り忘れる事は出来ない。

 あなたと過ごした5年は私の全てで、それだけが私の存在理由で。

 消えてしまいたいと数えきれないほど願ったが、いまだ私はのうのうと生き続けていて、腹も減る。その事が酷く不快で。あなたがいない癖にどうしてこの体はまだ生きるのをやめないのかと殺してしまいたくなる。

 そういっそ、あなたの手で殺して。あなたがくれた好きが私の心を蝕んでいる。あなたがいない世界でもう私は笑う事が出来ない。


 あなたへの好きの代償が。後遺症が、こんなに重いだなんて。失恋の痛みなんて私は知らなかった。

 心をぐちゃぐちゃに引っ掻き回して握りつぶして屑籠へと捨ててしまいたい。

 あなたを見る事の出来ない眼球なんてくり抜いて、あなたの言葉を聞くことの出来ない耳なんてアスファルトで固めてしまって、あなたの耳に入らない言葉を吐く口はホッチキスで留めて、あなたに触れる事の出来ない手は、ギロチンで切り落としてしまって、あなたに触れられることのない私の体の価値なんてどこにも存在する理由がない。

 煮るなり焼くなり好きにして、いっそ世界の恵まれない子供達の食糧にでもなれれば私の命は無駄にならずに消えられるだろうか。嫌無駄だあなた以外の人間に価値などないのだから。



 ───もう、殺して。











 意識は底無しの泥沼のように深く深く落ちていき、気が付けば窓から日光が差し込んでいた。


 もう、朝か。


 布団から起き上がり部屋の中を見渡せば、そこには以前より少し物の減った見慣れた自室が広がっていた。


 思わず溢れそうになる涙をグッと堪え、立ち上がる。


 どれだけ気持ちが沈んでいようと、時間が止まる事はなくて、今日も私は仕事に行く。


 無音を誤魔化すように、テレビをつけ菓子パンを頬張る。


『またしても都内で変死体が発見されました』


 朝から、物騒なニュースが流れている。連日報道されているこの話題。最近の日本は、何かと治安が良くないように思う。


『全身から花が咲き誇り、死に至るというこの謎の病。時間帯や年齢、場所もバラバラであると言う事から警察の捜査は困難を極めているそうです。専門家の水谷さん。何か意見はありますか?』


 キャスターが、ちょび髭のいかにも胡散臭そうな老人に話を振る。

 この人が本当に専門家なのだろうか。


『原因はあれだね、恋だよ』



 ───スタジオの時が止まる。

 …この専門家は一体何を言い始めたのだろう。放送事故じゃないのか?

 名札を見やれば、脳科学の権威らしい。この人が?

 耄碌したかのような老人は、ほっほっほと特徴的な高笑いをする。


『おっと、失礼。流石に言葉足らずだったかの。

 時に、君は聖痕現象というのを知っているかね?プラシーボ効果でもいい。トランス状態下の人間に本当は熱していない金具を押し当てると、まるで火傷のような跡が浮かび上がるというような話を聞いた事ぐらいはあるだろ?

 思い込みで人は死ぬんだ』


 キャスターは、このまま進行してもいいものかどうかを画面の外にいるであろう人物に確認し、半信半疑という様子で頷く。


『…それが今回の事件に関係あると?』


『もちろん関係大アリさ。人の恋愛感情というのにはそれだけの力があるんだよ。そもそも、この現代では恋や愛だなんていうもののメカニズムすら科学で説明可能なんだ。

 私に言わせれば、それらは脳内の科学物質がもたらした反応であるに過ぎない。

 人間というのは、誰かに恋をしている時、少なくとも脳の十数か所からホルモンや神経伝達物質のような強力な化学物質が分泌されている。恋愛による多幸感や高揚はそれらが理由だ。アドレナリン、ノルエピネフリン、ドーパミンその他etc。その時の脳は、麻薬使用者の脳と非常に酷似している。つまり恋愛感情というのは麻薬なんだ。

 恋は盲目とはよく言ったものだよ、実際に判断能力、視野を大幅に奪われているのだから。

 ではもし、これら脳内の科学物質と異常反応を起こすウイルスがあるとすればどうだろう。人の強い思いを形にした物として花が咲く。これが正しいとすれば───』


 私はテレビの電源を落とした。

 朝から何故、あんな陰謀論者の老人の妄言を聞かねばならない。

 ただでさえ、暗く沈んでいた気持ちに、さらに影を落とすようだ。


「それじゃあ、行ってきます」


 もうそれに返事する人はいないと分かっていながら、私はドアを開けた。



 社会人3年目ともなれば、もう仕事にも慣れたものだ。普通のOLである私に、貯金なんて大してある訳がなくこんな重く沈んだ時でも働かねば生きていけない。

 虚無の心を何とか鉄の檻で囲って覆い隠す。


「初めまして!今日から新しく入社する事になりました、中野翔也って言います!よろしくお願いします!」


 ハキハキと元気のいい声が私の耳に飛び込んでくる。

 そう言えば、今日から新しい人が入ってくると言ってたっけ。


 私の目の前に立っているその男の子は、いかにも新社会人ですと言うような初々しい若い子。

 筋肉質ではないが、何か運動でもしていたのだろうか、しっかりとした体付き。悪いことなんて何も知らなそうな純粋な顔に、私の目線の少し上を行く身長。


 でもその雰囲気は、まるでどこかでみた事があって───


「初めまして、私は宮下栞。分からない事あったら、何でも聞いてね」


 わざとらしく彼の手に触れ、猫撫で声に上目遣いで体を寄せる。

 彼の顔が赤く染まるのを見て、私は誰にも見られぬようこっそりほくそ笑んだ。


 仕事終わり、私と中野くんは会社近くの居酒屋にいた。


「宮下さん、今日は本当にありがとうございました!」


 中野くんは、あまりお酒が強くないのだろうか。既に顔が赤く染まり出来上がっている。


「全然これぐらい普通だよ。中野くん覚えいいし、才能あるんじゃ無いかな」


 耳触りのいい言葉をスラスラと吐き出す。どう言えば相手が気持ちよくなってくれるのか、私は知っていた。

 男なんてみんな単純で、ちょっと乗せてやればほら───


「宮下さんって彼氏とかいたりするんですか?」


 緊張しているのだろうか、手が少し震えている。悟られぬように平静を装っているのがバレバレだ。

 私はわざとらしく微笑む。


「いないよ。こないだ振られちゃってさ。今は新しい恋を探してる所かな」


 それを聞いた中野くんは、パッと顔を明るくさせる。喜びを隠しきれていない。


「そうですか…。彼氏はいない!なるほど」


 そんな中野くんの様子がおかしくて仕方なくて。本当に、バカばかり。

 あぁ、本当に───


「今日、うち来る?」


 私は、悪魔の言葉を口にした。





 私達は、居酒屋を後にし、家へと場所を移していた。


「じゃあ私、お水持ってくるね」


 肩に回された手をやんわりと解き、台所へと逃げる。

 これでいい。これでいいのだ。あなたがいない世界に生きている価値はないけれど、誰かに必要とされているこの瞬間は生きてていいと実感できる。

 それが最高に気持ちよくて忘れられなくて、取り戻せたように感じるのだ。

 たとえそれが、私の心を満たすために利用しているだけだとしてもお互いが幸せならいいでしょう?

 愛が欲しい溺れるほどの愛が。私は飢えている飢えた獣だ、誰かが認めてくれないと死んでいるも同然。


「うわぁぁぁ!!」


 突然、リビングから中野くんの声が響く。


「どうした…の」


 閉めていたはずのドアが空いているのを見て私は全てを察した。

 あれを見てしまったのか。


 彼が腰を抜かし座り込んだドアの向こうには、写真写真写真。夥しい数の写真が貼られた部屋が広がっていた。写っているのは、ついこの間までこの部屋で同棲していた元彼。5年間の思い出が、所狭しと壁に貼り付けられ、床にまで沢山の写真が散らばっている。


「なんだこれ…」


 部屋の前では、絶句した中野くんが座り込んでいる。

 私は一瞬どう言い訳しようかと考えたが、諦める事にした。


「私の大好きな人だよ。ねぇ見てみて、中野くんに凄く似てると思わない?

 この部屋にいるとね、私は寂しくないんだ。満たされて満たされて幸せな気持ちになる。

 辛くて辛くて仕方ない気持ちが癒されるんだ」


「何を言ってるか…分からない」


 中野くんは、まるで怯えるかのような目だ。あぁ、君にこの良さは伝わらなかったか。



「ねぇ、そんな事どうでもいいじゃない?

 そんな事より私といい事しようよ。私を満たして埋めて生きてていいと思わせて?」


 彼に手を伸ばすが、その腕が乱暴に振り払われる。


「触らないでください!!」


 そう言って、中野くんは逃げるかのように荷物をまとめ、飛び出していった。ダメだったか。いい代わりになると思ったのに。


 私は、誰も居なくなった部屋で1人、スマホを開く。

 あなたからの連絡は相変わらず何もない。何も言わずに消えた彼が、何を思っていたかは私に知る由はない。だが、私は彼の隠していたSNSアカウントを知っているのだ。

 あなたが無事に生きてさえいてくれればいいのだ。それだけで私は我慢できるいやそれは嘘だいつかは帰ってくるよねねぇきっとそうだよね?


 震える手で彼のアカウントを開けば、そこには知らない女と楽し気に笑うあなたの写真があった。


 脳が凍る思考が止まる頭が湯立つ我を失う激昂する。

 どうしてお前は誰だ今あなたは何をしているの私は?私は何をしているこの部屋でこの止まった時間で。

 そこにいたのはずっと私だったのに、ずっと私であるはずだったのに。あなたにあれほど言われた好きの言葉が頭の中で今も鮮明に反響している。

 私はあなたの事が好きだったのに、あなたはもう他の誰かを見つけたというの?私はあなたなしじゃ生きていけないのにあなたは私なしでも生きていける。おかしいだろなぁおかしいよなおかしいに決まってるおかしい狂ってる。

 どうして私が理解されない、どうして私だけがこんな思いをしているふざけるなあなたも苦しんで一生私を振ったことを後悔して後悔してもがき苦しんで、でも帰って来て欲しい帰ってきて欲しかった戻ってきて欲しかったもう一度その優しい手で声で体で私を包んで。


 私の手に突然、薄青色の花が出現する。否、生えた。だが、私はそんな事すらどうでも良かった。

 朝起きて目覚めたらあなたが戻って来ているんじゃないか実はちょっと長いお出かけをしていたんじゃないか、あなたはどこか抜けていて私がいないとダメなんだから1人でいるなんて考えられないはずなのだから。

 でもでもでもでもでも違う違った違う違う違った違った。

 手から伝播するように次々と体中から生命力に満ち溢れた花が咲き誇る。

 あなたに私は必要なくてもう私は過去の存在であなたは嘘つきで無責任で私に価値なんてなくて生きている意味なんてなくて。

 もう私は立っていられなかった。体中から力が抜け、ろくに受け身も取れず、つんのめるように床とキスする。口内が鉄の味と共に熱くなるが、反対に体は驚くほど寒い。体中の熱を花に奪われているかのようだ。


 服を突き破らんとする勢いで、体中から未だ生え続ける花を見て、私は今朝のニュースを思い出した。

 私はこの花を知っている。確か、名前はそう。『ワスレナグサ』。

 何故、それが私の体に生えているのか。そんな当たり前の疑問すら浮かばないほど私は衰弱していた。

 薄れゆく意識の中で、最後に考えていたのは相変わらずあなたの事ばかり。


 ワスレナグサの花言葉は、『真実の愛』。

 私はあなたに愛されたかった。







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