第5話 玉音放送をつくった男たち

台湾総督府に到着した摂政時の皇太子を出迎える騎兵隊(1923年4月)

1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に陸海軍中佐に昇任した。12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦「長門」で樺太を視察。10月31日に陸海軍大佐に昇任した。12月、第一皇女・照宮成子内親王が誕生。

即位と第二次世界大戦


1928年(昭和3年)、即位の礼

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。 1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴を受けた(北原二等卒直訴事件)。

1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社親拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全国の公私立学校へ下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀を受ける。1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。


昭和天皇御前の大本営会議の様子

(1943年(昭和18年)4月29日 朝日新聞掲載)

1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対米英開戦を決定し、12月8日に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出した。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に移住した。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に東京都内の被災地を視察した。5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。ポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦の詔書を出した。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送により国民に終戦を伝えた(玉音放送)。9月27日に、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーとの会見の為、駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも親拝して終戦を報告した。

「象徴天皇」として


1956年(昭和31年)、正装姿の昭和天皇・香淳皇后


米国大統領:ロナルド・レーガン夫妻と昭和天皇(右)。1983年(昭和58年)11月9日、東京都にて

1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため横浜へ行幸(1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した)。11月3日、日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の国家主権回復を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后がそろって靖国神社に親拝した。

1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。

1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。記念硬貨が12月23日から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。

1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を体調不良から中座する。以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至った為、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えたが体重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、容態は再び悪化した。8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)[注釈 4]により崩御(宝算87)。神代を除く歴代の天皇で最も長寿であった。崩御後、政府は宮内庁長官・藤森昭一が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と発表した。同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号した。2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。

年譜

1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、青山の東宮御所で生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。

1908年(明治41年)学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)から教育を受ける。

1912年(大正元年)7月30日、父・大正天皇の践祚に伴い、皇太子となる。9月、陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。

1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。

1916年(大正5年)、陸海軍大尉昇任。11月3日、立太子礼。

1918年(大正7年)、良子女王が妃に内定する。

1919年(大正8年)、成年式。陸海軍少佐に昇任。

1921年(大正10年)

3月3日から9月3日まで、イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン=パウエル卿と謁見し、ボーイスカウトイギリス連盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。

11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。

1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める(虎ノ門事件)。

1924年(大正13年)、良子女王と結婚。

1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御を受け、葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行い、践祚して第124代天皇となる。昭和と改元。陸海軍大将、陸海軍の最高指揮官たる大元帥となる。


1938年(昭和13年)1月、陸軍始観兵式において「白雪」号にまたがり帝国陸軍将兵の閲兵を行う昭和天皇


1946年(昭和21年)11月3日、日本国憲法に署名

1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行う。12月、御大典記念観兵式。

1929年(昭和4年)、神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。

1933年(昭和8年)12月23日、第一皇子継宮明仁親王生まれる。

1940年(昭和15年)、皇居前広場における皇紀2600年奉祝式典に出席。

1941年(昭和16年)12月8日、対米英開戦(以降大東亜戦争・太平洋戦争)

1945年(昭和20年)

8月15日正午、国民に対してラジオ放送を通じて「戦争終結」を告げた(玉音放送)。

9月2日、東京湾内・アメリカ軍艦「ミズーリ」上にて日本政府および軍代表が降伏文書に署名する。

1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書を渙発する。

1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖国神社をそれぞれ親拝。

1958年(昭和33年)、慶應義塾大学創立100年記念式典にて、「おことば」を述べる。

1959年(昭和34年)、皇太子(天皇→上皇)明仁親王と正田美智子が成婚。

1962年(昭和37年)、南紀白浜にて、30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。

1971年(昭和46年)9月27日より、香淳皇后とともにイギリス、オランダなどを歴訪する。

1975年(昭和50年)9月30日から10月14日まで、皇后とともにアメリカを訪問する。

1981年(昭和56年)、皇居新年一般参賀において、参集した国民に対して初めて「お言葉」を述べる。

1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。

1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に出席、これが公の場への最後の出席となる。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御(死去)、宝算87歳。

1989年(平成元年)1月31日、追号が「昭和天皇」と定められ、皇居で奉告の儀が行われる。

1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬される。日本国憲法と(現行の)皇室典範を経て葬られた最初の天皇となった。

2014年(平成26年)8月21日、宮内庁が24年の歳月を経て昭和天皇の生涯の公式記録となる「昭和天皇実録」を完成させ、天皇、皇后両陛下に奉呈した。本文60冊、目次・凡例1冊の計61冊で構成され、9月中旬に同庁が全ての内容を公表した後、2015年(平成27年)から5年計画で全巻が公刊される。

系譜

昭和天皇 父:大正天皇 祖父:明治天皇

曾祖父:孝明天皇 曾祖母:中山慶子

祖母:柳原愛子 曾祖父:柳原光愛 曾祖母:長谷川歌野

母:貞明皇后 祖父:九条道孝 曾祖父:九条尚忠

曾祖母:唐橋姪子

祖母:野間幾子 曾祖父:野間頼興

曾祖母:不詳

系図


122 明治天皇



123 大正天皇



124 昭和天皇


秩父宮雍仁親王


高松宮宣仁親王


三笠宮崇仁親王



125 今上天皇(上皇)


常陸宮正仁親王


寛仁親王


桂宮宜仁親王


高円宮憲仁親王





皇太子徳仁親王(新天皇)


秋篠宮文仁親王



悠仁親王



皇子女


1941年(昭和16年)12月7日、太平洋戦争開戦前日の天皇一家

香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。

照宮(てるのみや)成子(しげこ)内親王(1925年(大正14年)-1961年(昭和36年)) - 盛厚王妃

久宮(ひさちのみや)祐子(さちこ)内親王(1927年(昭和2年)-1928年(昭和3年))

孝宮(たかのみや)和子(かずこ)内親王(1929年(昭和4年)-1989年(平成元年)) - 鷹司平通夫人

順宮(よりのみや)厚子(あつこ)内親王(1931年(昭和6年)-) - 池田隆政夫人

継宮(つぐのみや)明仁(あきひと)親王(つぐのみや あきひと、1933年(昭和8年)-) - 第125代天皇(上皇)

義宮(よしのみや)正仁(まさひと)親王(1935年(昭和10年)- ) - 常陸宮

清宮(すがのみや)貴子(たかこ)内親王(1939年(昭和14年)- ) - 島津久永夫人

主な出来事

乃木希典殉死

1912年(明治45年)7月30日の明治天皇の崩御後、陸軍大将・乃木希典が夫人とともに殉死し、波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め、少年時代の昭和天皇(迪宮裕仁親王)にも影響を与えた。

乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは、迪宮に深い感銘を与え、天皇になった後も、記者会見の中で度々紹介している。迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった。迪宮は乃木を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と乃木を敬称をつけなかったのに対し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。

1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を与えた。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。

宮中某重大事件

詳細は「宮中某重大事件」を参照


「御婚約御変更無し」と報じる東京朝日新聞(大正10年2月11日)

1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。

しかし11月に、元老・山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。山縣は西園寺公望や首相の原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、1921年(大正10年)2月に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。

事件の責任を取って、宮内大臣・中村雄次郎は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔により却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月に山縣はひっそり世を去った。

婚礼の儀の延期と関東大震災


1924年(大正14年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と良子妃

1923年(大正12年)の関東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(大きな震災を被った)へ行く予定であったが、当時の内閣総理大臣・加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。天皇は、1973年(昭和48年)9月の記者会見で「加藤が守ってくれた」と語っている。

地震に於ける東京の惨状を視察した裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して、翌年1月に延期した。

後年、1981年(昭和56年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。

田中義一首相を叱責

満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。

田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。

この事件で、天皇はその後の政治的関与について慎重になったという。

なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。

昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため、原武史は地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響によると論じている。

「天皇機関説」事件

1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動を巡って昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。

二・二六事件

1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りも露に「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あると言うのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたとも言える。この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。

この時の発言について、戦争終結のいわゆる〝聖断〝と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に皇太子明仁親王が満10歳になり、皇族身位令の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、任官を取りやめさせている。また、皇太子の教育係として陸軍の軍人をつけることを特に拒否している。

なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子で外務省や宮内庁で勤務した真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。

大東亜戦争(第二次世界大戦)

開戦

1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の

「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん 」

(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

という短歌を詠み上げた。

『昭和天皇独白録』などから、昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。ただし、『昭和天皇独白録』は占領軍に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。戦争が始まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。

共産党委員長も務めた田中清玄は、共産党組織の実態を知り、後に、天皇制護持を強く主張するようになった。1945年(昭和20年)12月21日、昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ。」と回答している。

戦争指導


1943年(昭和18年)6月24日、戦艦武蔵に行幸した昭和天皇(中央)

開戦後から戦争中期にかけては、文字通り世界中で日本軍が戦果をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際に幾つか指示等もしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受け大敗を喫した例がある。 また、昭和天皇は時に、軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった。(ティモール問題)これは、同島を占領して、オーストラリアを爆撃範囲に収め、敵の戦意を奪おうとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。その時の理由が、「アゾレス諸島のことがある。」というものであった。つまり、ティモール島攻撃により、中立国のポルトガルを連合国側として参戦させると、アメリカの輸送船がアゾレス諸島とジブラルタル半島の間の海峡を通過して、イギリスの持久戦が長引くので、却って戦況が不利になると判断したのである。 この意見は、御前会議でそのまま通った。しかし1943年、ポルトガルの承認を受け、イギリスはてアゾレス諸島の基地を占拠し、その後は連合国軍によって使用されている。

和平に向けて

日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の召集を勧めている[注釈 5]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった。

詳細は「近衛上奏文」を参照

そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿の上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は、近衛の言うとおりの人事ができないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった。

8月9日に、連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[注釈 7]。 昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日、玉音放送。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている。

象徴天皇への転換

マッカーサーとの会見写真


マッカーサーとの会見(1945年9月27日)


広島を訪れ歓迎を受ける昭和天皇(1947年)

連合国による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に天皇はアメリカ大使館を訪れ、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーと初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた(しかしマッカーサーが略装軍服だったのは、特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは正装の軍服を着用する習慣が無かったためにアメリカ政府内でも批判されていた)。

人間宣言

詳細は「人間宣言」を参照

1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている。 1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である。

この詔書は「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない。




         6 ポツダム宣言





  甲板で、榎本中将は激をとばした。

「日本の勝利は君たちがやる! 鬼畜米英なにするものぞ! 神風だ! 神風特攻隊で米英軍の艦隊を駆逐するのだ!」

 若い日本兵一同は沈黙する。

 ……神風! 神風! 神風! ……

 榎本陸軍千余名、沖縄でのことである。地上戦戦没者二十万人……


 七月七日、トルーマン米国大統領はドイツのポツダムに着いた。

 そこで、「ポツダム宣言」を受諾させ、日本などの占領統治を決めるためである。

 会議のメンバーは左のとおりである。


 アメリカ合衆国     ハリー・S・トルーマン大統領

 ソビエト連邦      ヨゼフ・スターリン首相

 イギリス        ウィンストン・チャーチル首相               

 中華民国(中国)    蒋介石国民党総裁(対日戦争のため欠席)



  なおトルーマンは会議議長を兼ねることになったという。

 一同はひとりずつ写真をとった。そして、一同並んで写真をとった。

 有名なあの写真である。しかし、トルーマンは弱気だった。

 彼は国務省にあのジェームズ・バーンズを指名したばかりだった。

 トルーマンは愛妻ベスに手紙を送る。

 ……親愛なるベスへ。私は死刑台の前まで歩いているような気分だ。

 ……失敗したりしないか。ヘマをやらかさないか、頭の中は不安でいっぱいだ。

 議題は、

  一、ソ連対日参戦

  二、天皇制維持

  三、原爆投下(米国しか知らない秘密事項)

 

 七月十六日、トルーマンの元に電報が届く。

 ……手術は成功しました。ただ術後経過はわかりません。

              ヘンリー・スティムソン


 つまり、手術とは原爆の実験のこと。それに成功した。ということはつまり米国最新の兵器開発に成功したことを意味する訳だ。

 トルーマンは「ヤルタの密約」を実行するという。

 つまり、八月十五日に日本攻撃に参戦するというのだ。

 それまでのソ連はドイツ戦で大勢の兵士を失ったとはいえ、軍事力には自信をもち、いずれは米国政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、ソ連での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。

 とくにヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。

 しかし、「ソヴィエト連邦」は兵力を失ったかわりに米国軍は核を手にいれたのである。力関係は逆転していた。



  一九四五年八月昼頃、日本陸軍総裁山本五十六はプロペラ機に乗って飛んでいた。

 東南アジアのある場所である。

「この戦争はもうおわりだ」

 五十六はいった。「われわれは賊軍ではない。しかし、米国を敵にしたのは間違いだ」 だが、部下の深沢右衛門は「総統、米軍が賊軍、われらは正義の戦しとるでしょう」というばかりだ。

 五十六は「今何時かわかるか?」とにやりといった。

 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。

 すると、五十六は最新式の懐中時計を取りだして、

「……この時計はスイス製品で最新型だ。妻にもらった」といった。

 そんな中、米軍は山本五十六の乗る大型のプロペラ機をレーダーと暗号解析でキャッチした。米軍はただちに出撃し、やがて五十六たちは撃墜され、玉砕してしまう。

  Bー29爆撃機が東京大空襲を開始したのはこの頃である。黒い編隊がみえると東京中パニックになったという。「急げ! 防空壕に入るんだ!」爆弾のあれ霰…一面火の海になる。その威力はすごく阪神淡路大地震どころの被害ではない。そこら中が廃墟と化して孤児があふれた。火の海は遠くの山からも見えたほどだという。10万人が死んだ。

 しかしリアクションの東京大空襲だった。被害者意識ばかりもってもらっても困るのだ。……恐ろしい戦争の影が忍び寄ってきて……勝手になにもしないで忍び寄ってきた訳じゃない。侵略戦争の果ての結果だった。しかし、これで幼い子供たちが親兄弟を失い、女の子は体を売り、男の子は闇市で働くことになる。がめつい農家は傲慢さを発揮し、高価な着物などと米や野菜を交換した。日本人はその日の食事にもことかく有様だった。



「……お元気でしたか?」

 スティムソンはトルーマンを気遣った。

 するとトルーマンは「私はとくになんともない。それより……」

 と何かいいかけた。

「…なんでしょうか?」

「あれが完成まで到達したそうじゃ。ジャップたちを倒すために『聖なる兵器』などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」

「馬鹿らしい?」H・スティムソンは驚いた。

「日本軍は満州を貸してほしい国連に嘆願しておるという」

「日本軍はドイツのように虐殺を繰り返しているそうです。罰が必要でしょう」

 トルーマンは、

「そうだな。どうせ原爆の洗礼を受けるのは黄色いジャップだ」と皮肉をいった。

 スティムソンは「確かに……しかし日本の技術力もあなどれません。戦争がおわって経済だけが問われれば、日本は欧米に迫ることは確実です」

「あの黄色が?」

 トルーマンは唖然ときいた。

  日本軍の満州処理を国連は拒否し、日本軍は正式に〝賊軍〝となった。

 同年、米国海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で硫黄島に接近していた。

 同年、米国軍は軍儀をこらし、日本の主要都市に原爆を落とす計画を練った。アイデアはバーンズが出したともトルーマンがだしたともいわれ、よくわからない。

 ターゲットは、新潟、東京、名古屋、大阪、広島、長崎……

 京都や奈良は外された。


「さぁ、君達はもう自由だ。日本にいる家族までもどしてあげよう」

 連合国総指揮者・マッカーサーたちは捕らえた日本軍人たちを逃がしてやった。

 もう八月だが、マッカーサーは原爆投下のことを知らされてない。

 捕虜の中に田島圭蔵の姿もその中にあった。

 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。

 米軍たちにとって日本軍人らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹なマッカーサーであった。

「硫黄島戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。

 米軍最強の艦船であった。

 それらが日本本土にせまっていた。

 日本軍部たちは焦りを隠せない。

 ……いまさらながら惜しい。原爆があれば……


  野戦病院ではジュノー博士は忙しく治療を続けていた。

 もうすぐ戦は終わる。看護婦は李春蘭という可愛い顔の少女である。

 中国人は龍雲という病人をつれてきた。

「ジュノー先生、頼みます!」

 中国人はジュノー医師に頭をさげた。

「俺は農民だ! ごほごほ…病院など…」

 龍雲はベットで暴れた。

 李春蘭は「病人に将軍も農民もないわ! じっとしてて!」

 とかれをとめた。龍雲は喀血した。

 ジュノー病室を出てから、

「長くて二~三ケ月だ」と中国人にいった。

 中国人は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。

「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」

「……そうですか…」

 中国人は涙を浮かべた。


  すぐに大本営の日本軍人たちは軍儀を開いた。

 軍部は「なんとしても勝つ! 竹やりででも戦う!」と息巻いた。

 すると、三鳥が「しかし、米軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。

 回天丸艦長の甲賀が「米軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」

 海軍奉行荒井は「あと一隻あれば……」と嘆いた。

 軍人はきっと怖い顔をして、

「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。

 昭和天皇は閃いたように「ならもうやることはひとつ」といった。

「……どうなさるのですか?」

 一同の目が天皇に集まった。

「あと一年以内に朕は降伏すべきであると思う。沖縄では戦争で民間人が犠牲になった」 天皇は決起した。「あと一年以内に降伏である」



  ツィツィンエルホーン宮殿で『ポツダム会議』が開かれていた。

 ソ連対米英……

 スターリンは強気だった。

 どこまでもソ連の利益にこだわる。

 トルーマンはスターリンに失望した。

「…神様は七日間で世界をつくったのに……われわれは何週間もここで議論している」

 会議は回る。

 余興で、ヴァイオリンとピアノの演奏があった。


 ………スターリンはすべて自分勝手になんでも決めようとする。私はソ連に、いやスターリンに幻滅した。………

            トルーマン回顧録より


  そんな中、米国アリゾナ州ロスアラモスで原爆実験成功という報が入ってきた。

 ……壮大で戦慄。まさに空前に結果。爆発から30秒後に辺りが火の海になった。全能の神の手に触れたかのように震えを感じた。………

               オッペンハウアー博士回顧録より


 トルーマンは自信を取り戻した。

 この最新兵器があれば、ジャップたちを終戦に導かせられる。

 原爆の人体実験までできるではないか……

 ……ソ連抜きで日本に勝てる!

 〝手術は八月十五日以降なら、八月十日なら確実でしょう〝

 トルーマンはスターリンに、

「われわれはとてつもない兵器を手にいれました」といった。

 その当時、情報をつかんでなかったスターリンはきょとんとする。

 しかし、チャーチルは情報を握っていた。

 チャーチルは「なにが卑怯なもんか! 兵器使用は国際法で認められた立派な戦法だ。卑怯といえばジャップじゃないか。天皇を担いで、正義の戦争などと抜かして…」

「それはそうですが……」

 チャーチルは無用な議論はしない主義である。

「原爆使用はいかがでしょう」

 チャーチルは提案した。「原爆を脅しとして使って、実際には使わずジャップの降伏を待つのです」

 トルーマンは躊躇して、

「確かに……犠牲は少ないほうがいい」

 といった。声がうわずった。

「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」

「原爆を落とすのはジャップだよ。黄色いのだ」

「そういう人種偏見はいけませんな」

「しかし……原爆を使わなければ米兵の血が無用に流れる」

 チャーチルは沈黙した。

「とにかく……実際には使わずジャップの降伏を待つのです」

 やっと、チャーチルは声を出した。

「……首相………」

 トルーマンは感激している様子だった。


  さっそくゼロ戦に戦闘員たちが乗り込んでいった。

 みな、かなり若い。

 鈴木歳三も乗り込んだ。

 しかし、鈴木とてまだ三十五歳でしかない。

 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。「神風だ! 鬼畜を倒せ!」

「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」

 大塚雀之丞は白い歯を見せた。

 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。

「神風だ!」

 若さゆえか、決起だけは盛んだ。

 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。

「私も戦に参加させてください!」

 董三郎は、隊長の甲賀源吾に嘆願する。

 が、甲賀は「総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。

「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」

 林董三郎はやりきれない思いだった。

 高松がそんなかれをとめた。

「総裁は君を大事に思っているのだ。英語方訳が日本からいなくなっては困るのだ」

「…しかし……」

「君も男ならききわけなさい!」

 董三郎を高松は説得した。

 こうして、神風特攻隊は出陣した。


「日本軍がせめて……きたのでしょう?!」

 病院のベットで、龍雲は暴れだした。看護婦の李春蘭は、

「……龍雲さん、おとなしくしてて!」ととめた。

 龍雲は日本軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。

「龍雲のことを頼みます、ジュノーさん」

 病院に蒋介石総裁がきた。

「あなたがジュノー博士か?」

 蒋は不躾な言葉で、ジュノーに声をかけた。

「ジュノーさん」

「はい」

「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」

「しかし……」

「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで共順……中華民国は共和国です。連合軍とも仲良くやっていけます」

 蒋介石自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。

「誰か! 誰かきて!」

 李春蘭が声をあげた。「龍雲さんが……!」

「……す、すいません!」

 ジュノーは病室にむけ駆け出した。

         7 生還






  スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。

 国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。

 当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。

 当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。

 米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。

 大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……16歳くらいの少年まで神風特攻隊などと称して自爆テロさす。 ひどい状態だった。

 武器、弾薬も底をついてきた。

 もちろん一部の狂信的軍人は〝竹やり〝ででも戦ったろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。

 なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?

 ……米国軍人の命を戦争から守るために。

 ……戦争を早くおわらせるために。

 といった米国人の本心ではない。つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか? それはドイツ人が白人だからである。 なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。

 だが、日本も日本だ。

 敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。

 もう負けは見えていたのだから、                      

 ……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。

 とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。

 しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。

 信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。

 日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。

 只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。

 それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。

 その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。まぁ、妻や女性子供たちは「はやく戦争が終わればいい」と思ったらしいが口に出せば暴行されるので黙っていたらしい。また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。

 そこに軍部のマインド・コントロールである。

 小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、                   

 ……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。

 ……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。

 といった調子のものであったという。

 日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。

 第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。     

 日本は負け知らずの国、日本人は尚武の民である。

 そういう幼稚な精神で戦争をしていた。

 しかし、現実は違った。

 日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。

 そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。

 あげくの果てに、七十年後には「侵略なんてなかった」「慰安婦なんていなかった」「731部隊なんてなかった」「南京虐殺なんてなかった」

 などと妄言を吐く。

 信じられない幼稚なメンタリティーだ。

 このような幼稚な精神性を抱いているから、日本人はいつまでたっても世界に通用しないのだ。それが今の日本の現実なのである。


  一九四五年六月………

 マルセル・ジュノーは野戦病院で大勢の怪我人の治療にあたっていた。

 怪我人は中国人が多かったが、中には日本人もいた。

 あたりは戦争で銃弾が飛び交っており、危険な場所だった。

 やぶれかぶれの日本軍人は、野蛮な行為を繰り返す。

 ある日、日本軍が民間の中国人を銃殺しようとした。

「やめるんだ!」

 ジュノーは、彼らの銃口の前に立ち塞がり、止めたという。

 日本軍人たちは呆気にとられ、「なんだこの外人は?」といった。

 ……とにかく、罪のないひとが何の意味もなく殺されるのだけは願い下げだ!

 マルセル・ジュノー博士の戦いは続いた。



 戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。

 日本軍の不幸はつづく。

 暴風雨で、艦隊が坐礁し、米英軍に奪われたのだ。

「どういうことだ?!」

 山本五十六は焦りを感じながら叱った。

 回天丸艦長・森本は、

「……もうし訳ござりません!」と頭をさげた。

「おぬしのしたことは大罪だ!」

 山本は激しい怒りを感じていた。大和を失っただけでなく、回天丸、武蔵まで失うとは………なんたることだ!

「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。

 森本は下を向き、

「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。

「馬鹿野郎!」五十六の部下は森本を殴った。

「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に米軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」

 森本は起き上がり、ヤケになった。

「……負けたんですよ」

「何っ?!」

 森本は狂ったように「負けです。……神風です! 神風! 神風! 神風!」と踊った。 岸信介も山本五十六も呆気にとられた。

 五十六は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。

 いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。

  大本営で、夜を迎えた。

 米軍の攻撃は中断している。

 日本軍人たちは辞世の句を書いていた。

 ……もう負けたのだ。日本軍部のあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。

「鈴木くん出来たかね?」

「できました」

「どれ?」


  中国の野戦病院の分院を日本軍が襲撃した。

「やめて~っ!」

 看護婦や医者がとめたが、日本軍たちは怪我人らを虐殺した。この〝分院での虐殺〝は日本軍の汚点となる。

 ジュノーの野戦病院にも日本軍は襲撃してきた。

 マルセル・ジュノーは汚れた白衣のまま、日本軍に嘆願した。

「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」

 日本の山下は「まさか……おんしはあの有名なジュノー先生でこごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには日本人の病人もいる」

 関東軍隊長・山下喜次郎は、

「……その通りです」と感心した。

 そして、紙と筆をもて!、と部下に命じた。

 ………日本人病院

 紙に黒々と書く。

「これを玄関に張れば……日本軍も襲撃してこん」

 山下喜次郎は笑顔をみせた。

「………かたじけない」

 マルセル・ジュノーは頭をさげた。


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