第4話 わずかな(?)接近
花野井さんは、前回の最大進出ラインを超えてリビングに足を踏み入れたまま、固まっている。
「そんなに緊張しなくていいよ」
「あっ……はい」
俺は棚から爪切りばさみを取り出しながら声をかける。一瞬、肩がぴくっと動いたのがちらりと見えた。
落ち着いているふうに声をかけたけれど、俺も正直緊張している。
「じゃあ、花野井さんはクロを抱きかかえてもらっていい?」
「分かりました」
花野井さんはそう頷くと、「ごめんね、ちょっとだけだから」とクロに声をかけて、優しく抱きかかえて椅子に座る。
クロは暴れることなく、伸びたまま花野井さんのお腹から膝の上にかけて綺麗に収まる。
花野井さんがお腹を優しく撫でると、喉をゴロゴロ鳴らせ始めた。
「じゃあ、切っていくね」
「はい、お願いします」
花野井さんにお願いされて、俺は慎重に爪を切り始める。肉球を触ると爪を出してくれるので、それを狙って深く切り過ぎないように。
クロは大人しく爪を切らせてくれた。
きなこでもそんなことないのに。毎回爪切りの時は格闘を繰り広げてます。
「懐かれてるんだねー、羨ましい」
一回暴れられて顔を思いきり引っかかれたときを思い出して俺は言う。
「はい。……本当に可愛いです。どうしてこんなに可愛いんでしょうか」
目を細めてクロを見つめてから、真面目にそう言う。
花野井さんはクロのことになると別人になるな。今も、頬を緩ませて手を休めることなくクロを撫で回し続けている。
しばらくして、花野井さんが立ち上がるとおもちゃがバッグから落ちた。
「これ、さっき買ったやつかあ」
「はい。ちょっとだけ遊んでみていいですか?」
「うん、大丈夫だよ」
俺がそう返すと、花野井さんはクロと戯れ始めた。クロはさっきまでのリラックスしている感じからは想像できないくらいのスピードで獲物を一生懸命追いかけていて、何度も飛び跳ねている。
その様子を見ているだけで、つい俺も微笑んでしまっているのを感じた。ずっと見ていられる。
……ずっと眺めているのも怖がられるかな、と思って俺はきなこにご飯をあげることにした。
ちゅーるを開けるやいなや、きなこはどこからともなくやってきて美味しそうに舐め始める。
そんなに美味しいのか、いつかほんとに食べてみようかな。
「あれ、クロもやってきたのか? さっきまで遊んでたじゃん」
ちゅーるの魅力に引き寄せられてか、クロがいつの間にかすぐ近くにやってきていた。
「……」
花野井さんは頬を少しだけ膨らませて、遊びを急にやめて餌に引き寄せられたクロを眺めている。
「あ……ごめん。ちゅーるあげてみる?」
「いいんですか? それなら……」
ほい、とちゅーるを手渡すと、花野井さんは手を伸ばしてくるクロを見ていたずらそうな表情をしている。
「……今度からこの餌にしようかな」
開封してからの食いつき具合に驚いて、花野井さんは呟く。
「あー、でも、ちゅーるばっかりじゃ他のご飯食べてくれなくなるかも」
「そういうものなんですね。……じゃあ、2日おきぐらいにあげましょうか」
「それぐらいがいいかも」
クロがちゅーるを食べ終えてからしばらくして、俺は花野井さんを見送ろうと玄関に立つ。
「今日もありがとうございました。猫村くんが色々教えてくれるので、助かります」
「うん。またなにかあったらどんどん聞いてね」
じゃあ明日学校で、と言おうとした瞬間。花野井さんは鍵を開けようとする手を止める。
「あ、あの……もし良ければ、メッセージアプリ交換してもらってもいいですか? クロのことで質問したいので」
「うん。わざわざインターホン押さなくていいし、名案だね」
今までそんなことは言ったことがなかったのか、顔を赤くして恥ずかしそうに小声で言う花野井さんに、そう返して俺はスマホを差し出す。
「また色々猫のこと、教えてください」
「もちろん、任せて」
花野井さんは柔らかな表情で言い、俺は胸を張ってそう返す。
俺は鍵を閉めたあと、ぼーっとして玄関に立ち尽くす。
あれ……今俺、花野井さんとメッセージアプリ交換した? したよね?
案外、半ば崇拝して遠ざけているのは俺たちの方だったりするのかもしれない。
適度な距離を保って、相手から近づいてくるのを待つのが正解なのだろう。
猫との接し方は人間社会でも応用できることが今日分かりました。
時間が経って冷静になってくると、そういえば相談のためだったな。と考え始めた。
それでも、俺が好きな猫のことで頼ってもらえるのは嬉しい。
通知が来たので確認すると『よろしくお願いします』というメッセージに、可愛らしいアップのクロの写真が添えられていて、俺はまた笑顔になった。
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