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「おはよ~暦ちゃん。久しぶり、相変わらず白いねえ」


 教室につくと、すぐさま一人の女の子が声をかけてきた。僕は最初、彼女があまりにも夏を満喫していたせいで見た目が大きく変わっているせいか気が付かなかったけれど、暦はそれに惑わされない。


「おはよう、宇佐美さん。相変わらず元気な声が聞けて嬉しいわ」


「えへへ、そうかな。私も相変わらず綺麗な暦ちゃんと会えてうれしいよ」


 彼女は宇佐美夕梨。暦の親友とも言える女の子。


 僕たちのクラスの委員長でもあり、うちのクラスではトップの学力と運動神経を持っている。肌の色を見る限り、その豊富な人脈でいろいろな所に遊びに行っていたのだろう。ここまで完璧な人物を僕は出会ったことが無かった。

 それでも、たくさんいる友達の中で宇佐美さんは間違いなく暦のことを最も気に入っている。こうして教室に入った瞬間に声をかけられたことがその証左だ。


「黒宮君もおはよう、隈ができてるけど大丈夫? ずっと勉強してたんでしょ」


 宇佐美さんは自身の涙袋をなぞりながら、にこにこと笑っている。


「隈? 太一、また夜更かししてたの?」


 暦はそう言いながら、僕の頬からぺたぺたと触りだす。

 やがて眼の下にくると隈ができているであろう部分を優しくなでた。それに対して、クラス中から視線が注がれる。もう、このクラスでは幼馴染であるとか普段から介助の関係もあって、体育以外はずっと一緒にいる。

 そのせいで公認の夫婦というかそんな扱いをされているのだ。暦はそれにだけは気が付かないままこうするから、いつも僕だけが視線でいじられて恥ずかしい思いをするのだ。まあ、二人きりでこれをされてもどうしようかという話だけれども。


「ちゃんと眠らないと駄目よ」


 暦のせいだよと言いたかったけれども、実際は僕が勝手にしたことだから文句も言えない。この学校に通うために中学校三年のころからずっと勉強してようやく合格。しかも、そんなレベルで合格したものだから当たり前にクラスのみんなは頭の出来が違っていて、ついていくのも精一杯ななかでなんとかやっている。そのせいで、テスト前にはいつもこうなのだ。


「ほら、早く席につけ~」


 休み明けの気だるげな声を合図に全員が自分の席へと戻っていく。まあ、先生たちも始業式なんて面倒なのだろう。この後のテストに向けて詰め込んできた知識を忘れないように頭の中で反芻しながら、だらだらと話を聞き流すことになるだろう。


「じゃ、また後でおしゃべりしようね!」


 宇佐美さんもそう言って、自分の席へと戻って行った。


 終業のチャイムが鳴り、テストがすべて終わった。最後のテストだからと、最初は緊張した空気に包まれていた教室内もだんだんと緩んできている。テストで焦らされてた分、開放感が強くなっているというのもあるだろう。僕はなんとか一週間、みっちりと勉強したおかげで予想には過ぎないけれども赤点のラインはクリアしていると思う。大きく両手を上に伸ばすと、思わず声が出た。そんな僕の下にぴょこぴょこと宇佐美さんが寄ってくる。


「黒宮君、暦ちゃんのお迎えに行くよ!」


「ああ、そうだね」


 暦は当たり前だけどテストの問題が見えない。だから、別の教室で先生に問題を音読してもらいながらテストを解くことになる。時間割は同じだから、ちょうど暦もテストを終えてゆっくりしていることだろう。宇佐美さんはとても楽しそうだ。この人くらい頭が良いのならきっと勉強も楽しいことだろう。


 暦は視聴覚室でテストを受けているから、ここからは渡り廊下を歩いて第三棟に移り、そこから階段をあがる必要がある。


「黒宮君は夏休み、どうやって過ごしていたの? お盆とかは旅行?」


「いや、基本的には家にいたよ。暦はお盆いっぱいは本家に帰ってるから旅行なんかはいけないし、お盆の後は今日のテストに向けてずっと勉強していたから」


「う~ん、別に私は暦ちゃんと旅行したなんて聞いていないんだけど。普通に家族とかと旅行するのかなあと聞いたつもりだけど、どれだけ暦ちゃんのこと好きなの」


 宇佐美さんは呆れるように言った。僕はただ、素直に答えようとしたらそうなってしまう。家族で旅行にいったのなんて何歳の頃が最後だろうか。まあ、暦と旅行をしたこともないんだけど。僕が戸惑っていると宇佐美さんはどこか遠い目になった。


「もうすぐ修学旅行だから、一緒に回れたらいいねえ」


「その前に文化祭でしょ。まあ、修学旅行はたぶん一緒の班になるだろうからよろしく」


 ふんふんとご機嫌に鼻歌を唄いながら、夕焼けに染まる廊下を歩く宇佐美さん。やがて、第三棟の視聴覚室へとたどり着く。テストは終わっているから、この教室は誰も使わないだろう。僕はその扉を開いた。中でおとなしく座っていた暦はすぐにこちらを向く。


「迎えに来てくれてありがとう、太一、宇佐美さん」


「いやいや、そんなこと気にしなくてもいいよ。暦ちゃんとは友達でしょ?」


 宇佐美さんがあっけらかんにそう言うと、暦は嬉しそうに笑う。全てを兼ね備えた人なのに、宇佐美さんは屈託のない笑みで相手の事を友達だと言える。それが当たり前であるかのように。この声と笑顔でそれを言われれば誰だって友達になってしまうだろう。僕はこのクラスの委員長の肩書は伊達じゃないなといつも思わされる。


「うん、そうね。じゃあ、太一」


「はいはい」


 そんな中でも、例えば体育の着替えとか中学時代の修学旅行。その入浴とか男女で明確に区別しなければいけない場合を除いて暦は僕を指名する。それは構わないのだが宇佐美さんがにやにやしながらこちらを見てくるのが嫌だ。


「あ、そうだ。話さなきゃいけないことがあるんだった」


 宇佐美さんは手を叩いて思い出したらしい。暦の手がびくんと震える。


「あ、ごめん。びっくりさせちゃったよね。それで、二人に、というか暦ちゃんに手伝ってもらいたいことがあるんだけど、話してもいい?」


「手伝ってもらいたいこと?」


 まあ、実際は暦に何かを頼むということは大抵、その隣に僕がいることなので二人というのは間違っていないのだが、なぜ言い直したんだ。しかし、そんなことは気にせずに宇佐美さんは話を続ける。


「実は、演劇部の友達が急に体調を崩しちゃって代役を頼まれたの。それでとりあえずは引き受けたんだけど演技が不安で。暦ちゃんも知ってる題目だから実際に今週末にある演技練習を見に来て欲しいの」


「で、でも……」


 宇佐美さんは熱心にお願いしているが、暦の戸惑いもわかる。演技について僕も詳しいわけではないけれど目が見えない暦にはその役割は重いのではないか。声や間合いなんかで伝わるものもあるだろうけど、それと同じくらいに表情は身振り手振りが大事なはずだ。それを感じ取ることのできない暦に演技の良しあしが宇佐美さんの求めるレベルで判断できるだろうか。


「お願い! 他の人に頼むことも考えたけど、やっぱりみんなお世辞で演技を褒めてくれたり、急なことだから仕方ないって勝手に言い訳して褒めてくれそうだから。その分だけ暦ちゃんはしっかり本質を見てくれるというか、正直に言ってくれるというか」


「そ、そうかな……」


「あと、やるからにはやっぱりすごい演技をしたい。代役だったとしても。それで、すごい演技って言うのは全ての人にちゃんと伝わると思うから」


 宇佐美さんは常に真剣だ。あまりにも真剣すぎるがゆえに、たまにずれたことを言ってしまう。それが彼女の魅力ではあるけれど、今回は何となく正しいような気がした。暦だって別に変な意味に捉えているような印象は持っていない。そして、暦ははっきりとこう言った。


「わかったわ。私でできることで良ければ。宇佐美さんにはいつもお世話になってるし、私は演劇を見るのも好きだからね。太一もそれでいいでしょ?」


 僕は考える暇もなく答える。それ以外の選択肢を僕は持たないから。


「ああ、いいよ。どうせ僕は暇人だ」


 暦は嬉しそうに笑った。

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