盲目探偵・白坂暦の事件カレンダー

渡橋銀杏

1頁目

「あっつい」


 いつから夏休みというのは八月の三十一日に慌てて絵日記を完成させるという風情が失われて、二十五日から始業式になったのかと心の中で誰に向けたわけでもない恨み言を呟きながら、まだ蝉たちの大合唱が鳴りやまない外に出た。先ほどまでクーラーの効いた部屋に捕らわれていた僕の体は、その暑さにはとても耐えきれずに皮膚の内側に溜まっていた汗が間欠泉のように噴き出してくる。


 特に、ここ一週間は休み明けのテストを対策するためにほとんど家に籠って勉強していたせいで暑さへの耐性なんかどこかへと吹き飛んで、今も冷凍庫の中に眠っているソーダ味のアイスが既に恋しい。


「いってらっしゃい!」


 そんな母の言葉に背を押されて、僕は一歩を外に踏み出した。


 郊外のベットタウン、高度経済成長に伴って都市圏の人口が爆発的に増加したためその人たちの住む場所として用意された電車で一時間くらいの田舎過ぎず、都会過ぎずちょうどいい場所。


 ただ、それにももちろん不便な点はあって無理やりそのころのマネーパワーで山を均したりするものだから、こうして坂の斜面に立った家が連なっている。最寄りの駅まで、行きは降るだけだからまだしも帰り道は電車でゆっくりと休んだ後にこの険しい坂を上るのかと思うとそれだけで僕を憂鬱にさせる。さらに、これから僕は幼馴染を迎えに少しだけこの坂を上らないといけない。小さくひび割れたアスファルトの隙間に、僕の額から落ちた汗が吸い込まれていった。


 坂の上を眺めると、夏らしい入道雲といやになるくらいに青い空。まだ開発されていない山の自然を背景に一軒の豪邸が立っている。自分の住んでいる3LDKの一戸建てに文句があるわけじゃないし父親が頑張って働いてくれているのはさすがに高校二年生にもなれば充分に理解しているけれど、あの豪邸と我が家が同じ単位で数えられるのには違和感を覚えるくらいには、かけ離れていた。そして、今からその豪邸のチャイムを押しに行くのだ。もう何度も経験しているはずなのに、なんだかそのまま飲み込まれてしまいそうでどうもなれない。品の良すぎる建物は、魅力と共に怖さを兼ね備えている。


 それは僕がミステリーに脳を犯されているからだろうか。


 坂を登ること五分、一歩ずつ踏みしめて上がってからようやく豪邸の前についた。ここからさらに庭を挟んで建物があるけれども、その手前でインターホンを鳴らす必要がある。もうこのインターホンを鳴らすのは数えきれないほどにしたものだから緊張なんてすることなく、歩ききったそのままの勢いで、塀にもたれかかるようにしながらその余韻でボタンを押した。


「どうぞ、お入りください」


 チャイムを鳴らすと、こちらがどちら様か確認することなく丁寧な口調の返事がインターホン越しに返ってくる。僕はそれを聞いてから門をくぐる。この門をくぐってからも庭の中を見回しながら進んでしまい、ようやくドアの前についたころには汗が腋の間をすり抜けていった。


「おはようございます。黒宮様」


 それこそ秋葉原なんかに行けば会えるような、メイドと言われてイメージするような恰好をした若崎さんがぺこりと頭を下げてくる。その、あまりにも非現実的な光景にはまだ慣れない。昔は良く一緒に遊んでもらったけれども、小学生の低学年にもなったころにはあまりにも整ったその顔に緊張するようになり、いつの間にか敬語を使うようになっていた。


「おはようございます、暦はどこにいるんですか?」


 普段は僕が迎えに来る頃には寝ぼけ眼のままパジャマでトーストを咥えている若崎さんの隣で暦が出迎えてくれるところなのに、今日はその姿が見えないし気配が感じられない。休み明けでまだ眠っているかと思って僕が聞くと、メイドの若崎さんは静かにつぶやくように言った。


「お部屋にて絵画を楽しんでおられます」


 この豪邸の主、その一人娘であり、僕の幼馴染である白坂暦は、昔から絵を書くのが好きだった。なぜ、こんなところに住んでいるのかとか、そういうことは知らないけれどももう物心がつく前からずっと一緒にいるせいでそんなことを考えるまでもなく隣に暦がいるのが当たり前であり、わざわざそれを考えるのはよほどの暇人がすることだろう。少なくとも、今の僕にそんな余裕はない。


「どうぞ、こちらへ」


 若崎さんの出してくれたスリッパを引っかけて、豪邸の中に足を踏み入れる。豪邸の中には若崎さんの他にも数人のメイドさんがいて、テキパキと移動し、仕事をしていた。若崎さんは基本的に暦の付メイドという扱いらしい。どうしてここで仕事をしているのかはやはり知らない。

 豪邸の最も南にある部屋。日当たりの良いその部屋には、KOYOMIとローマ字で書かれた札が掛けられている。そのドアを僕はいつも通り、三回ほどノックしてから部屋に踏み込んだ。


「暦、入るぞ」


 その部屋の主、白坂暦は水彩絵の具で絵を書いていた。彼女は、そのカーキ色の混ざった髪を頭の後ろでくくって、耳にはイヤホンをつけて絵を描くことに集中している。しかし、暦には僕が入ってきたのは気づいているはずだ。彼女は絵を描く時、まるで周囲に何も存在していないかのように見えるほどに集中してしまう。でも、集中しながらも彼女の耳は周囲の音を聞き取っているのだ。なんだか、どことなくオーラのある背中は細くて可憐なはずなのにどこかとてつもなく大きく見える時がある。


「おはよう、太一。もう学校に行かないといけない時間?」


 こちらがドア越しにかけた声なんて、イヤホンから流れる音楽にかき消されて聞こえないはずなのに暦はすぐに僕であると察する。まあ、この部屋に入ることを許されているのは暦の付メイドである若崎さんと僕くらいのものだから暦からすれば当たり前にわかることなのだろう。

 筆をパレットの上に置き、イヤホンを外しながらこちらを向いた暦は朝日だけしか光源の存在しないこの部屋では溶けてしまいそうなくらいに白い。勉強机の上に置かれたテディベアや、飾られている青色のトルコ桔梗ですらもなんだか霊的なものに見えてくるのは暦の持つオーラによるものなのか。


「おはよう、暦。まあまだ時間に余裕はあるけど早めに行くにこしたことはないだろ」


 すると、暦は少し考えてから言った。


「そうね、新学期の一日目なんだからみんなと話したいこともたくさんあるわ。すぐに準備するから部屋の外で待っていてくれるかしら。若崎さん、着替えの手伝いと出かけた後に部屋の片づけをお願いできるかしら。あと、制服にアイロンはかけておいてくれた?」


「かしこまりました、お嬢様。制服はこちらに完璧な状態でございます」


「いつもありがとうね。じゃあ、太一を追い出しておいて」


 その部屋は、彼女の絵で埋め尽くされていた。様々な種類の画用紙が床に散らばっている。そして、その部屋の中心で彼女はイーゼルにキャンバスを置いて絵を書いていた。しかし、その絵は色使いも無茶で、赤い木らしきものや、黄色い湖らしきものが見える。これも暦の絵をずっと見てきた僕だからわかるだけで普通の人には何を描いたものかはわからないだろう。そもそも、この絵に意味なんてあるのかと聞かれると僕にも分からない。 

 白坂暦は昔から絵を描くことが好きだった。それだけの事だ。


 部屋から追い出された僕は、何をするでもなくぼんやりと豪邸の中を眺めていた。こんなところに住むのを憧れたりもするけれども、きっと僕みたいな小市民がこんなところに住むと家に食われてしまいそうだ。服に着られているとかそういう感覚。この家は白坂暦が実質的な主であることが良いのだろうと、そんなことを考えていた。

 五分もすると、暦は着替えを終えて部屋から出てきた。髪型はポニーテールをほどいて、その長い髪を胸のあたりまで下ろしている。流水のようにほろほろと美しく揺れるその髪に、僕は性懲りもなく見とれてしまう。それを見透かしているかのように、暦は小さく手を添えて笑った。


「お待たせ、いつもありがとう」


「別に……」


「そういう、本当は優しいのにありがとうって言われると恥ずかしがるところ、好きよ」


 暦は、たまにこういうことを平気でいうから困る。今のは完全に不意を突かれた。僕は彼女の顔を見れなくて、視線をそらすと暦はまた笑うのだ。魔性の女というのだろうか、全て暦の掌の上で踊らされているような気がする。


「ふふっ、からかってごめんね。今日もお願いします」


 暦の右手は繋いでいた若崎さんの左手を放し、代わりに僕の手を求めて空中をさまよう。僕はそれをしっかりと捕まえて、優しくつないだ。二人で手をつないで、学校まで歩いていくのはもうずいぶん前から続いていることだ。別に周りから何か言われるわけではないけれど、それでも僕の心臓はいつからか、いつもよりも幾分か大きく動いている気がする。


 暦はそんなのもお構いなしで、本当にいつも通りの様子で僕に話しかけてくる。それを暦は楽しそうにしているし、どことなく楽しんでしまっている自分もいる。


 白い制服と、そこから伸びる雪のように白い肌。その手が自分に預けられていると思うと本能の部分でドキドキしてしまうものがある。しかし、今からそんなことを考えていては学校につくまでなんてとてもじゃないけど心臓が持たないから、落ち着くためにゆっくりと息を吐きだした。


「では、いってらっしゃいませ。お嬢様」


「うん、行ってきます。今日は冷やし中華が食べたいわ。太一もどう?」


「かしこまりました、黒宮様の分も用意しておきます」


 僕は暦と手をつないで、玄関を出て坂を下る。この坂を下るのは、暦の家に来た時と学校に行く時と、そして家に帰ってくる時だけ。その全てが同じ道であるのにまるで違う場所のように感じるのはなぜだろうかと思ったけれど、それはきっと暦が隣にいるからか。もう話しつくすほどに言葉を交わしたはずなのに、ネタは尽きない。


「そう言えば、今日のテストはきちんと対策できた? お盆に本家から帰ってきて太一を呼ぼうかなと思ったけど、勉強しているだろうと思って連絡はしなかったの。ずっと家で絵を描いているのも退屈だったわ」


 暦の言うとおりに、テスト対策に追われていた僕は暦の家にいくのは一週間以上ぶりだった。僕も暦に連絡をとって教えを請おうとも思ったけれども、どうしても自分の中にあるプライドというかそういう完璧には言葉にできないものが邪魔をしてそれをできなかった。そのせいで寝不足なのだが、うっすらと隈ができていることを暦は気づけない。


「まあ、大丈夫だよ。一応、勉強はしたし」


 大丈夫……なはずだ。


「へぇ、真面目なのね。でも、どうしてこの高校を選んだの。中学二年までの太一は勉強ができるって感じでもないし、どちらかといえば嫌いだったのにこんな進学校を選ぶなんて理由がわからないわ」


 理由。理由なんてものは一つしかないけれどもそれを言うには暦だけにはできない。しかし、こういう時に察しの良さがあるから変に黙っていると本心を探られてしまいかねないのですぐに嘘をついた。


「ほら、もうすぐある文化祭も本格的だし学校説明会でも楽しそうだなって。なんていうんだろう、勉強ができる分だけ自由があるみたいな。そんな校風が気に入ったんだよ」


「ふうん。ちなみになんだけど」


「ん?」


「こうして手を繋いでいるから、嘘をつけばすぐにわかるわよ。明らかに動揺して指が動いているもの。それに、なんとなく噓をついていそうだってばればれよ。ま、本当の理由は聞かないでおいてあげる。太一の事だから私が傷つくような嘘を言うようなことはしないだろうし」


「ああ、そうしてくれるとありがたいよ」


 やっぱり暦には隠し事をするのは難しい。別に何かやましいことがあるわけではないけれども。本当の理由を告げるにはあんまりムードが整っていないと思ったから、とりあえずはそれで済んで良かった。そのまま電車に乗り、学校へとつく頃には僕のドキドキもようやく落ち着いていた。


「今日もありがとう、太一。これからもよろしくね」


「ん?」


 特に何も感謝されるようなことをした覚えのない僕はその言葉に戸惑う。


「いや、いつもこうして学校に来ることができるのは太一のおかげだから」


「そういう話はしないって約束だろ?」


 以前の暦はこういうことを言う性格だった。だけど、これは僕がしたくて勝手にやっていることだからそんなことは気にしてほしくない。それはある意味では仕方のないことだから。


 白坂暦はある時期から、視力を失っている。

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