第25話 証明

【過去】

「ねえ、お父さん。お母さんが」


 その時の母は、もう十歳の少年が見てわかるほどに衰弱していた。このままだと、命を落とすことも、医者にかかっても仕方がないことも。顔中に斑点ができて、頬は骨が出っ張っている。もう、美しい顔の面影はなかった。


「いいのよ。それより、スープを作るから少し待っててね」


 そう言って体を起こそうとするが、もう手に力が入らないのだろう。上半身を支えようと踏ん張った右手は関節でかくりと曲がって、崩れ落ちる。フェンドリックはそれを必死に支えた。しかし、そのまま力なく二人とも倒れてゆく。


「ねえ、お父さん。なんとかしてよ!」


「いいのよ。ああ、私のために泣いてくれるの。ありがとう」


 母の手。


 暖かかったはずの手にはぬくもりはなかった。髪の毛ごしにも、ごつごつとした骨の感触が伝わる。彼の父は、そんな光景を見ていられなかった。だからこそ、こうするしかなかった。最愛の、そして最悪の決断だった。


「今から、栄養のあるものをもってくる。お前はそれを母に食べさせてやりなさい」


 彼女が眠りについた後、父はそう言った。そして、それっきり顔を見せることはなかった。少年は、その言葉の意味をその時に理解しなかったことを後悔する。


 代わりに、隣の家に住んでいたおばさんが、食材を届けてくれて、さらには料理までしてくれた。それはフェンドリックの好きなチキンスープ味だった。しかし、母の作るものとは違う。しかし、そんなことを言っていられる場合じゃなかった。


 彼は、眠る母の口にスープを掬って近づける。


 もはや彼女の体は、流し込まれるスープを拒むことはしなかった。ただ、温かいスープが喉から食道を通って彼女の体に染みわたる。


 それが、彼女の救いであり、また尊厳の破壊だと。存在の否定だとは知らずに。


「な、どうして?」


 その夜、母は長い眠りから目覚めた。そして、その母を必死に看病していたフェンドリックも疲れて、母の体に寄り添って眠っている。彼女はその骨ばった手で、優しく包み込むように髪を撫でた。久しぶりに我が子に触れられたことが嬉しかった。


 しかし、その瞬間に彼女はあることに気が付いたのだった。


「どうして、体がこんなにスムーズに動くの?」


 ベッドでゆっくりと眠ることができたから、体力が回復しているのは納得できるけれども、その体はもうほとんど思い通りに動かないはずだった。そして、その一晩中を考えた結果、愛する人間が至る行動が浮かんできた。


 それはとても悲しかった。



 少年は、自分の赤くなった頬とじんじんと広がる痛み。


 そして、どうして母が涙を流しているのかがわからなかった。


「ど、どうして……」


「どうして止めなかったの!」


 彼女はそう言って泣いた。少年は、なにかをしたのではなく、なにもしなかったことを責められたのだと理解した。少年は母が泣き止むまで、背中をさすり続けていた。そして、彼女から最悪の事実を告げられた。


「あのお肉は、父さんの……」


「ええ、そうよ」


「うわぁぁぁぁ」


 少年は心が壊れるようにと、叫び続けた。体の内側から大きな音で壊してしまえと言わんばかりに大きな音で叫び続けた。それをしても、戻らないとわかっていても。


【レジスタンス陣営】


「それで、どうしたの?」


「母は父と同じ過ちを犯した。しかし、それは決して自ら望んでのことじゃない。お前たち、普通の人間が迫害したからだ。街から追い出したからだ」


 確かに、食人族やその血を引く人間への迫害意識は強い。それらを肯定するわけではないが、当たり前の話だ。彼らは人を襲い、人を喰らう。恐怖から、もしくは復讐心から彼らを迫害するのはありうる話だ。


「だいたいわかったわ。それで、あなたはそれからどうしていたの? 確かにあなたの力は傭兵としては魅力だけど、それなら軍に仕官すればより多くのお金を得られたと思うんだけど。闇ルートならば高値だけど人肉も売られているはずよ」


 特に、共和制時代は軍人など通りをあるけば女性がほうっておかないほどにお金を稼いでいた。毎日、色街で夜が更けるまで遊んでも余るほどだったという。


「それはできないんだよ。闇市場は立ち入ることを許されなかった」


「食人族だから?」


「ああ、そうだ。誰がしたことかはわからないが、軍務にも闇市場にも生きられない俺が生きるには戦場で人を殺すしかなかった。幸い、体は丈夫で強かった。そのお金で、他国から奴隷を買って、それで」


「そうするしかなかったのね。ごめんなさい」


「は?」


 フェンドリックはまさかナナがそのような反応をするとは思っていなかった。奴隷というワードと、その行く末がどうなるかを容易に想像できれば、すべての人間は蔑みの目で見てる。それは奴隷商人ですらも。彼らは何も見ないふりをしているが。


「生きるためには仕方ないのなら、私はそれを認めるわ。だから、二人でこれから先をどうするか考えましょ。きっと、なんとかできるはずよ。食人族の人たちが暮らしていけるような未来を、あたらしく生まれるアンドロマキアで実現するわ」


 フェンドリックの動きが止まる。リノも、何もしていない。ナナはただ、黙って彼を見つめる。


「フフフフフフ」


 フェンドリックは高笑いする。


「フハハハハハハハハハハハハ。そうか」


 その視線は、すでにナナを捕えている。それは、擬人兵ではなかった。ナナは少し怯える。こんな感覚は初めてだ。殺されるとそう直感した。


「もういい。お前も希望を語るだけだ。みんなそうだ。迫害なんてだめだ、暴力だなんてよくない、みんな平等で平和に暮らせる国を作ろう。そんな戯言なんて聞き飽きた。あそこまでの繁栄をしたアンドロマキアでもどこまで腐っていた?」


 それに対して、ナナは語る言葉を持たない。事実だから。


「奴隷だって禁止されているけれども、大富豪たちは平然と飼っている。闇市場で魔道具や異国の売女が高値で売られ、少し帝都を離れれば殺人が一日に片手では数えきれないほどに起こる。街で子供が寒さに凍えていても何もしない」


 その言葉を聞いた瞬間、ナナは寒くなった。捨てられていた時の感覚が薄く、けれども確かに蘇ってきた。あの時の事は、思い出したくはない。


「平和ってなんだ、平等ってなんだ、愛ってなんだ?」


 ……


「証明して見せろ! 実現して見せろ!」


 そして、フェンドリックが再び動き出そうとした瞬間だった。


「いいよ、僕がそんな国を作ろう」


 一人の男が、戦場に割って入ってきた。あまりにも澄んで、聞きやすい声だった。

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