Number9
渡橋銀杏
始まり
第1話 出発
「パパ、行ってきます。私にパパの加護を」
ナナは思い切り、握る手に力を込めて亡き父の幸福を祈った。
「パパ、ナナの事は俺にお任せください」
ステンドグラスから差し込む光が、二人を照らした。空気中の埃がキラキラと輝いている。それすらも、寂しさを覚えるほどにナナは感傷に浸っていた。きっと、父は見ていてくれるだろう。国のために働くナナの事を。
既に古びた村の教会は、誰も手入れすることなく数年が経った。かつては結婚式があれば、村中総出でお祝いし、誰かが亡くなれば村の皆で弔った。春には豊作を祈って祭りをして大人たちは夜をお酒とともに明かす。村人がみんなで集まり、炎を囲んで騒ぐ様子を見ているのが、ナナは好きだった。
しかし、他者を祝う事、死者を弔うのは余裕があるものがする行為である。
豊作は誰もが祈っているが、祭りをするほどの余裕はない。幸い、神は心が広いようで作物を捧げなくとも、天災を引き起こすことも無い。かつての繁栄していたアンドロマキアは平和な日常を与え、パンを与え、娯楽を与えた。
それらは人々に余裕をもたらし、思考する時間を与えた。
つまり、思考とは贅沢品なのである。死者を弔うことも、宗教、ひいては思想や思考に基づいたものであり、人々は救われるためにその道へ縋った。今の人生には満足している、ならば次の生活をより良いものにしようと考えた結果だ。
しかし、宗教が最も流行したのは平和な時代で、宗教によって戦争が引き起こされたことは皮肉以外の何物でもないだろう。本当の貧困を知っている者たちは、神などが存在しない事を知っている。ただ、自分の心をどこかによりかけるための宿り木として、自らに神の存在を信じこませているのだ。
もちろん、ナナもそんなことは理解している。
しかし、敬愛する亡き父に祈りを捧げることは、もう習慣と化してしまった。物心つく前から、毎日のように手を合わせてきたから。村から少し行ったところにある山で摘んできた、父の好きだった花を手向ける。
ここまでの話を逆説的に受け取れば、ナナの幼き頃は平和であったと言える。
「さあ、行くわよ。スガリ、リノ。早く準備をしなさい」
「わかりましたよ」
スガリはぶつぶつと文句を言いたげだったが、素直に馬の準備をする。
彼は、どうしてもナナが自身の上司であるという事に対する違和感が拭えきれていないのであろう。妹分のナナが、自分に指示を出すのは慣れないはずだ。
しかし、それはナナも同じである。
ナナ=ルルフェンズ。
人が彼女を評する時に、まずは口々にこういうのだ。
『若き天才司令官』であると。
その名前を大陸に知らしめたのは、ある局地的な戦闘だった。その場で、ナナはわずか十歳ほどながら見事な指揮を見せて、ついには敵軍をさんざんに打ち破ったのだ。もちろん、大多数の人数を指揮して戦うのはもちろん才能だ。
しかし、寡兵を指揮して大多数の敵を破る少女。
それはきっと、人々からすれば英雄に見えることだろう。
「私なんかは大したことないのにね」
「天才の謙虚な姿勢ほど、嫌みなものはないな」
眼鏡をかけたこの男は、スガリ=ルルフェンズ。
ナナの補佐官、つまりは立場上の部下に当たる。
しかし、彼はナナに敬語を使わない。もちろん、ナナもスガリに敬語を使わせたいとも思わない。公的な場ではスガリが自ら判断して使用することもあるが、ナナは毎度ながら背筋が冷えるような思いをしているのだ。
小さなころからこの村で育ったナナとスガリは、兄弟同然の存在であった。
年齢は、スガリがナナよりも一つ上。しかし、この人が少ない村では子供がみんな揃って昼には野山を駆け回り、川で釣りをする。夜にはぼろぼろの本を読み、一緒の家で横になって眠る。そこには、家族の愛のようなものが確かに存在する。
ナナ、スガリ、そしてここにはいないハナという少女。
この三人が、人口が百人にも満たないこの村で生きる子供たち。
「思えば早いね。まさか、あの頃にはこんなことになるなんて思っても無かったわ」
「きっと、五年後も同じことを言っているだろうさ」
スガリの皮肉ともとれる冗談が、おもしろくてついナナは笑う。
そして、五年前のころを思い出していた。
アンドロマキア帝国。
かつて、この大陸に栄えていた巨大国家。
今、ナナのいるこの村もかつてはその領土であった。
絶対的な権力を持った皇帝が政治を取り仕切り、次々と領土を拡大していた。
最大版図の広さを表す言葉として有名なものは、
『その領土を回る時には、人生をかける必要がある』
あまりにも広い領土を回るには、移動手段の乏しいこの世界では時間がかかりすぎる。十代ならば青春を、二十代ならば結婚を、三十代ならば働き盛りの時期を犠牲にする必要がある。四十代を過ぎた体には、あまりにも広大すぎる領土だ。
アンドロマキアの中心都市は大陸でも重要な街道を集めた場所にあり、交易も盛んだった。まさに、富も名声も、全ての人間が持つべき欲望が渦巻いていた。
まさに、この世の春という場所があるならば、当時のアンドロマキアであった。
そう、かつてのアンドロマキアであった。
「昔の事を振り返るのはよしましょう。二人ともまだ若いのに、そんなことばかりをしていては年を取ります。それよりも、我々は早く帝都へ向かう必要があります」
空想にふけるナナを、再び現実へと引き戻したのは、もう一人の補佐官。
リノ=ルルフェンズであった。
リノはしっかりとした女性だ。
ところどころ抜けているナナやスガリを支えてくれている。もしもナナに母親がいれば、きっとリノのような女性だっただろうと思っているくらいだ。常に冷静沈着で、寡黙。だけれども、しっかりと温かみを感じることができる。
「ええ、リノ。とにかく、急ぎましょ」
ナナは帝都の方向へと目を向けた。しかし、それを阻むものがいる。
「うわあっっっ! 嫌だぁ!」
「こら、泣かないの。これも国のため、ひいては村のためだから」
ナナの胸に顔をうずめているこの少女の名は、ハナという。その顔はくしゃりとゆがんで、鼻水と涙で原型をとどめていない。ナナが頭に手をおいてゆっくりと宥めるが、その効果は感じられなかった。わんわんと、山の向こうにまで響き渡るような大声で泣きわめいている。
「なら、また帰ってきてくれる?」
ハナのまるで宝石のように綺麗な緑色の目が、ナナに突き刺さる。もちろん、ナナは軍人としての責務を果たすために旧帝都へ行くが、心は村にあると信じている。自分のなすべき仕事を果たせば、いつかはこの村でゆっくりと暮らしたい。
そんな想像を抱いていた。
「わかった。約束する。必ず、私は戻ってくるから」
「約束だよ」
そう言うと、ハナはようやく泣き止んだ。そして、手がふっとナナの服を掴む力が弱まって離れる。ぶらんぶらんと、小さな体の横で揺れていた。
「あなたも、成人したら旧帝都に来てください。歓迎しますよ」
リノが、ハナに声をかける。
「その時には、可愛がってやるよ」
続いてスガリも。その言葉にこくんと頷いて、ハナは涙をぬぐった。
「じゃあね。私たちの活躍を祈っていて」
そう言ってナナは、村に背中を向ける。マントが、風に揺れた。
「お手紙書くからね!」
ハナがぶんぶんと手を振っているのはわかったけれど、これ以上一緒にいると涙があふれてしまいそうだった。ナナは振り返らずに、こぶしを掲げた。
レジスタンス、反抗する者。
わずか十六歳の少女が加わることで、時計の針はスピードを上げる。
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