暴風雨ガール 37
三十七
八月になっても私の日常には全く変化がなかった。
だが、有希子と真鈴は動いていた。
有希子は両親の提案で、お盆の期間に親子三人で南ヨーロッパへ十日間ほどの旅行に出た。
父親は奈良県警の定年退職者だから経済的には裕福なのは分かっていたが、羨ましく思う気持ちを抑えられなかった。
有希子とはまだ夫婦関係である。それが何だ、勝手に連れまわしやがって、という憤慨を覚えた。
真鈴の父もお盆休みに彼女のもとに帰って来ることになった。
わずか二日間だけだが、素晴らしいことだと私は感激した。
沢井氏は真鈴に帰る日を連絡する前に私に電話をかけてきた。
八月九日のことであった。
「沢井です。先日は大変失礼をしました」
電話が真鈴の父からだと分かるまでに三秒ほどを要した。
「こちらこそ、この前は若輩者が生意気なことを申しました。どうか許して下さい」
「いえ、遠いところ本当にありがとうございました。仕事柄、長いお盆休みを取れないものですから、十三日に大阪に帰って二泊だけ真鈴と過ごそうと思います。
十六日から団体のお客様が入っておりますので、十五日のうちにまた鹿児島に戻りますが、岡田様のおっしゃるように、何とか今年の暮れまでには退職して、真鈴のもとに帰ってやりたいと考えています」
彼は落ち着いた口ぶりで説明した。
「それは素晴らしいことだと思います」
沢井氏は今回のお礼方々、真鈴と三人で食事でもいかがでしょうと誘ってくれたが、私は丁寧に辞退した。
親子の関係に第三者が入るのはおかしいことだと思ったからである。
あくまでも真鈴と私とのことだけにしておきたいのだ。
その日は真鈴からも電話があった。
「さっきお父さんから電話があって、十三日に帰って来るって」
真鈴は涙声で私に報告してきた。
「よかったな」
「うん、よかった。すごく嬉しい・・・」
真鈴はスマホの向こうでこれまでとは比較にならないほど泣いた。
長い間ずっと堪えていたものが堰を切ったように声を上げて泣いた。
私は喜びの素晴らしい瞬間を聞き漏らさないようにスマホを耳に押し付け、彼女の号泣を聞き続けた。
「もう泣くな。これからまだまだいろんなことがあるんだから。泣きたい気持ちは分かるよ。僕も嬉しくて、もらい泣きを我慢できないくらいだからね。
でもな、これからお母さんのことがあるだろ。まだ六十パーセントが解決した程度だからな」
「私、岡田さんが好きだよ。好きで好きでたまらないの。奥さんが羨ましい」
「錯覚だって、それは。勘違いだよ」
「あのね、私ね、今日が誕生日なの。夏の暑い季節に、私が産まれた病院の窓に風鈴がチリンチリンって鳴っていたんだって。
それが凄くいい音色だったから、お父さんが真鈴って名前を付けたらしいの。お父さん、私の誕生日に帰る日を連絡してくれたのよ」
「素晴らしいプレゼントだな。きっとお父さんは姿を隠してからも、君のことを一日だって忘れなかったと思うよ。だから帰ってきてもお父さんを責めたりしないようにな」
「うん、分かってる」
「それから、今日が誕生日と聞いて、僕も何かしないわけにはいかないから、明日でも明後日でも少し会おうか?お父さんは十三日に大阪に着くんだね」
「そう」
「じゃ、明日会おうか」
「今からそっちへ行ったらだめ?」
私は数秒間考えた。今ここに真鈴がやってきたら、間違いなく一線を越えてしまう気がした。
そういうわけにはいかない。
「今日は今から仕事の整理をしないといけないんだ、ごめん」
「奥さん、来てるの?」
「いや、奥さんは実家の両親と一緒にしばらくヨーロッパ旅行なんだ」
「じゃ、そっちに行くから」
「ちょっとだめなんだ、難しい調査依頼があってね。資料整理に時間がかかるんだよ」
「そうなの・・・じゃあ、明日会いたい」
結局、翌日の午後一時にいつもの扇町公園の入り口で会う約束を交わしたが、私は複雑な気分になっていた。
辛うじて踏みとどまっている彼女へ通じるこころ壁を、何かの拍子で一気に突き破ってしまいそうな畏れを抱いていた。
窓から見える兎我野町の街の風景は暑さで歪んで見えた。
金融業の失敗によって、取引先などの人間関係も絶ち切れ、調査という地味な職業に就いてからは、淡々と仕事をこなすだけだった。
そして妻と別居して、家庭というものも捨てた私は、社会というレギュラーな世界と相反する異世界にいた。
いったん違った世界に入ってしまうと、ときには寂しさを感じることもあったが、その感情よりも壁で隔てられている孤独感の心地良さのほうが上回るような気にもなった。
そういう生活が一変し、真鈴は必然的に私を捕まえ、彼女の父親捜しの役割を予定通り与えた。
まるで決められていたかのように私を通じて父を呼び戻すことに成功した。
真鈴は幸せに向かって突き進んでいる。
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