暴風雨ガール ②
二
翌日から部屋のレイアウトをはじめた。
二部屋とダイニングルームという間取りを、事務所と寝室に使うために必要なものを買い揃え、整理をし、そして電話とインターネット回線の敷設を申し込んだ。
スマホの時代と言っても、事務所にはパソコンが必要である。
このマンションにはインターネット回線は導入されておらず、各入居者が自分で通信会社に申し込まなければならないのだ。
時代から取り残されたマンションだ。
夜になって食事に出た。
七年ほど前までの数年間は、このあたりでは肩で風を切る勢いで歩いていたものである。
そのころと変わらず営業している店は数軒見かけたが、おそらく半分以上は店が替わってしまっていた。
七年も経てば様々なものは移ろいゆくのだろう。
曽根崎通りに出る新御堂筋の手前に「安曇野」という小さな小料理屋がある。
前の商売のころは、仕事帰りに度々立ち寄っていた店だ。
懐かしさのあまり暖簾をくぐってみた。
カウンター席のみ十席あまりの店の様子は以前と全く変わっておらず、奥の方で菜箸を使って天ぷらを揚げていた女将さんがこっちを向いた。
「いらっしゃい、あら?岡田さんじゃないの、どうしてらっしゃったの、ホントに」
「すみません、ちょっとヘタを打って豚箱に入っていたものですから」
以前は週に二度も三度も立ち寄っていたのに、本当にヘタを打ってからはピタッと無沙汰になってしまったので、豚箱に入っていたという冗談は、まるっきりそうとも言えないなと自嘲した。
ビールを注文すると、何も言わずとも女将さんが今夜のおすすめを適当に出してくれる。
以前と変わっていないことに嬉しさを隠せなくなる。
「でもホントに、どうしてたの?幸子も心配していたのよ。短い間だったけど、すごくお世話になったのにって。
幸子はね、あれから次の年に薬学部に合格してね、今は薬剤師で寝屋川の市民病院に勤めてるのよ。岡田さんがピタッと見えなくなったと思ったら事務所をたたんでしまったらしいって聞いてね、ずっと心配していたのよ」
無沙汰していた私を責めるかのように言葉を連射してくる女将さんの顔は、もちろん責めているわけではなく、ほころんだ口元から察するに、私の久しぶりの登場に驚きと嬉しさを感じているように思え、安堵するのであった。
幸子さんとは女将さんのひとり娘で、私が前の仕事で事務所を構えていたときに、某大学の薬学部を現役で不合格となったので、浪人中に一年足らず手伝ってもらっていたのだ。
「女将さん、近くでまた商売をはじめますから、これからまたしょっちゅう寄せてもらいますよ。ずっと顔を見せずにすみませんでした」
昔の常連がひとりも店にいなかったことにホッとして、小一時間ほどで店を出た。
いくら常連客といっても、酒の数杯以上の付き合いは真っ平ごめんだ。
兎我野町の夜は昔に比べて飲食店よりも風俗営業店やラブホテルが増えたように思え、徘徊する男は怪しげな店の呼び込みに吸い寄せられ、ラブホテルから出てくる不似合いなカップルが視界に飛び込んで来たりもして、少しの酔いも醒めてしまいそうになる。
昔は民放テレビ局が近くにあった関係で、そこからの客を当て込んだ洒落た店が多かったのだが、まったく趣の欠片も無い。
いったいどうなっているんだとこころで呟き、落胆した。
するとそのとき、目の前のホテル・キャンディポケットから見覚えのある女性が飛び出て来た。
いくつもの垣根のような観葉植物で隠れた出入り口から、スーツ姿の若いサラリーマン風の男に続いて、やや下を向いて出てきたのは、昨夜土砂降りの雨の中、エレベータ前に駆け込んできたあの女の子であった。
女の子の方も私の姿に気がつき、一瞬だけ「アッ」というふうに口を小さく開いたのを私は見逃さなかったが、気付かなかったふりをして帰りを急いだ。
彼女はどう見てもおとなの女性ではない、中学生にさえ見えるくらい、まだ全身に未完成の少女の部分が窺えた。
しかし間違いなくあの女の子だ、いったいどうなっている。世の中、まったく狂っている。
民放テレビ局の跡地の裏手に位置するマンションは、国道と賑やかな通りに挟まれた路地のような通りで、派手な店は一軒も無い。
もう何十年も昔から贔屓客だけを相手にしている料理屋や、セルフコーヒーショップ全盛のカフェ事情など関係ないと言わんばかりの小さな純喫茶店などが、静かに佇むように営業している。
取り残された路地裏のようだが、私は気に入っている。
オートロックも何もないマンションの敷地に入り、エレベータのボタンを押して待つ。
指令を受けても、しばらくしないと動き出さないエレベータである。
こんなマンションの一室で商売を始めて大丈夫かなと不安が掠める。
ようやくエレベータが到着し、乗り込もうと思ったそのとき、うしろに人の気配を感じて振り向くと、あの女の子が立っていた。
私は不意打ちを食らったようにギョッとしながらも、この前と同じように先に乗るように勧めた。
「こんばんは、暑くなってきたね」
並んで立つと身体が触れるほどの狭いエレベータなので、少しだけうしろに身体を引いて、沈黙に我慢しきれずに私は言った。
「悪いことはしてません、私」
「えっ?」
時候の挨拶とは無関係の返事に、私はすぐに言葉が出なかった。
「悪いことって?」
「だから、さっき私を見たでしょ。でも違うの」
「違うって・・・何だろう?」
本当に彼女が何を言っているのか分からなくなってきた。
「だから、男の人とあんなところから出てきたら、悪いことをしてるって思うでしょ?」
「でも、してないんだろ?」
「うん」
五階に着いてエレベータが開いた。
エレベータから出ても、彼女はすぐ横の自宅へは入ろうとせず、私の方を見て何か言いたそうな素振りを見せた。
「大丈夫だよ、誰にも言わないし、心配ない」
「だから変なことしてないから」
「分かってるよ、悪いことも変なこともしていない。そうだね?」
しばらく言葉の意味を考えていたようだが、何も言わず私に背を向け、ドアの向こうに消えた。
私は急に身体が重くなったような気がして、少しふらつきながら自分の部屋の前までたどり着き、鍵を差し込んでドアを開けた。
ドアを閉める前に振り返ると、彼女の部屋のドアが半分ほど開いていて、少しだけ首を傾げてこちらを見ていた。
私は昨日に続いて無意識に耳のあたりで軽く手を振ったが、彼女は不満そうに口を尖らせてドアを閉めた。
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