色なしと名前のない魔女

色なし

 あたしが初めて見た「色」は、彼女の瞳の色だった。

 暮れなずむ空。

 頭上に広がる高くのっぺりとした色は、橙から紫に変わろうとしているところ、らしい。

 普通の人の目には。


 あたしには、灰色からもっと濃い灰色に変わるところにしか見えないけど。

 赤子の手のような紅葉がひらひらと舞い落ちる山道をとぼとぼと歩く。

 山菜を採りにきて、迷ってしまったのだった。

 冷たい風が吹き、薄いボロの着物の裾を揺らす。

 草鞋は擦り切れて今にも脱げそうだった。

 背負った籠が重たくて、せっかく採ったものをすべて捨ててしまいたくなる。


(もうダメ、かも… )

 もう冬も近い。このまま村に戻れなかったら、ボロを一枚着ただけのあたしなんか一晩で凍え死んでしまうだろう。

 … なんて考えていたとき、遠くに女の子の姿が見えた。

 あたしの目は色を映さないポンコツだけど、視力は別に悪くない。

 長い黒髪をさらさらと風に泳がせた女の子が、遠くの木々の隙間からじっとこちらを見つめていた。

 見たこともない綺麗な子だった。

 この辺の村の子だろうか?

 少なくともあたしの村にあんな育ちの良さそうな子はいない。

 もしかして、あの子も道に迷ってしまったのだろうか?

 ボロボロの草鞋を引きずってゆっくりと彼女に近づく。

 あたしと同じ十くらいに見える、綺麗な着物。あたしにはうっすらと灰色がかった白にしか見えないけど,

 多分綺麗な色の花柄の着物を着た女の子は、そんなあたしをじっと見つめていた。

 不思議に光る、宝石のような瞳で。


(あ… )

 色が、見える。

 それを何色と言うのかあたしにはわからない。

 だって、色なんて見たの初めてだし… 。

 とにかく、女の子は冷たい、しかしどこか柔らかい色の瞳であたしを見つめていた。

 初めて見た、「色」。

「色」とはこんなにも、『きれい』な、ものだったのか。

 すでに声の届く距離まで近づいていた女の子が、驚いたようにその瞳を見開く。

 そしてさっきよりも一層強い視線であたしを射抜き、初めて一歩、こちらへ歩み出す。

「あなた、迷ってしまったの?」

 鈴の音のような声。

 うん、とうなずくと、女の子は白い足袋を履いた足であたしの後ろに回り込み、

「来て」

 短く言って、山道を軽やかに歩き出した。

「あ… 待って!」

 あたしはそのあとをついていく。

 女の子の白い足袋は、不思議なことにどんなに泥が跳ねても汚れずに白いままだった。

「あっ… 」

 木の根に躓き、重心を崩す。

 転びそうになったあたしを、

「… 気をつけて」

 女の子が手を引いて助けてくれる。

 握った手が柔らかくて、暖かくて、そして… あたしは息を飲んだ。

 色が、見える。

 木々に生い茂った紅葉の色。

 徐々に暗く変わっていく空の色。

 足元を支える固い地面の色。

 目の前の女の子の、瞳の色を薄めたような着物の色。

 すべてに色がついている。


 あたしは思わず足を止める。

 辺りを見回し、思ったよりも暖かそうな色をした秋に目を瞠りながら、思う。

(これが、普通の人の世界なのか… )

 こんなに綺麗なものを、みんなは毎日見ているのか。

 すごい。

 あたしの生まれた世界は、こんなにも美しかったなんて。

 女の子は驚くあたしを不思議そうに見つめ、くいくいと手を引っ張る。


「早くしないと、夜になっちゃうわ」

「あ、うん… そうだね」

 女の子が走り出し、あたしもつられて駆け足になる。

 と、ぐん、と速度が上がった。

「っ… ⁉︎」

 すごい勢いで景色が後ろに流れていく。

 ビュンビュンと冷たい風が頬を切る。

 それは人の足の速さ… 少なくとも十の女の子が出せる速さではなかった。

 獣の速さで山を駆け抜けるあたしたちは、あっという間に村へと帰ってきてしまった。

 女の子があたしの手を離し… その途端、あたしの世界は白黒に戻る。

 夕焼けの色も、初めて見た村の稲穂の色も、みんなあたしの世界からこぼれ落ちてしまう。

 残ったのは、目の前の女の子の冷たく柔らかい瞳の色だけだった。

「あ… ありがとう。あんたがいなきゃ、山中で野垂れ死ぬところだったよ。あんたさ、一体… 」

 何者なの?

 そう訊こうとした声が、寸でのところで引っ込んだ。


 あたしを呼ぶ母の声が村の中から聞こえたのだ。

「ひかりーっ!」

 声のしたほうを振り返って、しかしとにかくお礼だけは言おうと、もう一度女の子のほうに向き直り、

「… あれ?」

 … しかし、そこに少女の姿はなかった。

(今、たしかにここにいたはずなのに… )

 あの綺麗な瞳で、たしかにあたしを見つめていたはずなのに… 。

 あたしは首を傾げ、しかし山に消えた娘を心配そうに呼ぶ母の声を無視することもできず、くるりと踵を返して家のほうへと駆け出した。

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