聖水。

 戸塚オサムが所属する二年C組は、混乱の極みにあった。

 

 ――俺は職員室に行くから、大人しく自習させておいてくれ。

 ――あと、教室に戸塚が来たら、職員室へ連れてこい。


 そう言って、授業をしていた学年主任の教師は、早々に教室を出ていった。

 

「どうなってるんだ?」

「BJが、あの連中にさらわれてたって事だろ」

「だから休んでたわけか」

「でも仲が良さそうにも見えたけど――」

「いや、そんな事よりだな――キララちゃんと――」


 黒塗りのSUV集団、凶悪そうな禿げの黒人、そして天王寺キララ――。


「い、意味が分からん」


 理解しようにも、情報量が多すぎたのである。

 尚且つ、フツメン未満の嫌われ者に相応しいイベントでは無かった。


「あ、あの――」


 後を任された双葉アヤメは、教壇に立っている。


 窓際で騒ぐ生徒達を、席に戻して自習させる。

 さらには、戸塚オサムが教室に来たら職員室へ連れて行く。


 この二つの命題をクリアしなければならないのだ。


 だが――、


「――そろそろ――席に――う――」


 アヤメは、それどころでは無かった。


 黒塗りのSUV集団が校庭に突入してきた段階で、自分が犯される妄想を三パターンほどほとばしらせている。


 結果として、アヤメの尿意はマックスとなり、彼等が去った後も尿意だけは消えていない。


 ――何でもいいから、BJが早く来てくれないかしら……。


 オサムが来てくれれば、職員室に連れて行くついでにトイレへ行けるからだ。


 ――というか、もう放っておいて行っちゃおうかな。


 どうでも良い事を未だに話しているクラスの馬鹿どもを見回す。

 今なら、こっそり抜け出したところで、誰も気付かないように思えた。


 ――そ、そうよね――行こ、行っちゃおっと。


 膀胱を刺激しないように、そろりとアヤメが動き出した時のことだ。


「双葉さん」


 モブ揃いの二年C組だが、その中でも異彩を放つ男がひとりだけいる。

 実は、アヤメも秘かに目を付けていた相手である。


「――え――な、何?――私は決して教室を抜け出そうとしてたわけじゃ――」

「ん?」


 男は不思議そうな表情を浮かべるが、直ぐに爽やかな笑みに戻った。


「それよりさ、BJの机、どうにかしないとヤバいかなって思うんだ」


 裏庭から復帰したオサムの机だが、彼が一週間休んでいる間に、机の中がゴミ溜め場にされていたのだ。

 お調子者がやり始めて以降、多くのクラスメイトは面白がってゴミを入れている。


「あいつ、反グレみたいな連中と繋がっている可能性が出てきただろ」


 さらわれたのか、あるいは仲間なのか。その答えは誰にも分からない。


「怒らせると、ヤバいかもしれないなって」

「――え?」


 このボケ、だったらテメェがやれコラ――と、アヤメは内心で思ったが、嫌われてはいけない相手である。


「そ、そうだよね――氷室ひむろくん」


 巧みなコミュ力を持ち、清潔感のあるイケメンのため女子人気が高い。そつなく男付き合いもしており、間違いなくクラスの中心人物になっていくだろう。


「だよね。みんな興奮してるしさ、うちらでやっちゃおうよ」


 ――だからぁ、ひとりでやってよぉ。


 泣きたい気持ちになりつつ、アヤメは断る理由が浮かばずに頷いた。


 騒がしい教室で、アヤメと氷室ひむろはオサムの机へ向かう。


「――うわ、こりゃ酷いな」


 食べ残しのパンから、紙屑まで、あらゆる不要物が押し込まれていた。

 それらを次々にゴミ箱へと捨てていく。


 ――まったく、こんな事して何が楽しいわけ?


 一瞬だけ尿意を忘れ、わざわざゴミを入れた馬鹿に対し、アヤメは呆れた気持ちになっていた。


「ほら、これで最後だ」

「あ、それは――」


 アチコチに凹みのある黒いステンレス製の水筒が氷室ひむろの手にあった。


「――た、多分――それ、戸塚くんのじゃないかなって」

「え、そうなの?――へぇ、BJって物持ちがいいんだな」


 彼が弁当を食べる際、同じような水筒が机に置かれていた記憶がある。


 ――そういえば、倒れた時はピンク色だったけど……。


「そっか。じゃあ捨てちゃ不味いな。ほい」


 そう言って、氷室ひむろは水筒をアヤメに手渡す。

 渡されても困るんですけど、と思った時、校内放送が入った。


『二年C組の双葉アヤメさん――至急、職員室まで来て下さい』


 クラスメイト達の視線がアヤメに集まる。


「BJ案件でしょ」

「間違いないよ、これ」

「双葉さん、よろしく~」


 意味不明の声援を受けたが、ようやくアヤメは教室を出れたことに安堵していた。


 ――や、やったわ!

 ――まずはトイレに行かないと!!


 教室から最も近い、二階にある女子トイレに入った。


 ――ま、満室ぅぅぅ!?


 タイミングの神をアヤメは呪いつつ身悶えする。


 ――くぅぅぅ――もう――らめぇぇ。


 追い詰められたアヤメの視界に、掃除用具を入れる個室が目に入った。さらに、なぜか黒い水筒を持ったままだったことに気付く。


 ――これしか、ないわッ!!!


 ◇


「洗面所に流せば良かった――」


 人肌の温もりとなった水筒を持ちながら、アヤメは思わず独り言を呟いてしまう。 

 階段を降りて、職員室に向かっているところだ。


「ま、後でいいか」

「何がだ?」


 目の前には、少しばかり苦しそうに階段を登って来る戸塚オサムの姿があった。

 

 なお、しがみ付いていたキララの姿は既に無い。さすがに自分の教室へ戻ったのだろう。


「と、戸塚くん!?」

「そうだが――後回しはした方がいい」

「いや、そういうことじゃなくって――」


 この男の問題で、職員室に呼び出されているのだ。


「ん――それは?」


 オサムの視線が、黒い水筒に突き刺さる。


「なるほど、ボクの水筒を届けてくれたわけか。ありがとう」

「ちょ、ちょっと――あの――それは」


 戸惑うアヤメなど意に介さず、オサムはささっと水筒を奪った。

 おや、という表情を浮かべ水筒を振る。


 ちゃぽん、ちゃぽん――という音が響いた。


「ほう、まだ入っていたのか。一週間とは微妙だが――麦茶だし大丈夫だろう」

「ひぃぃ、だ、駄目よ」

「いや、喉が渇いて、酷く怠いんだ。麦茶で元気になろうと思う」

「駄目ったら、駄目」

「日本の水で作った麦茶だ。一週間ぐらい平気さ」


 そう言ってオサムは、水筒の蓋を開けて、喉をゴクゴクと鳴らしながら一気に飲み干した。


「ら、らめぇぇぇ」


 悲痛な少女の叫びとは裏腹に、飲み干したオサムは満足そうな表情となっている。


「ふむ」


 濡れた唇の端を拳で拭った。


「温いし、妙な味だった。一週間も経つと麦茶ではなくなるのだろう」


 ――はなっから、麦茶じゃないのよおおおおッ。


「だが、不思議と元気いっぱいになった気がする」


 オサムは両腕をぐるぐると回した。


「聖水だったのかもしれん」

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