6話『死の臭い』



「……う……ぐぅ……」


 ゆっくりと、意識が表面に浮上してくる。


 3つ、4つと乱雑に広がる視界がぼんやりと重なって、やがて中央で結実する。ポタポタと雫の落ちる音がする。ひんやりとした空気が当たりを漂う、どうやら水辺であるらしい。


「こ……こは……」


 ゆっくりと上半身を起こす。後頭部がジンジンと痛む。何が起きた……?


 意識もはっきりとしてきたので辺りを見回してみる。真っ暗だが問題はない、明かりが無くても見える。

 そこは小さな小部屋のようだった。雫の音は壁面から伸びた岩から水が落ちる音だったようだ、地面は薄く濡れている。近くに水脈があるのだろうか。

 ふと、足元に落ちていた取っ手に気付く。そこであの時、扉の先の落とし穴に落ちたことを思い出した。


「ああ、クソ……迂闊だったな」


 思い返せば迂闊すぎる行動だった。5層に向かわずに引き返したのも無駄になったな、あれだけ落ちたんだ、ここは恐らく5層だろう。


「いっつつ……また随分と強く打ったな……」


 後頭部を抑えながら立ち上がる。その時、ぬるりと後頭部が水ではない何かに濡れている感覚を得た。抑えていた手を持ってくると左手は真っ赤に濡れていた。言うまでもなく血だろう。


「……まあ、そりゃあそうか」


 あれだけの高さで恐らく頭から落ちたのだ。こうもなる。

 ただ、もう一度後頭部に触れてみる。そこには血が出てきたはずの傷痕は無かった。


 これも、吸血鬼の特性の1つだ。人とは比べ物にならないほどの再生能力。なるほど、たった一人で世界を滅ぼしかけたというのもあながち誇張でもなさそうだ。それぐらい吸血鬼の身体的スペックは優れている。

 未熟な吸血鬼である俺でこうなのだ、本物の吸血鬼がどれほどの力を持つのかなど想像したくもない。


 鞄の中から水筒を取り出して頭からかぶる。外套の血汚れはもうしょうがない。ただ髪の血だけは洗い落としておきたかった。固まってしまっても後処理がめんどくさい。


「ふう」


 取り敢えずそれなりに落とせたと思うのでやめる。最後に一口水を飲んでから水筒を片付けた。鞄を背負いなおして周囲の状況を把握する。

 上を見上げると際限のない縦穴、天井は見えない。どれほどの高さから落ちてきたのか。周りは壁に囲まれている――と、思ったがどうやら一方向にだけ道が伸びている。


「行ってみる……しかないな」


 どんな危険が待っているのか想像もつかないが、かと言ってここに留まっていても未来はない。部屋はそれなりに広く穴を登っていくのは不可能だ。いくしかない。


 ゆっくりと足音を最小限に抑えながら小道を進む。暫く進んだが景色は変わらない。狭い小道が一本続いているだけだ。分かれ道もない。

 そう思ったのも束の間だった。小道が開けて一気に広い道に出る。目算で高さ6メートル、幅4メートルぐらいだろうか、迷宮4層までと比べるべくもない広さだ。

 先ほどまで俺が進んでいた道はこの大道の壁から伸びている。つまり、俺の向いている方向から左右に道が伸びている。


「5層の道ってこんなに広いのか……そんだけデカい魔物がいるってことか?」


 そんな話はついぞ聞いたことはないが。少し不気味だな。


「……行こう」


 広い道に出て左右に視線を往復する。違いはわからない。ここで迷っても仕方がないので適当に右に決めて進み始めた。






※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※







 暫く進んだが、相変わらず魔物には遭遇しなかった。4層と同じ静けさが広がっている。それに、それだけではない。先ほどから地図を片手に進んでいるが、どうにも現在位置を特定できない。

 普通なら先人が刻んだ道標が必ずどこかにあるはずだ。後発のルーキーたちはそれを目印に進むのだが、その道標もどこにもなければそもそも地図上にこのような地形は存在しなかった。


 ここは本当に5層なのだろうか。


「まずいな……このまま戻れないなんてことも普通にありそうだ」


 焦っても仕方がないのは理解しているがそれでも気持ちははやる。一度止まって深呼吸をした。



「スゥ……ハァ……」


 早鐘を打つ心臓が落ち着くまで繰り返す。大丈夫だ。まだ致命には至っていない。確かに4層より下に行ったことはこれまでなかったが、それは安定を取っていたからだ。5層のモンスターだろうと勝てないわけではない……と、思う。




「……よし、行こ――グゥルルル……





 生臭さ。獣臭さ。モンスター特有の臭気が突然背後から漂う。同時に低い地鳴りのような唸り声が明確な殺意と共に俺の耳に届いた。



「!?」


 弾かれたようにその場から離れ相対する。後ろに振り返ってみてみれば、そこに居たのは……紛うことなき、鬼だった。



グ……ァァァァアアアアア!!!!!!!


 薄い灰色の皮膚、伸びた額の角、俺の胴程もありそうな余りにも太い腕。何故だ、なぜこんな化物がここにいる。



ゴアァァアアアァアア!!!!!


「あ、ぐ……!!」


 気圧される、ありえないほどの威圧感。膝がガクガクと震える。……断言しよう、俺はこいつに勝てない。本物の鬼にこんな紛い物の吸血鬼けっかんひんが勝てるはずもない。


 行動は早く、迷うな。死にたくなければ――動け!!



「づ、ああああ!!」


 腰から短刀を引き抜いてあえて鬼に向けて突っ込んでいく。勿論無策ではない。


「せぁ!!」


 相手が動き出す前に短刀を投げつける。鬼はそれを意に介するまでもなく短刀が体に当たるのに目もくれなかった。



 ああ、それでいい。



弾けろポヴィット!!!」


 俺のその声に反応して、短刀の柄に埋め込まれた黄色の宝石が突如として光りだす。



グァ!?


「この部屋は暗いもんなぁ!突然の光は目に悪いだろうよ!!」


 埋め込まれていたのは魔術石だった。魔物の体内からとれることのある魔石を加工し、魔術的要素のある刻印を刻む。最初に設定された呪文を告げることで刻印された効果を発揮することが出来る物だ。

 俺の短刀に埋め込まれた魔術石の効果は一瞬だけ強い光を発すると言う物。いざという時の切り札だったものだ。


 鬼は光に目がくらんだのか1、2歩あとずさり目を抑えている。今がチャンスだ、俺は投げた短刀を拾い上げながら鬼に一直線に近づいて






 そのまま横を通り過ぎて鬼の後ろに駆けだした。



 アレと戦うのは無理だ。あの魔石が俺にとっての切り札だった。身体能力は余裕であちらが上だろうし、使わなければどう足掻いても逃げられなかっただろう。

 かといって攻撃を仕掛けても倒せるわけがない、それは文字通りの自殺だ。


「クソったれが!」


 今は逃げる。逃げ切れるかはわからないこんな場所だ。隠れる場所など皆無に等しい。


 それでも隠れるなら、あそこしかなかった。


「戻るしかないか……!」





※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





グルルルル……


ドシン、ドシン、ドシン……








「………………ふぅーー……」



 ゆっくりと、足音が遠ざかっていく。俺を追ってきた鬼は、この場所に入れなかったのか、気付かなかったのかそのまま大道を左に向かって歩いていった。




「とりあえず……生き残れたか」


 今いるのは最初の小部屋だ。ここから出てから鬼に遭遇したところまで他に横穴はなかった。ここからさらに奥に行ってもいい隠れ場所があるかわからない以上、この場所に逃げ込むしかなかったのだ。


「しかし、なんだったんだあいつは」


 思い返してみても本来5層で出てくる魔物ではない。あの威圧感はBランク……いやAランクに及ぼうかという程だった。そんな物がこのダンジョンにいるはずがないのだ、本来は。


「クッソ、どうすればいいかなぁ……」


 この小部屋を登ることはできない、かといって外にはあれがうろうろしてる。……大分詰みだ。


「どうすりゃ……




『おい、碧。聞こえるか!』


 壁に背を預け考えていた所だった。突如として能天気な声が頭の中に響く。この声は……



「ああ、空か。……定期連絡か?」

『おうよ。一週間ぶりだな、碧!』

「ってことは今もう6時か……」


 声の主は空だった。空の持つスキル『魂の声』の力だ。そのスキルをもって空は他人とどれほど距離があっても念話で会話できる。


『……? どうした碧、なんか疲れてっけど……』

「ああ……」



「すまん空。どうにも、ここで死ぬかもしれん」

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