夢見処 伽藍堂
鴻月 麻
第1話 虹と公園
今でも思い出す。
あの日、あの時、あの場所で、あの人に出会わなければきっと今の私はいなかった。
「お母さん!」
数歩先を歩く息子が突然振り返ると全力で手を振ってくる。それに手を振り返しながら追いかけるように立ち止まっていた場所からゆっくりと歩き出した。
「おかあさん、にじだよ!」
息子が指さした先にはキラキラと輝く虹色のアーチが青い空に美しく在る。
あの日と同じままに。
一瞬込み上げてくるものがあったが、私は唇を噛んで堪えた。子供の前で泣くわけにはいかないのだ。
「マモル、危ないからちゃんと前を見て歩きなさい」
息子に追いついた私は優しくマモルの髪を撫でた。
なんて愛しいのだろう。子供とは、こんなにも愛おしいものなのか。
私の母も、かつてそう言ってくれた。
子供心になんとなく頷いたけれど、今、母の気持ちがやっとわかった気がする。
あの日の私は十歳だった。
今日と同じ、綺麗な虹がかかっていた。
それは私の『母が死んだ』二年後のことだった。
ーーーーーーーーーーーーー
「お母さんのバカ!大っ嫌い!」
美幸は泣きながら母の美和子を罵った。
些細なことだった。欲しかったノートの絵柄が欲しかったのと違っていただけ、それだけだったのにその日の自分はなぜかそれが無性に許せなくて、泣きながら母を詰ったのだ。
母は困った顔をしながらも何も言いはしてこなかった。
そう。いつもそうなのだ。
困ったような顔をしては見せるがそれ以上に何かを言ってはこない。
そんな母の態度が美幸には一層許せなかった。
美幸は家を飛び出した。
「美幸!」
背中に母の鋭い声が飛んできたが、それを振り切り美幸は駆け出した。
いつもと何も変わらない日だった。いつも美幸は母とそんな小さないざこざを起こしてはいた、けれど。
いつも母が迎えに来てくれて、そして「ごめんね」と困ったように笑う母を、美幸は「仕方ないなぁ」と言いながら手をつないで家へ帰るのだ。
そして「今度は一緒に買いに行こうね、お母さん本当にわかってないんだから。」とつないだ手をキュッときつく握り締める。
だから今日もそうなると思っていた。
なのに。
夕方になっても、夜になっても、いつも美幸が母を待っている公園に、母は来てくれなかった。
お母さんは今度こそ本当に怒って私を見捨ててしまったんだ。
そう思い、美幸はブランコに座りながら泣いた。
そんな美幸を迎えに来たのは父だった。
真っ青な顔をしていた。
「美幸」
「お父さん・・・ごめんなさい」
お母さんは?と聞こうとしたが、その前に強く父に抱きしめられて声が発せられなかった。
「お父さん・・?」
美幸の肩口に顔を埋めたまま動かない父は、小さく震えているようだった。
「・・・泣いてるの?」
そんなに心配をかけてしまったのかと申し訳なく思っていると、ようやく父が顔を上げた。
「美幸、お母さんの所に行こう」
父の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
初めて見た父の泣き顔だった。
美幸は何も言えず、ただ、小さくうなづいた。
家には帰らなかった。母の所へ行くと言ったのに、なぜか着いた先は大きな病院だった。
父はもう一言もしゃべらず、美幸の手を引きながらまっすぐにどこかへと歩いていく。
夜の病院は暗くて怖かった。
お母さんはどこにいるんだろう。怖い。お母さん。
父の手を強く握り締めながら後をついていくと、父はある扉の前で足を止めた。
美幸は顔を上げた。
部屋の扉には見たこともない難しい漢字が書いてあったが美幸には読めない文字があった。でも知っている文字もある。その文字に、ドキンと心臓が跳ねた。
でもどうやらその部屋に母がいるようで、美幸は母がこの先の部屋に居るとわかりホッと安堵の息をついた。
不安そうな眼差しの先で父がその部屋の扉を開け、美幸は父と共に二人で中へと入った。
その部屋の中は暗かった。
部屋の真ん中に小さなベッドみたいのがあって、ベッドの横にある台に立ててあるロウソクには火が灯っている。花も生けてある。
ベッドには白い布がかけてあって、何だろう、真ん中が人の形みたいに膨らんでいた。
「お父さん・・・・?」
お母さんは?と聞こうとしたが、父はその白い布を怖い顔で見つめていた。
目には涙が浮かんでいる。
父はゆっくりとそのベッドに近づくと、そこに触れた。
布を引っ張ると音もなく白い布は動いた。
その布の下には人がいた。
美幸の良く知っている人だった。
捲られた布の下から現れたのは、眠っている母だった。
「・・・・え」
青白い顔に、傷がたくさんついている。血が滲んでいる擦過傷は見ているだけで痛かった。
父がそんな傷だらけの母の顔を、震える指先で優しく撫でた。
そして、そのままそこに崩れ落ちた。
父はそこで初めて声をあげて泣いた。縋るように眠る母の体に顔を埋め、大声で泣いていた。
母は眠ったまま起きない。
どうして。
母は目を覚まさなかった。固く閉じられた瞼はもう二度と開かなくて、美幸は恐る恐る近づいて、眠る母の頬に触れた。
とても冷たかった。
それが何を意味するのか分からないほど、美幸は幼くはなかった。
「お父さん・・・どうして、お母さん、死んでるの?」
体中に混乱の嵐が吹き荒れているのにそれは体の中からは出ていかない。
目の奥は熱く、苦しいくらいに圧迫感があるけど涙は出てこない。
歯はガチガチと鳴っていてきっと顔は青ざめていただろう。
それなのに美幸の心は静かだった。
吐き出した言葉は妙に冷静で、別の人が言ったかのようだった。
父は美幸に言った。
交通事故で即死だったと。
近所の雑貨店ではなく、少し離れた街中の大きな文具店を出たすぐ目の前の横断歩道を渡ろうとしていて、赤信号を無視したトラックに撥ねられてしまったのだと。
美幸は虚ろな表情でベッド脇にある台に視線をやった。
そこには血で汚れた一冊のノートが置いてあった。
「・・・・っ!」
美幸は手で口元を抑えた。
私が欲しかったノートだ。
これを買うために母はいつもは行かない場所まで行って、そこで事故に巻き込まれて死んでしまった。
それなら私のせいじゃないか。
私のせいだ。私のせいだ。
お母さんが死んだのは私のせいだ。
恐ろしい後悔が美幸の体の中を渦巻いた。嵐のような悲しみは恐ろしい罪悪へと一瞬で変化してしまった。
私がお母さんを殺してしまったのだ。
美幸は大声を上げて泣いた。泣き続けた。
泣き叫び喚き散らしたかったのに、美幸の喉から漏れたのは体の奥底から発せられた嗚咽のみで。
けれど、いつまでも涙は枯れなかった。
母のお葬式はあれよあれよと終わり、家の中には父と美幸の二人きりになってしまった。
父は仕事の忙しい人で夜にならないと家には帰ってこない。だから美幸はそれまでずっと一人だった。
家のことは父が家政婦を雇ったようで週に三日程、女の人が家に来てやってくれた。
食事も作ってくれた。
けれど美幸はそれを食べなかった。
一度だけ食べたけれど、母の料理とは全然味が違って食べたくないと思ってしまったのだ。
きっとそれはおいしいのだろう。だけど、美幸の喉は通らなかった。
そのうち家政婦は家にやってこなくなった。
家のことは全て美幸が自分でやった。祖母に教わりながら料理も覚え、自分にできるあらゆることを覚えようとした。
簡単な食事を作り、一人で食べ、父が帰ってくるまでリビングで毛布に包まって膝を抱えている。
静寂が恐ろしく、テレビはいつも大音量でかけられていた。
一人の時間を過ごす内に、己を責め続けた美幸の心は、いつしか固く閉ざされてしまっていた。
青柳有美は墓場に居た。
欠かさず月命日に幼馴染の少女の墓を参りにきたのだ。
墓場にはふさわしくない可愛らしい花束を飾り、線香の代わりに吸っていたタバコを線香立てに立てる。
そして缶のココアをことり、と音を立てて置いた。
毎月毎月、馬鹿の一つ覚えのように同じ事をもう何年も繰り返している。
そんな場所に最近小さな変化が表れた。
少し離れた場所にある墓に、小学生くらいの少女が来るようになったのだ。
ランドセルを背負ったまま、墓の横の仕切り石に腰かけ、ぼうっとしている。かと思えば読書に耽っている時もある。どうも一人墓場で長時間を過しているようだった。
そして日が暮れる前に帰っていく。
初めて少女の姿を見た日から、有美が墓参りに行くとその少女は必ず居るようになった。
毎月毎月、行けば必ず居るのでいつの間にか見知った顔となった少女は、どうやらそこに母が眠っているのだと、何度目かの遭遇で有美は悟った。
まだ幼い少女は母が恋しいのか・・まあ、そうだろう。
あの年で親を亡くす悲しみは想像を絶するものがある。
有美は吸っていたタバコを携帯灰皿にねじ込むと立ち上がった。
今日で、この場所であの少女を見かけるのは十回目だ。
有美は月一でここへ来ている。つまりはあの少女がここへ来るようになって十か月が経過したということだ。
少女は変わらなかった。
変わらずここへ来て、相も変わらずふさぎ込んでいる。
全く知らない少女だったが、有美は少々苛々し始めていた。
だから声をかけた。
「おい、お前いつもここで何してんだ?」
少女は座ったまま顔だけを上げて有美を見た。その表情に驚きや恐れはなかった。
有美が少女を知っていたように、少女もまた有美を知っていたようだ。
「別に・・」
「別にってこたぁないだろう。元気が取り柄の小学生様が、墓場で毎日何やってんだ?」
「・・・だから、別に!・・・あんたには関係ないでしょ」
少女は鬱陶しそうに答えると少女は立ち上がるとスカートの裾を叩きさっさと行こうとする。
その背に有美は言葉を投げかけた。
「お前、母親が死んだんだろ」
無粋な言葉に少女は振り返ると、ギッと有美を睨み付けてくる。
「・・・何なんですか?怪しい人なら、警察、呼びますよ」
「まあ待てよ。そんなに怪しい者じゃないから安心しろ。俺はガキに興味はないからな」
「・・・・」
「それより答えろよ・・死んだのは母親だろう?」
有美は繰り返した。
少女は諦めたようにため息をつく。
「そうだよ」
有美はニヤリと笑った。
「よし。それじゃあ、これからお前の母親に会わせてやるよ」
少女は「はぁ?」と不振丸出しで顔を歪めた。
「そうすりゃ踏ん切りもつくだろう。母親と会って話がしたいなら・・俺についてこい」
さあ、どうする?
有美は意地悪気な笑みを浮かべ、少女へと手を差し出した。
まあ、気まぐれだったとしか言いようがない。
元々子供には弱かったのもある。かつ、少女は近しい身内が死んでいる。
気づいてしまえば手を差し伸ばさないわけにはいかなかった。
事務所までの道中、有美は後ろを着いてくる少女を何度かチラッと見やる。
なんの感情もない表情、「子供」というにはあまりにも無機質だった。
気づかれないように小さくため息をつくと、有美はガリガリと髪を掻き毟った。
事務所のあるビルにたどり着くと一気に階段を上がった。少女は遅れながらも置いて行かれまいと必死にかけ上がってくる。
事務所のある三階の扉を開くと事務の奥園まどかがチラ、とこちらを見る。そしてすぐに手元に視線を下ろそうとして、
「副所長」
直後に扉から室内へ入って来た少女に気づき、有美と少女を何度か見比べてから、固い声を発した。
「誘拐は犯罪ですが?」
「・・・・・自分で入ってきただろ」
話にならんと有美はさっさと奥の部屋へと逃げ込んだ。
子供は放っておいてもまどかがうまくやってくれるだろう。そんなことを思いながら来ていたシャツを脱ぎ捨て、クローゼットの中にある白衣に袖を通す。
手の平に香油を付けて気持ち、髪を撫でつけ整えると唇を一文字に結ぶ。
「さて、参りますか」
部屋を出るとソファに少女が腰を下ろし、出されたジュースを飲んでいた。
「おい」
声をかけると少女はこちらを見た。有美の姿を目にし、驚きに目を丸くしている。
さっきまでと印象がまるで違うと思っているんだろう。
よくそう言われるから慣れたもんだと有美はさして気にも留めず。
「母親の遺品は何か持ってるか」
少女に問うた。
少女は数度目を瞬かせると、脇に置いてあったランドセルから一冊のノートを取り出し有美に向かって差し出した。
目の奥が不安に揺れているのがわかった。大事なものなのだろう。
「別に乱暴に扱ったりしやしないさ、・・・・もうちょっとそこで待ってろ」
有美はノートを受け取ると踵を返し、先程居た部屋の隣の扉に入った。
中には一人の人物が居た。
それは有美にとっては当たり前すぎることだったので、特に強い意識は向けず歩きながら渡されたノートを見る。
表紙は血で汚れている。パラパラとページをめくると中は真っ白だった。
「なるほどね」
「何が?」
部屋の主が苦笑を浮かべながら有美に声をかけてきた。
「いや、まあ、いつもの突発的なってやつだ。そんな訳で頼む、このノート・・・読んで内容教えてくんね?」
「・・はいはい」
やれやれといった風体で部屋の主はノートを受け取る。
そして一分後、「はい」とノートを有美に差し出した。
有美がノートを受け取った。と、同時に互いの指先が触れる。
「・・・・なるほど」
「ちょっと。あんまりイレギュラーを受けないでよ、有美」
「はいはい、分かりましたよ所長殿。・・んじゃ、サンキューな」
そう言うとさっさと部屋を後にした。扉が閉まる時、部屋の奥からため息が聞こえたような気がした。
少女の元へ戻ると、
「さて、じゃあ始めるか」
「・・・何を?」
少女は不安そうに言った。有美は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「母親と会わせてやるって言っただろ。会いたくないのか?」
少女は俯いて、少しの沈黙の後。
「会いたい」
泣きそうな声で呟いた。
「じゃあついてこい」
有美はノートを持ったままさっさと歩きだした。向かった先は、有美が最初に入った部屋だった。
少女は未だ不安げな表情をしつつも、有美の後を追うように部屋へと足を踏み入れた。
「そこのベッドに座ってろ」
そう言うと有美は壁際にあるテーブルに向かった。卓上に設置してある香炉の蓋を開け香に火を点すと中へ入れ再び蓋を閉める。
特に深い理由は無かった。ただ単にリラックス効果もあるし、趣もあって良いようなきがしてずっと続けていることだった。
香はその程度の理由しかなかったが、しかしやるようになってから色々とスムーズに事が進むようになったのでまあ・・結果オーライということで。
「さて、と」
振り返ると少女は所在なさげに落ち着きのない様子だった。
「始めるぞ」
「え?・・・でも」
「そこに横になれ」
「・・・・・・・」
どう見ても渋々と言った風体だった。が、少女は大人しく横になった。
有美は少女の頭の横に立ち、少しかがんで顔を覗き込む。
「それじゃあ、存分に母親と話してこい・・・・・美幸ちゃん」
「!・・なんで、名前」
「いい夢を・・・おやすみ」
ニッコリと笑ってから少女こと、美幸の両目を手の平で覆った。美幸の目は驚きに見開かれていたがしばらくすると閉じられ、やがて可愛らしい寝息を立て始めた。
「これが最後だ・・・甘えてこいよ」
ほんの少し切なげに眉根を寄せると、有美は美幸の髪をぐしゃぐしゃと撫でつけた。
気づくと美幸はいつもの公園に居た。
「あれ?私・・・」
どうしたんだっけ、と首をかしげながら乗っていたブランコをキィ、と音を立ててこいだ。
空を蹴るようにグングンとこいでいると風が気持ちよくて、美幸はどんどんとブランコをこぎだす。
なんだか気分が良くて笑い出してしまいたい気分だった。
それでも心のどこかで「これは夢だ」と理解もしていた。
そんな時、
「美幸!」
最高潮に高くこぎ上げた時、聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
「美幸、あんまり調子に乗ると落っこちちゃうわよ?」
「・・・・お母さん!」
クスクスと聞こえてくる笑い声の方へ顔を向けると、そこには母が立っていた。
「お母さん!お母さん!どうして!」
すぐ側に母が居る。信じられず美幸は叫んだ。
どうして。
だってお母さんは交通事故で死んでしまったのに。
「ねえ、美幸・・・こっちへ来てちょうだい?」
「・・・・っ」
母の声は泣きそうに震えている。
それを聞いた美幸の目から涙が零れ落ちた。ブランコに揺られそれは空を舞うように、散っていく。
強引にブランコを止めて、大地に足をつくと美幸は駆け出した。
お母さん。
お母さん。
お母さん。
嗚咽に逆巻く胸で苦し気に息をしながら母の胸に飛び込んだ。
きつく抱きしめて、しがみついて、声を上げて泣いた。
母も強く美幸を抱きしめて離さなかった。
「やっと・・・迎えに来れたね。遅くなってごめんね」
美幸は母の胸の中で何度も首を振った。
泣きながらそう言った母の言葉に、あの日を思い出し胸が苦しくなった。
それでも今ここには母が居てくれている。
温かい腕が自分を抱き締めてくれている、それがただ・・嬉しかった。
「お母さん、ごめんね・・・私」
「なぁに?」
「私があんなわがまま言わなかったら、お母さん・・・あんなことに、ならなかったのに・・・本当にごめんなさい、ごめんなさい」
「ううん、美幸は悪くないわ。お母さんだって、いつもみたいに美幸と一緒に買いに行けば良かったのに」
「だけど・・・」
「ね、美幸、せっかくまた会えたんだから・・・楽しい話をしよう?」
母の指が美幸の頬を拭い、そのまま両手で包まれる。
「おっきくなったね、美幸」
そうだ。母が死んでからもう二年が経った。
「うん、四年生になったんだよ。クラブもね、始めたんだ」
自分の頬を包む母の手を覆うようにして、美幸は話し出した。母はニコニコと笑いながら聞いてくれた。
話しながら手をつないで公園内を歩き、原っぱにたどり着くとそこに二人で腰を下ろした。
そしてたくさんの話をした。
自分の事、学校の事、家の事、お父さんの事。
家事をしていると言うと「偉いわね」と母は目を丸くして驚いていた。けれど、どこか嬉しそうにはにかんでもいた。
「美幸は本当にしっかりしてるわね」
「そりゃ、お母さんの子供だもの」
「お母さんの?」
「そう。お母さんのどじっぷり見てたらいやでもしっかりしちゃうよ!」
「・・・・ふふ、本当ね」
母は笑いながら自分の目じりを手で拭うと、
「お母さんね、自分のお母さんの事知らないのよ。だから、あなたのお母さんをどうやってやったらいいのか分からなくって」
と言った。
「お母さんを知らないの?」
「そう。いつもおうちに来てくれていたのはお父さんのお母さんなのよ」
「うん、知ってるよ」
そうだ。
確かにお父さんの所のおばあちゃんとおじいちゃんにしか会ったことがなかった。言われるまで気づかなかった。
「お母さんね、赤ちゃんの時に捨てられてたのよ。捨て子なの」
「おかあさんが!?」
「そうなの。だから、親を知らないから親がどういうものなのか分からなかったの。でもあなたが生まれて私も親になって。でもお手本がまるでないから、分からなくって・・・変なことばっかりしちゃって」
母は照れくさそうに目を伏せた。
「正直、美幸ともどうやって接したらいいのか分からないこともあったわ。ご機嫌ばかり取りたくもないし、でも甘やかしたいし。何かを言ってあなたを傷つけなくもなかったし。もう何を言っていいのか分からなくて困っちゃった」
美幸はふと、思い出した。
そうだ。お母さんはよく言い争っている時とかもよく、黙り込んでしまうことが多かった。
あれはそういう意味があったのか。美幸は初めて知る事実に目を丸くした。
「ダメなお母さんだったね」
母の言葉に美幸は首をぶんぶんと振った。
「そんなことない。私、お母さんで良かった。お母さんが大好きだよ」
「・・・ありがと、美幸」
肩を寄せ合い頭をコツンと押し当てる。
「・・お母さんね、自分は棄てられたんだけど、それでも美幸を生んで良かった。本当に良かったと思ってるわ。子供がこんなにかわいくて愛しいものだなんて思ってもみなかった」
そう言うと母は美幸の体を抱き締め、強く強く、腕に力を込めて来た。
「こんなにかわいくて、素直ないい子で、しっかりしてて・・・・」
母の言葉に涙が滲んでくる。目にも涙が今にも零れ落ちそうなくらいに溜まっていた。
「もっと、側であなたが大人になっていく姿を、見ていたかった・・」
「・・・おかあさん」
母の嗚咽が美幸の耳をくすぐった。
美幸も堪えきれず、一緒になって泣いた。
抱き締めてくれるこの腕はこんなに暖かいのに。
これが夢だなんて美幸は信じたくなかった。
二人で抱き合って泣いていると、体のあちこちにポツポツと滴が落ちてきた。顔を上げると晴れ間の下に雨が落ちていく。にわか雨だった。
夢の中でも雨が降るなんて。不思議な光景に美幸は母の肩にしがみついたままぼんやりと見つめていた。
そんな美幸に気づいたのか母も泣きながら顔を上げ、にわか雨を見つめる。
少しすると雨はやんだ。
そして虹が。
大きな、とても大きな虹が空に映し出された。
こんな大きな虹を見たのは初めてだった。
「きれい」
「本当ね」
いつの間にか涙は止まり、母子は笑顔でそれを見上げていた。
その虹はいつまでもいつまでも消えなかった。
虹の下、二人は遊びだした。誰もいない二人きりの公園で声を上げて笑い、はしゃいだ。
それを見ていたのは虹だけだった。
二人の最後の時を優しく見守ったのは、その虹だけだった。
夕暮れまで二人は遊び、そして疲れ果てた二人は最初の原っぱに寝転んで休んだ。
楽しかったと子は満足そうな笑みを浮かべた。母も頷いた。
夕暮れになっても消えない虹を寝ころびながら見上げていると、疲労のせいか眠くなってくる。
「お母さん」
「なあに?」
「おかーあさん」
「何?」
美幸はじゃれるように母の胸に顔を埋めた。
「・・・んー、眠いよ」
「じゃあ少しだけ寝ようか。お母さんギュッてしてあげる」
「・・・・ん」
うとうととし出す美幸を優しく包み込み、母は何度も何度も美幸の頭を撫でた。それが心地よく、美幸は抵抗も出来ず睡魔に身を任せた。
「美幸、ありがとう」
そんな母の言葉が耳に届いたのを最期に美幸は眠りに落ちていった。
目覚めるとそこは知らない部屋だった。飛び上がるように上体を起こし美幸はあたりをきょろきょろと見回す。
「起きたか?」
すぐ側にあの男の人が居た。
「・・・・お母さんは?」
「夢の中で会えただろう?」
そうか。あれは夢だった。
愕然としそうになるが、しかし不思議と心が満たされている気がして美幸は手で心臓のあたりを抑えた。
「忘れるなよ」
男の人が言った。
その言葉がどんな意味を持っていたのか。
だが不思議とこの時の美幸には分かった気がしたのだ。だから、
「うん」
たとえ夢でもさっき会った母は間違いなく美幸の知る母だった。
美幸は寝台から降りると男の人に向かった。
「ありがとうございました」
そう言って深く、頭を下げた。
頭を上げると男の人は唇の端を釣り上げ、ニヤッとした。
ビルを出て通りに出るまで男の人は送ってくれた。
「さて、最後に大切な話がある」
美幸は目を瞬かせた。
「今回の施術料についてだが」
「・・・せじゅつりょう?」
「当然だ。まさか無料でしてもらえるとでも思ってたのか。こっちも商売なんだよ」
男の人は苦虫をかみつぶしたような険しい顔をした。
「でも・・・私、お金持ってなくて」
血が下がるとはこういうことを言うのだろうか。
男の人はニヤリと笑った。
そしてどこに持っていたのか、一冊のノートを美幸に見せつけるように取り出したのだ。
「あ・・・それ」
「代金はこれだ。いいな?」
それは母が美幸に最期に買ってくれたあのノートだった。
「もう大丈夫だな?」
男の人の問いに、美幸は一呼吸置き、
「うん!」
満面の笑みを浮かべて頷いた。
そして最後にもう一度深くお辞儀をすると、男の人が居るのとは反対の方向へ駆け出して行った。
人ごみに紛れ、少女の姿が見えなくなってもその青年は少女の姿を見送っていた。
その青年・青柳有美は、フッと息を漏らすとノートを持ったまま腕を組んだ。
「子供ってのは単純だなぁ」
しかし表情は柔らかく、その目は愛しい者を見る目だった。
きっとあの子はもう大丈夫だろう。毎日墓場にやってくることもなくなるはずだ。
「子供は日の当たる場所に居な」
ポケットからタバコを取り出すと咥え火を点け、大きく息を吐いた。
そしてビルの階段を上り始める。
あの子供と会うことはもうないだろう、でもそれでいい。
「もうこんな所に来るなよ」
そして有美は満足そうに笑った。
「じゃあな、お嬢ちゃん」
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