DUO 〜銀の眼〜

しょうりん

第一章 ONE


 その日、由沙ゆさは酷く怒っていた。


 原因ははっきりしている。

 朝、家を出る前に、父親と激しい喧嘩をしてしまったせいだ。


 むかむかと、胃の方から込み上げてくる腹立ちは、教室に入って自分の席に座っても収まらなかった。


 机の上に鞄を乱暴に投げ出し、引きちぎる勢いで蓋を開ける。

 普段はきちんと整頓して入れる教科書も、今日は無造作に押し込んだだけだった。


 クラスメ-トが何か話し掛けて来たが、彼女はそれにも無愛想な返事を返しただけ。

 男子に下品な冗談を言われ、それに対しては服装の乱れを指摘する事で応酬した。


 只でさえクラス委員と言う事で煙たがられている彼女だが、今日は更に機嫌が悪いと言う事もあってか、他のクラスメート達は触らぬ神に祟り無しという様子で、そんな彼女を遠巻きにして見ている。


 しかし、誰がどう思おうが、そんなことはどうでも良かった。

 ただ彼女としては、自分の怒りのぶちまけ場所さえあればよかったのだ。


 完全な八つ当たりだと、自分でもよく分かっている。けれど、どうしようもない。


 「由沙ちゃん、どうしたの?」

 後ろの席から、親友の良子が心配そうに小声で尋ねて来きた。


 太ってはいないが、ぽっちゃりとした体つき。

 見るからにおっとりした感じの、まあまあ可愛らしい少女である。


 由沙は肩ごしにちらりと振り返り、『別に・・・』と呟いた。


 良子は不安そうな顔をしていたが、まだ今日の事を誰にも話す気にはなれない。

 ムカムカと腹がたっていて、何か言葉にすれば絶対に爆発するだろうと分かっていたからだ。


 由沙は、何時もの癖で意味もなく眼鏡を直すと、前に向き直ってじっと黒板を見つめた


 父親と言い争いになる事は、よくあった。

 お互いに短気なので、激化する事も時々ある。しかし、今日のような事は初めてだった。


 まだひりひりする頬を押さえ、腹立たしさに顔を顰める。浮かんできた涙を必死に堪え由沙はギリッと奥歯を噛み締めた。


 喧嘩のきっかけは、実に些細な事だったのだが・・・・。


 「何時も、あんなに遅くまで遊んでいるのか?」

 普段通りの平凡な朝の食卓風景が、父の一言で一変した。


 焼けたばかりの食パンを皿に入れ、テーブルへと運んで来た由沙に向かって、父親は新聞を読みながら不機嫌にそう言ったのだ。


 父親の言葉に、かちんとくる。


 確かに昨日、帰りが遅くなったのは確かだ。父は残業だと言っていたし、夕食の準備もしなくていいと思って、映画を見た帰りに親友の原田良子とハンバーガーショップへ行った。


 そんな事は久し振りだったから、由沙はお喋りに夢中になってしまった。

 気がつくと、既に門限。びっくりして、とにかくすぐ家に帰ったのである。


 別に、父親がいないから遅くなった訳ではなかった。父がいなくても、由沙は門限を破る事など殆どない。それどころか、破りたいと思った事もない。その点で言えば、由沙は馬鹿がつくほど真面目な性格をしているのだ。


 所が、たまたまその日に限って、帰ってみると父は既に帰宅していた。


 その事に少しぎょっとしたが、別に疚しい事をした訳ではないので、由沙は正直に帰りが遅かった訳を話して謝った。

 父親も、黙って話しを聞いていただけで、別に何も言わなかった。


 だから終わったとばっかり思っていたのだ。

 それなのに、何も朝になってから言わなくたって・・・・・・。


 心の中で文句を言う。何時も帰りが遅い訳ではないくらい、当然父も知っている筈。

 なんせ、父一人子一人。


 清掃会社で働いている父は、体が悪くなるんじゃないかと思う程、毎日毎日働き詰めだ。その為、家に帰ればぐったりとして、動く事さえ億劫な様子だった。


 由沙は、物心付く前に死んでしまった母親の代わりに、掃除や洗濯や食事の用意、そうした家事全般を受け持ってきた。


 それだけじゃない、学校ではクラス委員としての仕事、家に帰れば忙しい父に代わって地区の清掃や、決められた福祉活動までしなければならなかった。

 家計管理を担っているのも、勿論由沙だ。


 その為、友達との付き合いも出来ず、まるで生活に追われた主婦のような暮らしを強いられている。


 それなのに、たまに帰りが遅くなったくらいで、何で怒られなきゃならないんだろう?

 私は、今まで随分我慢してきたと言うのに・・・・・。


 「よっちゃんと映画に行った帰りに、御飯食べようって誘われたの。私だって、たまにはゆっくり友達と喋りたいわ」


 言いながら、椅子に座る。それから食パンを取って、マーガリンを手早く塗った。


 「私が帰らない日は、そうやって遅くまで遊んでるのか?高校生のしかも女の子が、暗くなっても帰らないなんて、近所の人達が聞いたらどう思うか・・・・」


 父親は、相変わらず新聞を読んだまま。由沙は、その言葉と態度に、更にかちんときた。


 近所の叔母さん達は、由沙の事を良く知っている。偉いねと褒めてくれるが、そんな風な目で見ることは決してないだろう。


 ──────お父さんは、全然分かってない。


 「遅くなったのは、昨日だけよ。自分の娘が信用出来ないの?大体お父さんは、どうしてそういう事しか言えないのよ。私がこんなに一生懸命やってても、何も言ってくれないじゃない」


 元来気の強い性格の由沙は、言葉をきつくして言い返した。

 しかし由沙の父、杉原正明は、新聞を捲りながら素っ気なく返しただけだった。


 「父さんは、お前の為に身を粉にして働いているんだ。父さんが出来ない事を、お前がするのは当然だろう。隣の清美ちゃんなんか、お店の手伝いまでしてるんだぞ。それなのにお前ときたら、まるで大仕事でもさせられているみたいに、何時も文句ばかり言って」

 

 「何でよ、隣のお姉さんは関係ないじゃない。それに隣はお母さんが居るんだから、うちとは状況が違うわ」

 「そういう問題じゃない」

 正明は、ようやく新聞から顔を上げて言った。その顔が、不機嫌そうに歪められている。


 手にしたパンを皿に戻し、由沙は真っ直ぐ父親の顔を睨みつけた。怒りを我慢しているせいか、手が小さく震えていた。


 「じゃあ、どういう問題よ。大体、お父さんは勝手よ。自分だって、飲みに行ったら夜中になっても帰らない癖に。それで、家の事はみんな私に押しつけてるじゃない。少しでも褒めてくれると思ったら、隣の清美ちゃんは、隣の清美ちゃんは、何時もそればっかり。そんなに清美さんが好きなら、清美さんを養女にでも貰えばいいんだわ。それで、私なんか追い出せばいいじゃない!」

 「由沙!」


 ついに正明は、怒りの声を上げて新聞をテーブルに投げ出した。ダンッ、と大きな音を立てて立ち上がる。


 コーヒの入ったマグカップが揺れ、トーストを乗せた皿とハムエッグを乗せた皿がぶつかってガチャンと音をたてた。


 「お前は、何て事を言うんだ。謝りなさい!」

 父親の荒々しい声に一瞬怯んだが、由沙はそれでも怒りを静めなかった。父親に負けぬくらいの乱暴さで立ち上がると、フンと顔を背けてキッチンを出る。


 「待ちなさい!」

 叫びながら、正明も由沙の後を追って来た。

 「待ちなさいと言っているだろう!」

 階段の前で肩を捕まれ、無理やり振り向けさせられる。

 由沙は、更に顔を歪めた。


 「お父さんは、私が嫌いなのよ。だから、そんなに冷たいんだわ。私となんて居たくないのよ。私の事なんか、どうでもいいんでしょ。私より、仕事とかお酒の方が大事なんでしょ!」

 パシッ。

 もの凄い音と共に、由沙の頬が鳴った。新調したばかりの眼鏡が吹き飛ぶくらい、それは強烈な平手打ちだった。


 それなのに由沙は、父に殴られたと気付くのに少し時間がかかった。

 正明は、怒鳴る事はあっても決して手をあげたりしない性格だった。

 それが、今日は余程肝に据えかねたのか、娘をぶつという最悪の行為で怒りを表現したのである。


 茫然と頬を押さえ、険しい父の顔を見返す。そのうち、目の中に涙が膨らんできた。

 悲しくて悔しくて、でも泣きたくなくて、我慢しようとすればする程、涙が頬を伝って流れていく。


 由沙は素早く眼鏡を拾うと、突き飛ばすような形で父親の脇をすり抜けた。そのまま、玄関に置いてあった鞄を抱えて靴を履く。


 「由沙、待ちなさい!」

 「お父さんなんか、大嫌い!」

 呼び止める父に向かって、由沙はあらん限りの大声で言葉を叩きつけた。そして、逃げるように外へ飛び出したのだった。

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