異常者の手記

たま

異常者の手記

 合成音声の歌ばかり聞いている。

 別にオタクってわけじゃない。

 機械仕掛けの歌声は冷たいから好きだ。

 耳が痛くなってきて、イヤホンを外す。


 そう言えば、最後に人間に触ったのはいつだろう。

 生物と呼べる存在に、もう半年は触っていない。


 そう考えていた矢先、目の前を蝶が飛んでいた。

 白くて小さな、可愛らしい蝶。

 図体ばかり大きいだけで、どこにも行けない僕と正反対。

 

 蝶は花の蜜を吸っている。

 そっと近づいても、逃げない。

 よっぽど美味しいらしい。


 だから、簡単に握り潰すことができた。

 手を開くと、そこには生き物だったものの残骸がある。

 白、黒、赤。汚い。


 忌々しい顔を作りながら払い除ける。

 本当はそんなに嫌な気分じゃないけど、普通の人間ならこんな顔をするだろうな。

 そんな想像で真似ているだけ。


 歩き出す。家に帰るために。

 右手がベタベタする。

 この蝶は天国に行ったのだろうか。

 天国に行けるのは人間だけだろうか。

 どうして人間だけが特別扱いされるのだろう。

 虫は死んだらどこに行くのだろう。


 僕が死んだら、地獄に行くだろうか。

 そんなことで、僕が積み重ねてきた罪が浄化されるのか。

 他者に加えた苦痛を、死んだ後に与えられる。

 地獄とはそういう場所だろうか。


 そんなの、誰も知らない。

 死人は口を開けない。

 臨死体験なんてものがあるが、あんなのはただの夢だ。

 それか、作り話。つまらない嘘だ。


 ちなみに僕は、神を信じていない。

 それは、存在を否定しているということではない。

 神はいる。今も、僕を見ている。

 人がお菓子を食べながらテレビ画面を見るように、僕を見て笑っている。


 彼は僕を救ってくれない。

 だから僕も彼に祈らない。

 僕は神を信じない。

 信頼する価値がない。


 自宅が近づいてくる。

 真っ直ぐの道を歩く。

 車に轢かれたくて車道を歩く。

 どうせ、こんな細い道を走る車なんて滅多にないけれど。


 鳥が飛んでいる。カラスだ。

 巣に帰っていくのだろうか。

 あいつには手が届かない。

 殺せない。


 鳥の脳みそはどんな感触だろう。

 きっと人間の脳みそと同じだ。

 僕らはちょっと発達しすぎただけの動物だ。

 地球を支配したつもりになっているだけの、哀れな生命体。


 例えば、宇宙の外側があったとする。

 そこは、僕たちが暮らしているようなマンションの一室。

 親子らしい二人組が、こちらを覗き込んでいる。

 まるで飼っている金魚でも見るような目で。


 そう、この宇宙は誰かが飼育している水槽の中。

 この親子が神と呼ばれる存在。

 定期的に幸福という餌を撒いて、人間を飼い慣らしている。

 これは誰もが否定して、誰もが証明できない思考。


 水槽の中の水槽で、人間は魚を飼っている。

 魚は幸せだ。こいつらには痛覚がないらしい。

 おまけに、たかだか数メートルの立方体に囚われていることがわからない。

 でも、それは人類も同じ。たった138億光年の箱で飼育されていると気づかない。


 皆、気づかなかったのに。僕だけ知ってしまった。

 だから苦しんでいる。

 知識欲とは恐ろしく、知りすぎた僕は神の怒りに触れたらしい。


 この瞬間も神が監視している。

 僕の後頭部を睨みつけている。

 頭が痛い。気が触れてしまう。

 もうとっくに、僕はおかしくなっているけれど。

 狂っていると自覚しながら、もっと狂っていく。

 それがどんなに辛いことか、健常者が理解できるはずない。


 玄関のドアを開ける。鍵をかけ忘れて行ったらしい。

 部屋の中を確認する。侵入者はいない。

 強盗と鉢合わせた挙句殺害される、というパラレルワールドを妄想する。

 全く恐怖を感じない。

 ただ、その世界線の僕にお悔やみ申し上げた。


 洗面所で手を洗う。

 石鹸の泡と生物の欠片が、排水溝に還っていく。


 そういえば、僕は幼少期に公園で遊ぶのが好きだった。

 こう聞けば健全に思うかもしれない。

 しかし、僕が気に入っていた遊びは滑り台でもブランコでもない。

 地面を歩いている蟻を見つけて潰すことだ。


 親指と人差し指で摘まんで、今から死ぬ蟻を見つめる。

 蟻は小さな手足でもがいている。必死に噛みついて抵抗している。

 圧倒的弱者を踏みにじるのは、人間が特別に得た知能が故の快感だ。


 まるでバースデーケーキの蝋燭を吹き消すような気持ちで、指をくっつける。

 小さな命の灯を吹き消す。


 そうして、また蟻を探す。


 潰す。


 探す。


 潰す。


 探す。


 潰す。


 この時、僕は普通の子供のように笑っていられた。

 楽しい気持ちで家に帰ることができた。

 帰ったら父からの暴力と母からの罵声があったとしても、僕は幸せ。

 公園に行けば、僕より惨めな奴が何匹も地面を這いつくばっている。

 そう考えると気が楽になった。


 タオルで手を拭いて、洗面所の明かりを消す。

 リビングに向かう。

 おかえりなさい、と言ってくれる人物はいない。

 僕を待っている存在はいない。

 僕を愛してくれる存在もいない。


 僕はネクタイが輪の形になるように縛って、カーテンレールに結ぶ。

 早くここに首を通せと、揺れて催促してくる。

 言われなくても、すぐにやる。

 でも、もう少し面白い最期にしたっていいじゃないか。

 僕は窓を開けて、空を見上げる。

 夕焼け色が目に染みる。

 そろそろ神が餌を撒く時間だ。



「この人生、誰も僕を見てくれなかった」



 そう呟く。

 叫ばなくても、聞こえている。彼は耳がいい。



「お前も冷血な奴だ。最期まで僕を救わなかった。信仰心がないから? そんなの言い訳だ。仮にも神を名乗るなら、選り好みなんてするなよ」



 風が吹き込んでくる。

 季節が移り変わっていく香りだ。

 額に冷たさを感じて、初めて自分が汗をかいていることに気づく。



「冷や汗? そんな訳ないだろ。もう、何も怖くない」



 水槽の向こうを睨みつける。

 ガラス越しに、彼は笑っている。



「お前のことは憎んでいる。でも、嫌いじゃない。どうしてか、わかるか?」



 返答はない。

 ため息を吐いて、教えてやる。



「最期まで見ていてくれたからだよ。僕のこと」



 これは感謝じゃない。

 あくまで事実を述べているだけ。



「どうせ、僕は地獄行き。お前とはさようならだ。だから、別れの挨拶くらいしてもいいだろ」



 腐れ縁の友人とは、こんな相手なのだろうか。

 自分と神が対等だと考えるなんて、僕は酷いな。

 正気な奴らは、こぞって神を敬っている。


 しかし、僕は狂人だ。

 神を見下している。

 友人になるなんて、こっちから願い下げだ。



「まあ、悪い飼育者じゃないと思うよ。この世界には、幸せそうな奴がたくさんいる。これからも毎日、ちゃんと餌やれよ」



 自分がそうなれなかったことが悲しいけれど、もう諦める。

 僕は蝶になって、カラスになって、羽蟻になって、地獄へ飛んでいく。

 せいぜい、そこで黙って見ていろ。



「さようなら」



 僕は窓を閉めた。

 椅子に乗って、ネクタイに首を通す。

 手が、震える。頬を、涙が伝う。



「……ははっ」



 こんな状態でも、まだ生に執着している。

 脳みそに刻まれている、「生きる」という本能。

 まったく優秀な設計者だな、神は。



「でも、残念」



 どうやら僕は、失敗作だったようだ。


 椅子を蹴る。

 一気に重力が解放される。


 目の前が真っ暗になって、気を失う刹那。

 彼が泣くような声が聞こえた。


 何を今更、馬鹿じゃないか。

 心の中で嘲笑しながら、僕の身体は動かなくなった。


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