レイの機人修繕記

道野 一葉

第1話 壊れた機人

 機械をいじってる間は、自分のことを考えずにいられた。


 だからレイは、今日も壊れた機人きじんを分解する。


 ひとつひとつのパーツに破損がないか、じっと目を凝らして、少しでも怪しければ右耳にかけた羽根ペンを手に取り、ボロボロに擦り切れた分厚い本の余白にメモしていく。


 目の前に横たえられた機人は、左手の人差し指と中指がちぎれていて、右腕は肘から下が外れていて、下半身に至ってはまるごと付いていなかった。それでも、動力受信機構がある腰部は無事だったし、AIと外界センサの大部分が搭載されている頭部も少しへこんでいるだけで欠損はなかったから、修理して起動プログラムさえ走らせることができれば動き出すはずなのだ。


 左胸部の分解を終えたレイは、メモを書いたページを破り、部屋の隅に積み上げられた様々な機械のスクラップに目を向ける。この中に、メモにとったパーツの代わりになる部品がないか考えていると、スクラップの山の麓が小さな音をたてて少し崩れた。


 羽根ペンを耳にかけ直し、メモのページを折り畳んでポケットに入れる。


ゆっくりと立ち上がって、床がほとんど見えないくらいに散らばった、たくさんの本の間の小さな隙間に一歩踏み出す


 本以外にも、丸められたページの残骸や、割れてしまったパーツの欠片なんかが散らばっているけれど、空いている隙間は床に敷いてある絨毯のくすんだ臙脂色が見えるからすぐ分かる。


 一歩目より広い隙間を見つけ、つま先立ちで、そっと二歩目。


 そのまま三歩目、と続けようとして、次の足の踏み場がないことに気がついた。


 あと一歩だけ進めればスクラップの前まで届くのに。いっそのことジャンプして一気に勝負を仕掛けようか――と考えたところで、壁際のベッドが目に入った。ベッドを経由すればスクラップ前まで渡れそうだ。


 ……だけど、あのオンボロベッドは寝返りをうっただけでギィ、と音がなる。


やめとこうか――でも、慎重に乗っかれば――


 大きく息を吸って、細く長く息を吐きながら右足を高くあげた。そのままゆっくり膝を伸ばして、そっと足の指先をベッドに付ける。が、まだ体重はかけない。軋む音がならないことを確認しながら、徐々に体重を移動させる。つま先だけで体重のほとんどを支えている左足が震え始めて、一気に右足に体重をかけたい衝動にかられるけれど、ぐっと堪える。


十秒かけて体重を移動し終えると、両手を前に突き出してバランスをとり、残りの左足もベッドの上へ乗せた。


 音はならなかった。


ひと安心して、息を吐き続けていたせいで空っぽになった肺へ鼻から空気を送り込む。


 ――ムズっ


 見ると、ベッドから舞い上がったホコリが窓からぼんやりと差し込んだ陽の光を反射してチラチラと漂っている。


 思い切り吸い込んでしまった――と気付いた途端、鼻のむずむずは一気に膨れ上がり、「ふぁ」と情けない声が出た。眉間にシワが寄って、目と口が半開きになって、


「はぁあっ――」


 寸前のところで両手を口に押し当ててギュッと目をつぶる。


 なんとかくしゃみを押し殺し、チラとスクラップの山に目をやると、積み重ねられたスクラップの陰からヒクヒク動く小さな鼻と長いひげが覗いていた。


「ふぅ……」


 まだ逃げられていない。


 安堵の溜息をつきながら、首を垂らした――瞬間、


右耳にかけていた羽根ペンがひらり。


 羽根ペンはくるくると回りながら、ヒクヒク動く小さな鼻の目の前に音も無く着地した。


 目の前に落ちてきた物体を確認しようと陰から姿を現したのは、白い毛並みに真っ赤な目をしたネズミ。


 ネズミは羽根ペンに近寄ってクンクンと匂いを嗅いだ後パッと顔を上げ、ベッドの上で間抜けな顔をしたレイと目が合うと、あっという間に壁に空いた小さな穴の中へと逃げていった。


「はぁあああーーーーっ」


 今までの静寂を追い払うような大きな溜息が吹き出る。


 あのネズミは、たまにレイの部屋に現れては、大事なパーツや大事でもないパーツなんかを、齧って使い物にできなくしたり、せっせとどこかへ運び出したりしているのだ。この前なんか、一番状態の良かった筋繊維ゴムをボロボロに齧りつくしてくれた。


 しばらくうなだれた後、ネズミが逃げ込んだ穴を見る。その穴は三日前に慣れない大工作業をして塞いだばかりの穴だった。


 まさか三日ももたずに突破されるなんて……とレイはもう一度溜息をつく。また穴を塞ぐ気にはなれなかった。例えあの穴を完璧に塞げたとしても、別のところに穴が増えるだけだ。


 機械のように一定の速さでゆっくりと首を動かしながら部屋を見渡した。


天井には蜘蛛の巣が張り巡らされ、壁は木の板がところどころ剥がれかかっている。


散らかった床から少しだけ見える臙脂色の絨毯は、雨漏りで腐った床板を踏み抜いてしまった時に、その穴からパーツが落ちないように敷いたものだ。


部屋に一つだけの丸くて小さな窓は、二本の大きなヒビが走っていてうっすらと曇っている。


 もっと大きな窓だったらこの部屋も明るくて作業もしやすいのに――


 と、そこでレイは初めて外が明るくなっていることに気がついた。


「あれ、もう朝……?」


 機人をいじるのに夢中で夜はいつのまにか過ぎていた。耳をすませば、夜じゅう聴こえていた虫の鳴き声は鳥の囀りに変わっている。小さな窓から覗く空は、もう朝を知らせる鐘の音が聴こえてきてもおかしくない空色だった。




 憂鬱が、あっと言う間にレイを飲み込んでいく。




 ベッドの上で膝を抱えて顔をふせると、少し伸びた襟足に隠れている首の裏にゆっくりと手を伸ばした。


目をつぶり、そっと指先で撫でる。


皮膚とは違う固い感触が伝わってくる。


その固い感触と柔らかい皮膚の境界に沿うように中指を這わせると、横長の小さな四角を描いた。


そのまま指先に力をいれる。


固い四角の領域がほんの少し首の中に沈んだのを感じる。


 鼻から吸う息が深くなって、吐き出すときの音が震えた。


指先はそのまま動かない。自分の体にある異質を確認するのが怖かった。


 レイはまた溜息をついたが、その溜息には悲痛な声が混じっていて、溜息なのか、漏れ出てきた悲鳴なのか、自分でも分からなかった。




 トットットットッ――




扉の外から聞き慣れた足音。


 レイがハッとして慌てて首から手を離すのと、部屋の扉が開かれたのは同時だった。


「レイ、起きてる? もう朝ご飯の時間だよ」


 明るい声と共に、この家の主人でありレイを拾ってくれた保護者でもあるモニカが顔を覗かせた。


保護者といっても、レイとモニカは親子というよりはどう見ても少し歳の離れた姉弟程度の年の差である。赤みがかった奇麗な髪はこの町では珍しく、美人であるのも手伝って、通りを歩いているとすごく目立った。


「あ、あれっ、もう朝の鐘なったっけ?」


「あーごめん! 言ってなかったね。クルーノおじさん昨日怪我しちゃったのよ。もしかしたらそれで遅れてるのかも」


「怪我? 大丈夫なの?」


「だいじょぶだいじょぶ。クルーノおじさん、防壁のすぐ近くで木の実採集してるときに遠くに機人を見つけたらしくてね? 慌てて逃げようとしたら足が絡まって転んじゃったんだって。その時にかるーく足を、ぐにっと、ね」


「機人から、逃げようとして……?」


「そそ。でもね、転んだ後よく見たら機人じゃなくて鹿だったんだって。クルーノおじさんあんな怖そうな顔して機人のこと人一倍怖がるんだよ?」


 笑いながら話すモニカだったが、レイはうまく笑えずに胸が嫌な鼓動を打ったのを感じた。モニカの明るい声とは裏腹にレイの体は冷えていく。


「……レイ? どうかした?」


「え、なんでもないよ。あ、ご飯、だよね。すぐ行く」


「そう? わかった。まってるね」


 怪しまれたかもしれない。とレイは思ったが、もう既にこれ以上ないほどに怪しい自分を、町の人たちの反対を押し切ってまで受け入れてくれたモニカに隠し事をしているということの方がレイの心を重くした。


 なにより、自分を一番怪しんでいるのはレイなのだ。


 扉の横に立てかけてある、鏡代わりに磨いた金属板――そこに写った自分の姿を見る。


細い手足に色素の薄い栗色の髪の少年が立っている。


まだ少しあどけなさの残る顔が、まったく知らない人を見るような目でこちらを見ている。


……頼りない奴だ――そう、思った。


 取っ手さえ付いていない急ごしらえの扉を半分だけ開けたところで、薄暗い部屋を振り返る。


散乱した床に転がる右手と下半身のない機人を、レイは複雑な目で見詰めた。







 大皿に盛られたいくつかの麦パン、コップに牛乳、それと手提げカゴには山盛りのイチジク。食卓の上にはいつもの朝食が用意されつつあった。あとは対面に置かれた二つの空の皿に焼き上がった目玉焼きがフライパンから盛りつけられれば完成だ。


 食卓のテーブルも、椅子も、皿も、コップも、部屋にある家具は全てモニカの手作りだ。木の伐採からニス塗りまで一人きりでこなしてしまう。ネズミ穴一つ満足に塞げないレイとは違って、モニカは大工仕事が得意である。


 無骨ながらも座り心地の良いしっかりとした椅子に座って、卵の焼ける音と匂いがする方へと顔を向けた。


 フライパンを覗き込んでいるモニカの後ろ姿が見える。


 引き締まったふとももに朝日が当たって白く光っている。なめらかな曲線を描くモニカの脚は驚くほど長い。


 よく村の男の子たちはモニカのことを「脚太デカ女」とからかうけれど、レイは、太くて長くて力強いモニカの脚が好きだった。あの脚で森の中をビュンビュンと駆け抜けるモニカの姿は、レイにはある種の畏敬の念さえ抱かせた。


もっとも、村の男の子たちも本当はモニカに相手にしてほしいだけなのだということをレイは知っている。


「ばっちり焼けたよ! 家の中で目玉焼きが作れるなんてほんっと夢みたい!」


 レイの目の前の皿に木ベラを使って目玉焼きをのせるモニカは、感動を噛みしめるように目を細めて言った。


「大袈裟だなぁ」


 レイは苦笑しながらもモニカの喜ぶ顔を見上げて嬉しくなる。壊れた機人から操作パネルがあるボディを切り取り平面に打ち付けた後、無線充電器とマグネット・アクチュエータを取り出して導線で繋いだだけの簡単な誘導加熱板は思いの外うまく動いてくれた。


「大袈裟なんかじゃないって! 毎朝毎朝、炊事場まで歩いて行くのって本当に大変なんだからね? レイは知らないだろうけどあそこはあそこで女の戦場なんだから!」


 普通、火を使うためには町にいくつかある共同炊事場にある釜戸までいかなくてはならない。個人の家が釜戸を持つには町長の許可が必要で、火事が起きないように炊事のためだけのレンガ造りの建物を周りの建物から距離を空けて建てなければならないため、実際に釜戸を所有しているのはごく一部の豪族だけだった。


「戦場? 炊事場が?」


「そうよー? 私みたいな若い女は舐められるのよ。一度ガツンと文句言ってからはそんなこともなくなったけど」


「そう、なんだ……」


 意外だった。モニカが舐められるなんてレイには想像できなかった。大人の男たちと並んでも見劣りしないほどの長身だし、遠征でもいつもモニカが一番の獲物を持ち帰ってくる。腕っ節だって強い。もしもレイが二人いて、二人ともが両手を使ったとしても、右腕一本のモニカに腕相撲で勝てるか怪しいほど。


「女の世界では敵を倒すことじゃなくて、敵を作らないことの方が重要なのよ。その点でいうと私は優秀とは言えないかもね」


 おどけるモニカに、そんなことないよ――そう言おうとして、レイは自分が町に来た日のこと思い出した。


 あの日、たくさんの人に反対され、怒鳴られながらも、一切弱気になることなくレイを保護すると言い張り続けたモニカは、確かに敵をたくさん作ってしまっただろう。


 レイはそのことを一度考えてしまうと、いつもいつも同じ問いが頭をぐるぐると回り始めてしまう。


 自分のせいでモニカは生活し辛くなってはいないだろうか?


このままいつまでもモニカに守られて生きていくのは間違っているのではないだろうか?


 モニカの負担にはなりたくない。家の中で目玉焼きが作れるようにしただけではとても返せない恩があって、その恩は日増しに大きくなっていく――


「余計なこと考えてる」


「え」


「顔あげて。すぐ下向いちゃうんだからレイは。まーた後ろ向きなこと考えてたでしょ?」


「いや、そんなこと…………あ、ほらっ! あの加熱板を町の人たちにも作ってあげたらどうかな、って」


 そうだ、それで町の人たちからモニカが感謝されれば、少しは恩を返すことになるんじゃないだろうか?


そう期待したレイだったが、


「ダメよ」


 一考の間もなく一蹴された。


「町の人たちが機人の体から作ったものなんて使うわけないでしょ? どうせいつもみたいに罰当たりだの冒涜だのって言い出すに決まってる」


「あ……そっか……」


「だからあれを使うのは私だけでいいの。レイと暮らしてる私だけの特権。ね?」


「……特権?」


「そ! 特権。へへ」


 微笑んで、モニカはぱくりと目玉焼きを口に入れた。焼きたてだったのを忘れていたのか、ハフハフと口から湯気を出しながら、ゆっくりと飲み込む。


 がっかりしたレイと目が合うと、モニカはもう一度、「とっ、け、ん 」と言って笑った。


 なかなか恩を返せそうにはないようだ。




 ○




「そういえば昨日、また寝ずにあの機人いじってたでしょ」


 食後にイチジクをつまんでいると、唐突にモニカが切り出した。いきなりの問いに驚いて、レイは口に入れかけていたイチジクを床に落としてしまった。更に、慌ててそれを拾い上げた拍子に頭をテーブルにぶつけ、まだ半分残っていた牛乳がコップから少しこぼれた。モニカお手製のテーブルの木目に白い水滴が染みこんでいく。


「そんなにびっくりしなくていいじゃない。大丈夫?」


「だ、大丈夫……」


「なーんか怪しいなぁ。危ないことしてるんじゃないの?」


「し、してないよ! 昨日はモニカが遠征で見つけてきてくれた本を読んでただけ」


 とっさに嘘をついてしまった。モニカは機械に関して寛容であるのは分かっていたが、それはあくまで町の人々と比べて、というだけかもしれず、モニカの機械に対する価値観が実際どんなものなのか、レイはまだ知らなかった。


「嘘。あの壊れた機人、いじってたでしょ? 白状しちゃいなさい」


 レイはモニカの顔を観察する。


わざとらしく眉間に皺を寄せたモニカの顔は怒っているようには見えなかった。


加熱板を作ってあげたときも、驚きと感心はあったにせよ、町の人たちのような嫌悪感は見せなかったように思う。今まで怖くてちゃんと訊いたことはなかったけど、少し話をして様子をみてみようか、とレイは考えた。


「……あの機人、見た目はすごくボロボロだけど、電源供給機構も、ニューロAIも無事なんだ」


「でんげ、きょーきゅ……? にゅーろえー……?」


「壊れてるのはそれぞれを繋ぐ部分だけで、そこさえ修理できれば……」


「……できれば?」


「もう一度、動くようになる……かも」


「えっ!? 何? 動かそうとしてるの!?」


 モニカは両手をテーブルに叩きつけた。衝撃でコップの中の牛乳がさっきよりもたくさん飛び出す。


「あっ、えっと――」


 やっぱりダメなんだ。そう思ってレイはごまかそうと言葉を探した。


――いや、そういうわけじゃないよ。動かそうなんて考えてない――


しかし、


「そんなことできるの!? レイ!!」


 モニカの目は輝いていた。


 ノドまででかかった否定の言葉を飲み込んで、戸惑いながらもレイはうなずく。


「た、たぶん、できなくも……ない……かも」


「ホントに!? すごい! レイ! すごいよ!」


 モニカの思いもよらぬ喜びように、レイはしどろもどろになった。ここまで勢いよく褒められてしまうと、言い訳したくなる。


「でも、まだ直せるって決まったわけじゃないよ? というか直せない確率の方が高くて、ニューロAIがうまくリアクティベートできるかどうかもわからないしうまく動かせたとしてもあの破損だと無線充電で得られる電力より破損部への修復に使うエネルギーの方が多いかもしれなくて――」


「動かせないの……?」


 一転してひどくがっかりした表情になるモニカに更にしどろもどろになる。


「え、え、えっと、動かせないと決まった訳でもなくて、起動時の初期化プログラムとウォームアップさえランできれば後はこっちでコマンドの優先度をいじれるから、あ、えっと、つまり、断線していない導線と電力コンバータがあれば――」


「わかった! 次の遠征でそれに必要なパーツを取ってくればいいのね!?」


「う……うん」


「よし! その必要なパーツってどんなの? レイの部屋にあるやつで似たようなのとかある? あれば見せて! 機人のパーツなんてよくわかんないけど頑張って覚えるからさ!」


「う、うん」


 興奮した様子でテーブルに身を乗り出したモニカの腕がコップに当たって危うくテーブルから落ちてしまいそうになったのをレイはなんとか押しとどめた。モニカはそれに気づきもせずに勢いよく立ち上がるとそのままレイの部屋へと歩き出す。が、三歩ほど進んだところで何かに気づいたように振り返ると、


「あ、でもレイ、絶対に町の人たちには見つかったらダメだからね? もちろん話してもダメ。いい? バレたら私たちこの町から追い出されちゃうからね? 約束できる?」


 自分の目線まで腰を屈めながら、ゆっくりと教え諭す様に話すモニカに、レイはあまりにも子供扱いされているようで少しむっとしたが、モニカと自分だけの秘密というのはくすぐったくも嬉しく、コクリと頷いた。


 モニカは「よし」と頷くと、目線を合わせたままレイの顔に手を伸ばした。


 そのままレイの左耳を優しく掴んで、自分の左耳を覆っていた綺麗な赤い髪を、空いている右手で耳にかける。


 これの意味は知っていた。学校で子供たちがやっているのをたまに見かける。だけど、やるのは初めてだった。


一度、ぎこちなく息を吐き出して、レイも恐る恐るモニカの左耳に右手を伸ばす。


「私とレイだけの秘密」


 そう言ってモニカはニッと笑った。綺麗な顔には不釣り合いに思えるその子供っぽい笑顔も、不釣り合いだからこそなのか、どきりとするほど魅力的だった。


「……約束」


 レイが答えて、二人一緒に耳を掴んだ手を離す。


 これが、ここでの約束の交わし方だった。







 モニカの耳の暖かさと柔らかい感触が残っている右手の指先を眺めていると、朝を告げる鐘が鳴った。いつもよりずいぶんと遅れての鐘の音は慌ただしく急かすような音で、浮ついたレイの心を引き戻す。


「あー、この焦りようはかなり遅れちゃったみたいだねクルーノおじさん。レイ、もう学校行かなくちゃ」


 行きたくない。いつもよりも何倍も強くそう思った。


「まだ時間あるよ! ――そ、そうだ。機人に使うやつではないんだけど、部屋におもちゃ用の小さいコンバータがあるんだ。基本的な構造は同じだから、どんな感じかは分かると思う」


「遅刻しちゃうよ。パーツのことは学校から帰ってからゆっくり教えて?」


「一日くらい遅刻したって大丈夫だよ!」


「だーめ。帰ってからね」


「走れば遅刻しないからさ! すぐに――」


「レイ」


 懇願するように見つめるレイの目をモニカはじっと見つめた。そして一息、ふぅと息を吐くと、


「学校、嫌い?」


 レイはモニカの視線から逃れるように顔を伏せた。


「周りの子が自分より小さい子ばっかりで、レイが行きづらく感じてるのは知ってる」


 レイは俯いたまま答えない。


「でも、恥ずかしがることないんだよ? 私もこの町に来たのは十四の時でさ、レイと同じように自分より小さい子たちに混じって授業うけてたんだから。レイより年上だったんだよ? 私が学校に行き始めたのは」


「……わかんないよ。僕は今一五歳かもしれないし」


「こんなにかわいい一五歳はいないと思うなぁ」


 レイは今度こそむっとしてモニカを見上げた。


「ふふ、私の場合レイと違って史学だけじゃなくて数学も神学も全然できなかった。それにね? その時の私、今のレイよりもちっちゃかったんだから。泣き虫だったし、恐がりだった。毎日学校に行くのが嫌で、学校で馬鹿にされるのが嫌で……今のレイと一緒」


 嘘だ! と、レイの表情が叫ぶ。モニカは大きくて、綺麗で、強くて――ちっちゃくて泣き虫のモニカなんて想像できない。


「ほんとだよ? こんなに大きくなり始めたのは確か一六になったくらいの頃から。脚太デカ女なんて言われちゃうし、へへへ、ちょっと成長しすぎちゃったかな」


「そんなことないよ! 大きいほうが――」


 とっさに否定の言葉が口から出てしまったが、後に続くはずの言葉は恥ずかしくて言えそうになかった。そんなレイの心情を知ってか知らずか、モニカは不思議そうに聞き返す。


「大きいほうが?」


「えっと……」


 大きい方が綺麗だよ。そんなことを言えるはずもなく、レイはさっきまでとは違う様子で俯いた。勢いで言ってしまいそうになった本音が自分の耳を赤くしていくのが分かって、それがバレないように、耳がかゆいフリをして、さりげなく髪の毛を耳にかぶせる。完全に覆える長さではないけれど、上半分くらいは隠れているはずで、今のさりげなさなら赤くなった耳はバレていないはずで――


「なぁにぃ? 今のほうがー?」


 バレバレだった。ニヤニヤを抑えきれずにモニカの口角は今にもつりあがりそうだ。完全にからかっている。


 恥ずかしすぎて、もはや首まで赤くなっているレイは、ついモニカに背中を向けてしまった。「なんでもない!」という強がりさえモゴモゴと途切れてしまう。


 対するモニカは既にニヤニヤを隠そうともしない。背中を向けられても、髪の毛の間からちらりと覗く真っ赤な耳は、言葉にして言う以上にレイの本心を見せつけていた。


「もーっ! かわいいなぁレイは!」


 レイの向かいに回り込むと、俯く顔をのぞき込み、「ねーねーなんて言おうとしたのー?」なんて言いながら、ますます赤くなるレイを見て思わず「でへへへへ」と危ない声を漏らす。


 しばらくして満足したのか、モニカはからかうのを止めて、俯きすぎてつむじしか見えなくなっているレイの頭をそっと胸に抱き寄せた。


 突然顔に感じる柔らかな感触と暖かさでレイは動けなくなる。


 さっきまで明るい声が響いていた部屋が嘘の様に静かになって、一匹の蝉が思い出したかのように窓の外で鳴き始めた。


 しつこいくらいに自分をからかっていたモニカが急に黙ってしまいレイは戸惑っていた。


何か話しかけようとしても、何を言えば良いのか分からなくて、口から出てくるのは声にならない空気の音ばかり。


モニカが今何を考えているのか分からなかった。表情が見たくても、急に訪れた沈黙が気恥ずかしさを助長して顔を上げることが出来ない。


 一匹だけだった蝉の声は、すぐにたくさんの声を引き連れてきて、折り重なった鳴き声が静けさを外側から塗り替えていく。


 窓枠に飛んできた新しい蝉が一際大きな声をあげた時、モニカは口を開いた。


 さっきまでとは打って変わって、優しく、ゆっくりと、囁くような声だった。


「――怖いよね。私よりもずっと不安だもんね」


 その言葉を聞いて、レイは呼吸さえ止めてしまったように固まった。


 モニカの手がレイの頭に優しく触れ、熱いまま凍ってしまった体を溶かすように、ゆっくりと撫で始める。


「きっと、嫌なこと言われたりもしてるんだよね」


撫でるたびに強ばった腕から少しだけ力が抜けていき、縮み上がっていた肩もゆっくりと下がっていった。


「でもね、私はレイの味方だから」


 全身の固さが消えて、代わりに、軽くて小さい重さが胸にかかったのをモニカは感じた。


「レイは一人じゃない。私がそばにいる」


 耳元で聞こえるモニカの声に、レイは何も答えられなかった。


「――大丈夫。記憶は戻ってくるよ。絶対思い出せるからね。レイ」


うるさい蝉がありがたかった。返事ができないのを蝉のせいにした。







 外に出ると、太陽は既に地上を照りつける準備を意気揚々と始めているようだった。町全体が日差しを反射して、色彩を薄くするほどの眩しさを放っている。


 レイは学校への道のりを歩きながら、通り過ぎていく町並みをいつも不思議な気持ちで眺めた。


 庭先に鶏を放し飼いにしている白木の家も、豚に混じってたまに羊の鳴き声が聞こえてくるオンボロ小屋も、干し草を山のように積んでいる土壁の納屋も、毎日見ているはずなのに視界を素通りしてくれない。気づけばキョロキョロと首を回しながら歩いていて、そのうちに町の人と目が合い慌てて顔を伏せる。またしばらくするとキョロキョロが始まって、町の人と目が合うと慌てて俯く。その繰り返し。


 建物を眺めるのは楽しかった。町には色んな建物があって、それぞれの造りがどうなっているのか観察し、見ることの出来ない内部の構造を想像し、いつかはモニカの家を立派に改装できたらと空想した。


今の家はもともと廃屋だったボロ家をモニカが少しずつ修理して住めるようにしたもので、改装するにしても結局は大工仕事が得意なモニカ頼みになってしまうかもしれない。だけど、自分には機械の知識がある。協力すれば町一番の家になるはずだ。


できればネズミに穴を空けられる心配のないレンガ造りの家がいいけど、贅沢は言えない。レンガの材料になるような粘土や石材が採れる採掘場は町からだいぶ離れた所にあり、機人がうろつく町の外で重い荷物を遠くまで運ぶというのは命がけの作業になってしまう。この町全体で見ても、レンガ造りの建物は教会か豪族の家の一部だけだ。ほとんどの町の人々は比較的調達することが簡単な木材で家を作っているし、服装だってみんな同じような麻の服で、袖口の模様や染め方による微妙な色の違いだけが辛うじて個性を主張しているにすぎない。レイも同じような麻の服を着ているが、この服はモニカが急ごしらえで用意してくれたものなのでレイにはすこし大きい。手が半分以上袖に隠れてしまっている姿はどうにも格好悪く思えて、モニカに袖を少し切ってもいいかと聞いたこともあったが、「レイもすぐ大きくなるんだから大丈夫だよ」と返されてしまった。そう言われてしまうと反論できない。自分だってすぐに大きくなるつもりなのだから。後に続けられた「そっちの方が可愛いし」という呟きは聞かなかったことにした。


 少し先の民家の前で、家の中に向かって何やら叫んでいた老婆が不機嫌そうにこちらへ振り向いた。慌てて妄想を中断して顔を伏せる。


町の人たちが自分のことをよく思っていないのは勘違いではないはずだった。


挨拶をしてくれる人も中にはいたが、どこかよそよそしく、不気味なものを見るような目をしていた。特に年寄りの中には明からさまに敵視するような視線を投げかけてくる者も多い。


老婆の前を俯いたまま小走りで駆け抜けると、人通りが多くなってきた道から外れて背の高い雑草の中を隠れるように進んだ。その道はいつもレイが通るせいで細い獣道のようになっている。いつものように小高い丘を登り、モニカが遠征から持ち帰ってきてくれた煤けた銀色の水筒を取り出して一口飲んだ。


 一息つくと、顔を上げる。


丘の頂上からは町を見渡せた。


何本かの白い煙が集まって細く空に伸びている所は、さっきモニカが言っていた共同炊事場だろう。その他にまばらに伸びている黒っぽい煙は鍛冶屋のものだろうか。陶芸の店もあると聞いたことがあるし、数少ない個人の炊事小屋かもしれない。


円形の町の真ん中には一本の川が流れていて、上流にいくほど立ち並ぶ民家は大きく立派になっている。川の下流は上流からの排水が流れ込んできているが、生活できないほど汚い訳ではない。その証拠に、まだ学校に行っていないような幼い子供たちが水遊びしているのが小さく見える。


所々に背の高い物見櫓があり、その上では大人の男が常に町を見渡していて、事件があれば櫓のひとつひとつに備え付けられた鐘を鳴らすらしい。その音は、時刻を告げるための腹に響くような鐘の音とは違い、甲高く耳を突くような音がするらしいけれど、レイはまだ聞いたことがなかった。


視線を町の外れまで伸ばす。


太い木と石でできた背の高い防壁が町を取り囲んでいて、その防壁にも一定の距離ごとに物見塔がついていた。しかしその塔は町中の物見櫓とは違い、町の「外」を見渡すためのもので、さらに言うと、機人が町に近づいてきていないか見張るためのものだ。壁はどこも十分に高かったが、川の上流に近づくほどさらに高く造られているように見えた。壁の外には山々が連なり、そのほとんどを鬱蒼とした森が覆っている。


「…………」


 レイはいつも学校に行く前に、ここで、この景色を眺めた。


 不思議だった。


 毎日のように眺めていても、飽きることはなかった。飽きるどころか、眺めるたびにこの光景が現実のものではないような驚きが胸に湧き上がってくる。でもそれは同時に、自分がこの町に受け入れられていないような疎外感を感じさせもした。


「……はぁ」


 一通り眺め終わると、重い足取りで学校へと向う。


 レイがこの町に来て、まもなく一〇〇日が過ぎようとしていた。

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