からっぽの我が家

九藤ラフカ

第1話

あれから何年が経ったのだろう。あれからとてつもなく長い時間が経過した。数え切れないほどのものが誕生し、その過程で同じくらいのものが腐敗して消えていった。結局何が生まれ何が無くなったのか。私はそれを感じ取ることができなかった。

 冒頭の質問に答えるならば、それは十年だ。あれから十年が経過した。それは誰かが何かを忘れることには充分すぎる時間の経過だった。

 その十年はあっという間だった。その時私は高校一年生だった。まだ初々しく今と比べ物にならないくらいに子どもだった。その時の——あの十年前の悲劇を私は今でも覚えている。脳裏に鮮明に焼き付いている。それを軽々しく悲劇と呼んでいいのか私は今でも分からない。でもあれは、文字通り悲劇そのものだった。

 その日から全てが変わった。

 私はその時仙台に住んでいた。父と母と私の三人家族のありふれた家庭だった。そのありふれた家庭はあの一瞬の出来事で崩壊していった。

 

 地面が唸っていた。怒っていた。

 辺りがぐらぐら揺れていた。歪んだ。

 意味も分からない不安を助長される警報がどこからか鳴った。

 当時私がいたその教室は不安ですぐにいっぱいになった。

 何かがどこかで崩壊した。

 得体の知れない物質が瞬く間に拡散していった。

 大きな泥色の帯が一瞬で街を包んだ。

 

 そして、そして——

 

 そして、私は生き残った。私の父と母が遺体で発見されたことを知ったのはそれから随分時間が経った後だった。

 

 両親を無くしてから私は神奈川の親戚に家に引き取られた。彼らは私に愛情をもって育ててくれた。転入先の高校を卒業してそのまま近くの国公立の大学を卒業し、上京後大手出版社に就職した。このように不自由なく生活できたのも彼らのおかげだった。

 

 その日は平日だったが、私は仕事を休んで仙台へと足を運んだ。あの日——仙台を離れた日から一度もあの場所へ戻ったことは無かった。戻ろうと思えば戻ることもできた。十年間の間にその機会は何度もあった。

 でも。でも、私はそれが正しいことかどうか判断する事ができなかった。私の家はどこかへと流れてた。両親の墓はどこにもない。私は仙台へ戻っても居場所なんて無かった。

 

 十年ぶりにあの場所へ帰る私は少し緊張していた。東京から仙台までは新幹線一本で約三時間で行くことができる。新幹線は宇都宮を経過して瞬く間に福島も通り過ぎてしまった。仙台が近づくと、電車の窓から美しい海の景色を見ることができた。

 そして。それに見とれていると。すぐに着いた。気づけば私は仙台駅を降りていた。懐かしい風が私を出迎えた。

 

 懐かしかった。あの頃と何も変わってはいなかった。仙台駅の改札口を出てそのまま外へと向かった。空は快晴だった。後ろを振り返ると赤みがかったレンガ色の駅がそこにはあった。きっと彼はこの十年の間の喜びも、悲しみも、どうにもならない悔しい気持ちも、一人で、その場所で、その気持ちを感じながら過ごしてきたのだろう。彼はずっとここにいたのだ。神奈川へ逃げた私とは違って。

 

 私は仙台駅に戻り仙石線の改札口を通りそのまま快速電車に乗った。そして、二十五分ほど揺られて松島海岸駅で降りた。

 ここ松島は日本三景に数えられる美しい海岸の景色が有名だ。

 私は駅を降りてそのまま海岸沿いを歩いた。風は穏やかでとても気持ちよかった。何にも染まっていない美しい空の青と、辺り一面に広がっている海は絶景という言葉以外に例えることができるものは何も無かった。私はこの場所に帰ってきたんだと強く感じた。

 

 そのまま海岸沿いを歩いているとこじんまりとした定食屋さんを見つけた。時間はお昼を過ぎていて家で軽く朝食を食べて以来何も口にしていなかったのでその定食屋さんに足を運んだ。

 扉を開くと中は少し薄暗かった。私は定休日なのかと思ったが中からお店の人と思われる女性が出てきた。年齢は四十代後半だろうか。そう推測できるように顔にはシワが目立つが小綺麗で優しそうな人であった。

 「あら?お客さん?いらっしゃい。好きな席に座ってね。」

 「ああ。ありがとうございます。」

 私はそう言って近くの机に座った。そのお店の人からメニューをいただきこの店の人気定食である焼き魚定食を一つ注文した。注文後そのお店の人は厨房へと向かいことことと料理を始めた。

 どこか懐かしい雰囲気だった。生まれてからあの日までの十五年間この仙台で暮らしていたが、この食屋には初めて来た。

 なのに。初めて来たはずなのに。

 まるで、以前来たような郷愁におそわれた。

 しばらくすると、厨房の方からはおいしそうな匂いがしてきた。

 とんとん。ぐつぐつ。

 ここはとても不思議な空間だった。

 

 焼き魚定食はご飯とわかめと豆腐の味噌汁、そして焼き魚にお漬物というシンプルなものだった。

 それでも、ご飯は炊きたてで美味しく、味噌汁はどこか懐かしい故郷を思い出す味だった。焼き魚はここ仙台でとれた新鮮な魚を使っているらしく、家でつくるものやスーパーで買うものとは一味違かった。

 

 「仙台にくるのは初めてですか?」

 完食も近くなったころお店のおばさんはそう私に話しかけてくれた。

 「昔仙台に住んでました。でも、あの日以来両親を無くしてしまって。それで、神奈川の方に引越したんです。ちょうど高校生の時でした。」

 「ああ、そうなの。なんか悪いことを聞いてしまったみたいね。ごめんなさい……」

 「あの日」と言うだけで通じるんだ。特にここ東北地方の人には。やっぱり十年たっても我々東北に住んでいて被害にあった人々の胸にはあの出来事がいつまでも胸に刻まれているんだ。私はこの時そう感じた。

 「いえ、全然いいんです。それから今は東京で就職して幸せに生活していますから。独身ですけどね(笑)。」

 「それはよかったわ。ここに来るのは何年ぶりなの?」

 「あの日以来です。戻ってくるタイミングはいつでもあったはずなんですけど……いろいろあって十年ぶりですね。」

 「あらそうなの。どう?十年ぶりのこの街は。」

 「随分と綺麗になりましたね。あの時と比べて。道も綺麗に舗装されて、少しずつですが瓦礫も撤去されているようで。さっき知ったんですが来年に新しい高速道路もできるそうですね。」

 「そうなのよ。ここは綺麗になったわ。でも……」

 そこでおばさんの話は終わった。何があったんですかと聞くことはできなかった。きっと何かがあったのだろう。あの日以来、私たちの胸には、形は違くても、何かが、トラウマみたいなものが残っている。ドロっとした泥のような負の感情が体内を巡るのだ。

 もう十年も経ちあの日のことは少しずつ忘れていっているけど。

 それでも、ふとした時に思い出す。

 あの日見た残酷な映像。

 自分の目で見た生々しいフィルム。

 どこかで誰かが叫ぶ。

 耳にこびり付く警報音。

 それらのことを。それらの恐怖を。

 私はいつまでたっても忘れることができなかった。

 

 定食屋を出て私はまた海沿いを散歩しだした。やっぱりこの街は綺麗だなって思った。あの頃から変わったなって。道も空も海も。

 何もかもが整備されていた。

 でもそれだけだった。

 それだけだったんだ。

 定食屋を出てだだっ広い街並みを目にした時、私はあの時のおばさんの表情を思い出した。

 ここには人がいなくっていた。

 からっぽなんだ。

 道だけが整備されて。

 瓦礫が撤去されて。

 放射線の量が少なくなって。

 人々が住める環境が整った。この十年で。

 でも、誰も戻ってこなかったんだ。きっと。

 あの日を境に私みたいに他県に引越しをした、避難をした人はたくさんいるだろう。何しろここ東北地方は住めなくなったのだ。

 致死量を何十倍も何百倍も超える放射能。

 津波によって流された家。多くの瓦礫。

 鉄骨だけが残った公共施設。

 人が住めるような場所では無かったんだ。

 

 十年が経って綺麗になった。しかし、十年という月日は人が他の場所で新しい生活の営みを作り上げるのには十分な期間だった。だから。きっと。それでも新しい生活を捨ててこの街に戻ってくる人なんていないんだ。

 だから。

 この街はからっぽなんだ。

 まるで誰もいないテーマパークのようだった。

 形だけが整備され、そこには最新のアトラクションが並ぶ。でも、そこには誰もいない。

 この道も。

 この海も。

 この空も。

 一体誰のためにあるのだろう。

 

 夕方になり、私は仙台駅に戻り新幹線に乗った。そのまま東京に戻った。

 窓からは綺麗な夕焼けと赤く染まる仙台の美しい海の景色が見えた。

 でも。その綺麗な景色を。

 私はここに来る時と同じ気持ちで見ることはできなかった。

 

 東京はガヤガヤとしていた。全然違うなって思った。

 あの町と。

 あの風景と。

 あの海と空が。

 少しだけ懐かしかった。

 これからの十年は、今までも十年よりも平穏な日々になるだろう。そう願いたい。そう思いながら、一人東京の繁華街を歩いた。

 キラキラと光るネオン。

 派手な飲食店の看板。

 どこかで人が叫んだ。

 誰かが泣いている。

 誰かが笑っている。

 赤いランプを鳴らしパトカーが大通りを横切った。

 騒がしかった。この街は。

 この人たちは私たちがこの十年で負った苦しみを知らないんだろうと思った。

 私はそんな町の中心に一人で立っていた。

 私はここで何をしているんだろう。

 

 その答えが出たのはずっと後だった。

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