35.宮リツカ先輩(被壊者)について

「先輩。ちょ~っと落ち着いて深呼吸しましょ?」


「う、うん……」


井上さんが宮先輩の背を撫でつつ優しく介抱かいほうしている。

傍目はためには麗しい女の子が二人でイチャイチャしているようにも見えるが、その実態は介護者と被介護者の関係であった。

先輩は深呼吸を数度繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻した。


「……ごめんね二人とも、安城く――ッじゃなくて、安城さんの男装姿が刷り込まれてて、ね?」


あたふたと身振り手振りを交えて宮先輩がそのような事を言った。

どうも、彼女の中では未だに俺の性別に対する認識が現実と噛み合っていないらしい。

俺はなるべく自然な笑みを浮かべつつ頷く。


「……えと、確かに。髪型もあの時と違いますもんね。しかもスカート穿いてるし……」


現在の俺は髪型も男っぽく整えていないし、誰がどう見てもただの女子高生である。


「そうっ。だから悪気はなくってね……あっいや、勿論そっちの姿も素敵――ッ、なんでもない……」


そう言い、先輩は耳まで赤く染めつつ顔を両手で覆った。

途中まで言いかけてやめた感じの空気で誤魔化してるけど全部言ってる。

俺は仕方がないので都合よく難聴になる事にした。

これ見よがしに首を傾げる。


「え?なんですって?」


「な、なんでもないよっ」


やれやれ、先輩は顔を抑えたままそう言った。

やれやれ。俺は肝を冷やした。やれやれ。


先程から先輩の紡ぐ言葉の端々から飛来するLOVEのつぶてがビシビシと俺の全身を打っている。

なんなら指の隙間からこちらを覗いている視線すらも熱っぽい。


こう露骨な好意を異性――もとい、女性から向けられるのは久々だった。

具体的には今世の幼稚園時代以来である。圧倒的幼女。

縁が途切れて久しいあの子は今でも元気だろうか……と思考が逃避を始めそうになったので自分の額を軽く叩いた。


なんというか、女の子から向けられるストレートかつ強めの愛情に対し、どう振舞えばいいのかがマジで分からない。

原因は我が人生における圧倒的なモテ経験値の不足である。当然ながら前世も含むものとする。


そんな訳なので、シンプルに対応に困っている。

額や背中にはじっとりと汗が滲んでいた。いつの間にか頬も熱っぽくなっている気がする。


井上さんは、俺と宮先輩のやり取りを横合いから興味深げに眺めている。

言わば恋バナを聞く時の女子のように静かに瞳を輝かせていた。やめてほしい。


実のところ、俺は宮先輩の事は割と好きだ。

部活見学の際の一連の対応からも彼女が心優しい人物である事は分かっているし、同じ楽器トランペットという共通の趣味もある。


そんな魅力的な人物から好意を寄せられているという事実は素直に喜ばしいと思える。


だがしかし……それはそれとして。

好意を寄せられるきっかけとなった出来事が例の騒動男装ドッキリという事実には、なんとも言えない後ろめたさがあった。


罪悪感、緊張感、混乱、経験不足。

そういった諸々の不協和ノイズが入り混じった結果。



「……え……えと。いい天気ですね」



気付けば我ながらクソみたいな話題で茶を濁していた。

ちなみに今日の天気は曇りである。窓の外は薄暗い。死ぬ程天気悪いが?


「え?…………あ……う、うん、涼しくて……過ごしやすいと思う……かな?」


先輩は脈絡のない俺の発言を受け、窓の外を見て首を傾げつつそう言った。

完全に気を遣わせている。控えめに言って最悪である。割と死にたい。


「…………フフ……仰る通りですね」


「う、うん…………あはは」


愛想笑いを浮かべたところで、再び先輩と目が合った。顔が熱い。

何がそんなに刺さったのか知らないが、こちらを見る先輩の顔の赤みは更に増し、茹蛸ゆでだこが白く見えるレベルで紅々としていた。

数瞬、そのまま互いに見つめ合っていたが、どちらともなく無言で目を伏せた。


「……」


「……」


"多難な会話"として、これは実に美しいサンプルケースであった事だろう。


チラリと井上さんを見やれば、そんな俺達のやり取りを見て微笑んでいた。

傍から見れば可愛らしいやり取りに見えたりしたのだろうか。当事者的には地獄であったが――


「あはは。お二人とも、地獄みたいな空気になってますよ」


――ちゃんと傍から見ても地獄だったらしい。井上さんは和やかに笑った。


「……あっ、あの、私、もう行くね!部活行かなきゃ!ま、またね!」


宮先輩はそろそろ限界だったらしい。

一方的にそう宣言すると、こちらが挨拶を返す間も無く、真っ赤な顔で微笑みながら足早に去っていった。


「――もう、完全にの虜になってるね」


「…………」


「……、取れそう?」


「…………、…………え?なんだって?」


井上さんの言葉に対し、俺は難聴になる事しかできなかった。


「あはは……相談なら、いつでも乗るからね」


井上さんは、そんな俺を見て慈悲に満ちた微笑みを浮かべていた。

きっと、彼女は彼女で何らかの責任を感じているのだろう。無理もねぇ。


だけど今はまだ、聴覚を失ったままでいさせてほしい。

今の俺には"何が正解か"どころか、"何が分からないのか"すら分かっていないのである。


せめて、彼女――宮リツカ先輩に対しては常に誠実であろう。そう静かに誓った。

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