日記

橋広 高

日記本文

 今日は一日中眠たかったです。眠すぎて電車を乗り過ごして一限の授業を取り逃してしまいました。単位を落としそうで困りましたが、仕方がないので次の授業に集中することにしました。

 次は英語の授業でした。僕は英語が苦手なので板書されるとんちんかんな文章が黒板の上で踊っているように見えました。文字が互いに溶け合って融合して読めなくなっていきました。それを見ていると、まるで催眠術でもかけられたかのように眠くなっていったのです。

 僕は必死に堪えようとしましたが抵抗虚しく、視界は真っ暗に、意識は糸の断ち切られた重りのように深くに落ちてしまいました。

 その直後、僕の意識は額の鈍痛とともに急に体に戻ってきました。目を開いて机から顔を上げると、周囲のクラスメートがそろってこちらを向いていました。その瞬間、僕は自分が眠った拍子に頭を机にぶつけたのだと知り、恥ずかしい気持ちになりました。英語の先生が顔を洗ってこいと言ったので、逃げるように教室を出ました。

 隣の教室を一つ横切ってお手洗い、鏡を見るとまぶたが半分落ち、額が赤くなったまぬけな顔がありました。眠気は地の底から直接僕の脳を引っ張り、了解なしに深底の方へ引きずり込もうとしていました。僕は蛇口をひねり手を濡らしながら、窓の方を見て(ああ、早く帰りたいな。帰って寝たいな)なんて思っていました。

 水は顔の皮膚が驚いて引き締まるほど冷たかったのですが、熱を持った筋肉やそこよりも深いところには効果がありませんでした。いや、むしろ逆効果だったとすら思えました。戻り道、降りてきたまぶたに視界のほとんどが奪われ、わずかに視神経を刺激する光と、自分の直進の感覚を信じるしかありませんでした。

 しかしながら、僕はその感覚すらも眠気に侵されていました。どこで間違えたのか、僕は隣の教室のドアに思いっきり頭をぶつけていたのです。鈍く大きな音を立てて、僕は尻から倒れ込みました。すぐにドアが開き、中から恰幅の良い三十代の女性が出てきました。彼女は慌てた様子で僕の方を掴みました。

「ちょっと、大丈夫?!」

 その声を聞いて、僕はまず(隣のクラスは数学だったんだ)という呑気な思考が生まれました。次に、僕は自分の無事を伝えるために、回らない頭で浮かんだ言葉を繋ごうとしました。おそらく、こんな感じだったと思います。

「大丈夫大丈夫です。顔を洗ったので全部眠気も目も鼻も顔も手も足も意識も人も町も猫も人も十一流れましたから大丈夫です」

 今振り返るとかなり大丈夫ではなかったですね。こんなことを言ったので案の定先生は私を保健室に連れていきました。ここで休むように言われ、ベッドに横たわると、半ば失神するように僕は眠りにつきました。

 僕はそこで夢を見ました。

 僕は授業を受けていました。教科は数学でした。先生が黒板に図を書き込みながら講義していました。

「この一次関数を基準としたレプリカは現実とは矛盾しているが曖昧模糊な効果大だ。ここに二本の線を書くと中間を取ることになるため境界が明確になっていくが今度はズレによる錯覚が起こって強制的に種が変更されてしまう。だが第三の点を中に入れると正しさの選別の末に犠牲の燃料が生まれて列車は走り去るんだ。この悲劇を極小にするために必要な第4の要素こそが」

 そう言って先生は黒板に英単語を書き始めました。すると先生の姿がみるみるうちに変化していきました。

「これです。uncomfortable」

 授業が数学から英語に変わってしまいました。時々起こることですが、僕は数学が一番得意で英語が一番苦手なのでやるせないなと思いました。

「じゃあ、この単語の意味を答えてもらおうかな……そこの君」

 そう言って指さされたのは僕の隣、すなわち教室の中心に座っていた、眼鏡をかけた男子でした。彼は今日は数学一点読みだったのか、慌てて取り出す教科書教科書その全てが数学のものでした。

 二十冊ほどを散らして観念したのか、彼は教科書もなしに黒板の問題に向かい合いました。汗がとめどなく流れ、目は泳ぎ黒板の文字を補足するのでやっとでした。

「か……快適……?」

「も〜〜、真反対ですよ〜〜」

 先生が指摘すると教室がどっと笑いに包まれました。同調を強制する嫌な笑いでした。仕方がなく僕も下品に笑いました。

 すると、教室列車が急減速してガタンと揺れました。教室の前のドアに聡明そうな女生徒がもたれかかっていました。息は荒く、肩が上下していました。

「何してるんだっお前!」

 教師は怒り狂いながらズンズンと歩み寄りました。女生徒は絞り出したように小さな悲鳴を上げて、また残された気力を振り絞るようにして扉に手をかけて開けて、閉めて、また開けました。その緩慢な様子を見て腸煮えくり返った教師は何を言っているのかも分からぬほどの怒号を上げ、その生徒の肩を思いっ切り蹴り飛ばしました。

 減速したとはいえ、人の肉体では出せない速度の教室から投げ出された彼女は、鈍い音を立てて外においていかれてしまいました。

 少し経つと、当然動力係がいなくなってしまったために、教室は完全に止まってしまいました。その頃は教師の機嫌ももとに戻り、ニコニコした様子で紙束を教卓にトントンと叩いて整えていました。

「それでは次の電車係を決める小テストを行います。教科は英語で最高成績者が後任です」

 そうして始まったテスト、答案の紙をひっくり返して僕はびっくりしました。今回のテストは和訳問題がいくつかのものでしたが、その全てにもう答えが印刷されていたのです。しかもそのどれも、完璧な回答だったのです。

 周囲のクラスメートはガリガリとシャーペンを動かしています。ハッとして手元を見ると、僕の右手には赤ペンが握られていました。僕は気づきました。これは茶番だ、僕に役目を負わせる予定調和でしかないのだと。

 そうだ。今この答案を採点する権限は僕にあるのだから、難癖をつけて零点にすればいいのではないのだろうか、そう思いペケのマークを走らせようとしたその時、右の手首が痛いほど力強く掴まれたのです。

「いっかんぞ〜〜〜、うっそを〜〜つっつくつくのはな〜〜な〜〜〜」

 僕の腕を掴んだのは教師でした。にわかに腕を掴む力が強くなったかと思うと、彼は僕の腕を子供のロボット遊びのように動かし、ペン先が紙にインクを残し始めました。

 いけない。作ろうとしていたのは丸でした。私は左手を出して右手の暴走を止めようとしました。しかし右手に触れるその直前、四方から伸びた腕が僕の左手を、胴体を、肩を、頭を押さえつけてしまいました。僕の周囲を、さっきまでテストを解いていたはずのクラスメートたちが取り囲んでいて、口々に様々なことを喚いています。

「ダメダメダメダメダメダーメ」

「逃げられないでしょん」

「責任罰則強制執行悪辣精神矯正施行」

 僕は必死に抗いましたが、抵抗虚しく、僕の答案には赤い丸が付けられてしまいました。

 手の圧力から開放された僕は、脱力した感じでテスト用紙を眺めていました。もうこれを取り消すことは叶わない。だって赤ペンだから。僕は教室の前で厳しい厳しい肉体労働を、制服が破け筋繊維が切れ呼吸ができなくなり視界が真っ暗になるまでなんの労りもなくやらされるのだと思うと気が遠くなりました。周囲の者たちはギャハハとあの下品な笑い声で僕のことを馬鹿にします。

 もうどうしようもない、そう思ったその時でした。きっかけは何なのか、どうして浮かんできたのか、今でも説明はできないのですが、ある妙案を閃いたのです。僕はそれを阻止される前に、素早く実行しました。机に転がる赤ペンを持ち直して、丸の左にuncomfを、丸の右にrtableを。

 uncomfortable

「は?」

「は?」

「は?」

「は?」

「は?」

 笑い声がぴたりと止みました。彼らはみな同じく呆けた顔をしていました。その様子がおかしくておかしくて、僕は腹から豪快に笑いました。

 そこで夢が覚めました。覚めるとまず汗でじっとりとした嫌な感覚がありました。枕元に洗面器とタオルがあったので使わせてもらいました。仕切りのカーテンを開けると、そこには保健室の先生が座っていました。

「うなされてたみたいだったけどもう大丈夫なの? 寝不足?」

 三十代半ばの感じの女の先生は心配そうに声をかけてくれました。

「えっと、今日はここで帰ります」

 僕はそう言って、先生の返事も聞かず、誰かが保健室まで運んでくれた革の鞄を肩に背負って退室しました。いつもの自分からは想像できない言動でしたが、言って何故か納得しました。

 昼間の外はやけに静かでした。後ろから電車がけたたましい音をたてて走り去っても静かでした。車道を挟んだ向こう側を見ると、野良猫がいました。

 野良猫は光る白い玉を咥えていましたが、僕と目が合うと驚いて、その拍子に玉を飲み込んでしまいました。すると、猫の体が発光しながら大きくなり、その光がこれ以上ないほどに明るく白くなったとき、風船が割れる音とともに四散して消えてしまいました。消えて初めて、猫が飲み込んだのが僕の元気だと気が付きました。

 そういうわけで、今でも僕は眠たいです。

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日記 橋広 高 @hassybird

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