春の日

@hanako-n

春の日

4月某日、昼下がり―

土手沿いの桜が見頃を迎えていた。普段は閑静な川沿いの住宅街が青空に映えてワントーン明るい。開花前より人通りの多い歩道をぶらぶら歩く。右手には土手、左手には大通り、頭上には桜。はちみつ色の木漏れ日のなか、花びらはこぼれ落ちる一歩手前で重そうな枝が風に揺れ、その隙間からやわらかな青空が覗いている。目にうつる全てが春を謳歌していた。視線を戻して頬を緩める。

ふと、陽だまりの中に見覚えのある後ろ姿を見た。あれ、と足を止める。反対車線のその人にじっと目を凝らす。

確信とともに声にならない息がもれて、無意識に片足を踏み出した。

忘れようもない。あの人だ。追いかけてみようか、踏み込んだ足に力を込める。数秒ためらう間にその人は角を曲がり脇道に消えてしまう。私は目をそらして俯いた。遠目から見ただけだ、もしかしたら気のせいかも知れない。きっと他人のそら似だ。そもそも声をかけて、そのあとは?何を話すというのだろう。やっぱり見なかったことにして……。……でも。

気付けばあとを追いかけていた。横断歩道までの距離すらもどかしく、道路脇の植え込みの隙間から小走りで反対車線へ渡る。すぐ後ろをびゅんっ、と車が掠めてひやりとする。角を曲がった。小さく後ろ姿がみえる。…本人、だろうか。一度止まって深呼吸する。急に心臓の音が大きくなった。汗ばむ手のひらをシャツの裾にこすり付ける。自分が緊張していることに遅まきながら気付いた。変だろうか。別にそんなことない、久しぶりだから、顔を合わせたいだけ。うん、とひとつ頷き自分を納得させて再び歩き始めた。薄紅色の木漏れ日が眩しい。その人はぶらぶらと通りを歩いている。時折桜を見上げる。ここ一帯の街路樹は総じてソメイヨシノだ。見上げるたびに立ち止まるから、私との距離が縮まっていく。今ならまだ引き返せると、頭のなかで誰かが言う。ここで引き返せばあの人を記憶のなかに留めておけると、私の理性はわかっている。でも足が止まらない。

実は、前にもこの街であの人らしき後ろ姿を見た。その人が角を曲がったところで横顔が見えて本人だと確信した。その時も一瞬足を踏み出して、でも踏み留まった。…世界が変わってしまう気がして。

今度は迷わない。ぐっと踏み込んでなにかを振り切るように駆け出した。視界が揺れる。後頭部でひとつにくくり上げた髪も揺れる。やらずに後悔するよりやって後悔しろって誰かが頭の中で言う。

…あと約20m…あと15m…10m…5…

「あのっ!!」

急停止して叫ぶ。思わずぐっと下を向く。その人が、驚いて振りかえる気配がする。彼女のポニーテールが大きく揺れてさらんと鳴った。

おそるおそる、顔を上げた。大きく目を見開いた少女がいた。…ああ、やっぱり、この人だ。合ってた。人違いじゃなくてよかったと、若干他人事のように思う。

少し安心して、でもどんな顔をすればいいか分からなくて、結局苦笑いをまぜてはにかんだ。相手も見開いていた目をくしゃっと細める。泣き笑いのようにも見える。泣き笑うまま口をひらく。

「あっちゃった」

うん。ひとつ頷く。遭っちゃった。今更ながらちょっと後悔して、でもそれはすぐ顔を引っ込めた。

そっかぁまじかぁと、どこか晴れやかな顔で彼女は言う。きっと私も同じ表情でいる。思ったよりも心は凪いでいた。

「「死んじゃうかな?」」

呪いのようにふたりの声が揃う。きっと必然だ。私は、私と瓜二つの彼女に背筋を伸ばして向かい合う。鏡のように、ふたりの私が対峙する。ぐにゃりと目眩がする。足を踏ん張って、意識的に地面を感じてみる。気付けば脈打つように頭が痛い。

本やテレビで、見たことがある。ドッペルゲンガーの都市伝説だ。有名だけどあり得ない、だけど遭ったら逃れられない。自分自身に会うと死ぬ。時空の歪みに巻き込まれるからだと聞いたことを覚えている。面白半分でバカにしたことも覚えている。ありきたりだが妙に心を捕らえる怪談。

彼女はきっと、私のドッペルゲンガーだ。

「なんで追いかけちゃってんのよ」

その問いに筋の通った答えなんてないことを、きっと彼女は分かってる。あらかじめ打ち合わせた台本をなぞらうように私も口をひらく。「いや、久しぶりじゃん。懐かしくって」

この短い人生の成長過程のどこかで捨て去った自分自身が幾人もいた。彼女はそのひとりに過ぎない。捨てた自分を忘れてかなきゃ私は生きていけなかった。あまりにも重すぎて過去に沈んでしまう気がした。

嫌いな自分を切り捨て、忘れ、逃げるように生きてきた。脆くて愚かで、でも怖いもの知らずに輝いていた過去の自分を、否定しながら求めていた。求めていたことを認めたくなくて、その自己矛盾の果てに肥大化していった自我の中心に何かがあると、我が人生における核のような何かがあると信じようとした。…でも、あぁ、そうか。

「ねえ、」

彼女に近づき、ためらいながらその頬に手を伸ばす。

「置いてって、ごめん」

彼女は何も言わない。抗わない。無垢に私を見つめ返す。

時が止まったような静けさのなかにいる。

「あなただって、私自身だよね」

ざあぁっと風が吹いて、花びらが零れてきた。伸ばした指先を控えめに掠める。

―きっとずっと分かっていた。自分に後付けしていったものを剥がせば後には何も残らない。ドーナツのように、自我の中心には何もない。…でも、やっと会えた。

とうとうその肌に指先が触れる。冷たくてやわらかな感触がある。悲しそうに口角が上がる。―つっ、と、驚くほどの激情が襲ってきて私は大きく一歩踏み出し彼女を掻き抱いた。貪るように背中に爪を立てる。無抵抗の彼女を強く強く抱き締める。とうとう彼女の両腕が私の肩甲骨にまわされた。すがるように強く抱き締められて、苦しい。でもずっと、こうして誰かに抱きしめてもらいたかった気がする。雪山の遭難者が必死に暖め合うように、消えゆく何かを押しとどめる。砂で作った城が崩れるように、私たちが静かな音を立ててほどけてゆく。ほどけて、ひとつに混ざり合い絡まり合う。母の腕の中にいるような安らぎに包まれる。永遠の如き刹那。ずっとここにいたい。死ぬのだろうか。もうそんなことどうでもいい。暖かさに目を閉じた。


…ぶつっと、レコードが途切れたような音がした。不意に周りの音が戻ってきた。霞み白けた視界の中で街の音―日常の音が生々しく迫ってくる。桜の木が揺れる。はっとして顔を上げた。目に飛び込んできた景色があまりにも鮮明でくらくらする。こめかみをおさえて視線を戻した。そこでやっと気付く。


…いない。

彼女が、彼女だけがいない。周りを見渡して、彼女がもう戻らないことを悟った。

アスファルトにへたりこむ。

妙な生々しさがあった。まるで今までリアルすぎる夢を見ていたかのような……ゆめ?

ちがう、違う、絶対に違う。

腕に、背に、頬に、まだぬくもりが残っている。自分の肩甲骨を抱き掻く。失くさないように、もう二度と忘れないように、彼女の痕跡を残すように。つい視界が滲んだ。零れる前に空を仰ぐ。桜の潔白さが目の奥を刺した。ああ、生きていかなくちゃならない。

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