大陸暦1971年――形見の指輪


 今日の監督。少し様子がおかしかったな。

 顔はいつも通り怖かったけれど、仕事の前もあともなにか言いたそうな、そんな顔をしていた気がする。……気のせいだろうか。


「おねえちゃん」

「ん?」


 呼ばれて私はスープの器に落としていた視線を上げた。


「どうした」


 そう言うと、向かいに座っているライナは怪訝そうに眉を寄せた。


「おねえちゃんがどうしたの? ライナずっとはなしかけてたよ?」

「あぁ、悪い。ぼーとしてた」

「だいじょうぶ? つかれてるんじゃない?」


 心配してくるライナに、私は思わず苦笑してしまった。

 その口調や表情がどことなく、母さんと似ていたからだ。

 ライナは私と違って目の色も髪の色も顔も全部、母さんに似ている。だから余計に、そう感じてしまう。


「大丈夫。考えごとをしていただけだよ」


 ライナはまだ浮かない顔をしていた。その理由はわかっている。母さんが疲れているときに、よくぼんやりとしていることがあったせいだ。そういうとき私はいつもライナに『お母さん疲れているみたいだからそっとしといてあげよう』と言っていた。そして、その母さんは過労が原因で死んでしまった。それがあるからライナも、私も母さんのようになってしまわないかと不安なのだろう。

 ライナにいらぬ不安をいだかせてしまったことを申し訳なく思いながら、そのお詫びのつもりで私はライナが喜びそうなことを考えた。……そうだ。


「ライナ。今日は本を読んでやろうか」


 ライナは以前、よく本を読んでとせがんでくることがあった。でも、私が仕事を始めてからは、それを一切、口にすることがなくなった。それが私に気を遣ってのことだということはわかっていたのだけれど、私も力仕事の疲れもあってライナの気遣いに甘えていた。


「ほんとに?」

「あぁ」


 花開くようにライナの顔がみるみる明るくなる。だけどそれは咲き切る前に急激にしぼんでしまった。


「でも、おねえちゃんおしごとでつかれてるし……」


 上目使いでこちらを見るその顔からは、読んでほしいけれど、でも、わがままを言ってはいけない――と思っているのが痛いほどに伝わってきた。

 あぁ、我慢させてしまっているな、と胸が痛くなりながらも、それでも私は笑って見せた。


「大丈夫。今日は早く帰れたから、疲れてないよ」

「でも、ぼーとしてた」

「それはこのあと、ライナとなにしようかなって考えてたんだよ」

「ほんとに?」疑わしげにライナが見てくる。

「ほんとに」

「ほんとにつかれてない?」

「疲れてないよ」


 再度確認して納得したのか安心したのか、ライナが元気を取り戻していく。


「じゃあじゃあ、よんでほしいのがあるの。それライナ、まだよめないところがおおいから」

「わかった。任せておけ」


 ライナがやっと笑顔を浮かべてくれた、そのときだった。

 玄関の扉が勢いよく開いた。それに驚いて、びくり、とライナが肩を震わす。

 くそっ、と私は内心で悪態をついた。

 父さんだ。今日、父さんは夕方になっても家に戻っていなかった。これまでもたまに数日、帰らないことはあったので今日も帰らないかもしれないと期待していたのだけれど……甘かった。

 それでも、寝るために帰ってきただけならまだいい。そういう場合は、私たちに目もくれず、さっさと二階に上がって寝てしまうから。

 けれど今日がそうでないことは、父さんの顔を見てわかった。

 普通にしていれば人の良さそうな、さらには美形とも言える父さんの顔はいつも以上にゆがんでいた。明らかに、機嫌が悪い。そして、その原因も予想がつく。

 父さんは私のそばまでやってくると、投げやりな仕草で手のひらを見せた。


「アルバ。金あるだろ」


 やっぱりだ。お金が尽きたのだ。

 この間、障害手当が入ったばかりのはずなのに、もう使い切ったのか。

 母さんが死んだあと、しばらく父さんはお酒を飲まなかった。

 飲み歩くこともなく、私たちに怒鳴り散らすこともなく、ただ自室にこもって母さんの名を呟きながらずっと泣いていた。あんな仕打ちをしていたくせに、葬式――合同星還送しょうかんそうにも参列しなかったくせに、どうやら父さんは父さんなりに母さんを愛していたらしい。

 そんな父さんのすすり泣く声を耳にする度に、私は苛立ちを覚えた。

 今さら後悔しても遅いと、父さんが泣いたところで母さんは戻ってこないのだと、心の中で父さんを責め続けた。それでも、そう思いながらも、これで父さんが立ち直ってくれるのではないかという淡い期待もいだいていた。

 だけどその淡い期待も、半年で水の泡となった。

 父さんがまた、お酒を飲むようになったからだ。

 もう悲しみが癒えたかのように、母さんのことなんて忘れてしまったかのように、全ては元通りに戻った。そして母さんの代わりとでも言うように、私に暴力を振るうようになった。

 それだけでなく最近では売春婦までも買うようになり、より一層、お金の消費が激しくなった。そうしてお金が尽きてしまったときには、その苛立ちを私にぶつけてくることがあった。

 でも、それまでのことだった。怒鳴られたり暴力を振るわれることはあっても、これまでお金をせびられたことは一度もなかった。それはおそらく、今月みたいに早くにお金が尽きたことがなかったからだろう。……そう、今月はいくらなんでも早すぎる。もしかして、お酒や売春婦だけでなく、薬にも手を出してしまったのだろうか。


「父さんには、手当てがあるでしょ」私は父さんを見ずに言った。

「馬鹿か。無くなったから言ってるんだろうが」


 そんなことはわかっている。お金が尽きて、それでもお酒が飲みたくて、苛立っていることは――でも、だからといって素直に渡すわけにはいかない。ここで折れてしまっては、父さんは今後も私の稼ぎを当てにするようになる。

 そしてそれが常習になってしまったら、私たちが食べられなくなる。

 ライナを食べさせることができなくなる。

 それは、駄目だ。

 それは、嫌だ。

 毎日毎日、私がしんどい思いをして働いているのは父さんのためじゃない。ライナのためなんだ。

 それなのにそのお金を父さんに取られるのは、嫌だ。

 父さんの欲望を満たすためだけに使われてしまうのだけは――嫌だ。

 そんなことをされたらなんのために働いているのか、わからなくなる。

 私はにらまないように気をつけながら、父さんを見た。


「私たちは私たちでどうにかしてるんだから、父さんは父さんでどうにかしてよ」


 そう言った途端、胸ぐらを掴まれて乱暴にほうり投げられた。


「おねえちゃん……!」


 ライナの声と共に、背中に痛みが走る。

 父さんは床に倒れた私のそばまでくると手を伸ばしてきた。


「いいからよこせ……!」

「嫌だ。これは私が稼いだお金――ぐっ」


 お腹を踏まれる。昨日のが治りきっていないせいか、いつもより痛みが響いた。


「俺はなぁ、こうなる前はお前らのために働いていたんだよ……! お前らのために働いて、そのせいでこうなったんだろうが……! ならお前が俺のために働くのも当然だろ……! そこまで育ったのは俺のおかげなんだからよぉ……!」


 俺の、おかげ……?

 俺のおかげだって……?

 ……確かに、ちゃんと毎日ご飯が食べられていたのも、壁近へきちかに住んでいながら私が幼年学校に通えていたのも、父さんが鍛冶場で働いてくれていたおかげなのは間違いない。

 でも、今、それがなんだって言うんだ。

 そんなのはもう、昔のことじゃないか。

 父さんが働けなくなってから、私たちを養ってくれていたのは母さんじゃないか。

 父さんが手当て以上のお酒が飲めていたのも、私が学校に通え続けていられたのも、私たちが食べられていたのも、全ては身を粉にして働いてくれていた母さんのおかげじゃないか。

 それなのに、父さんはそんな母さんに感謝をするどころか、腕と鍛冶を失ったやり場のない感情の発散対象にしていた。

 幻肢痛げんしつうで苦しむ父さんに献身的に尽くしていた母さんを、本気で心配していた母さんを、父さんは自分のために殴っていたんだ。

 そんなやつに恩着せがましく俺のおかげだなんて、言われたくない。


「――違う」

「あ?」

「母さんのおかげだ。父さんのおかげなんかじゃない」


 その言葉に父さんの目が、かっと見開かれた。そして右手を振り上げる。

 殴られる――観念して目をつぶったとき、胸に重みを感じた。

 目を開けて見ると、ライナが私に覆い被さっていた。


「邪魔だ! どけ!」父さんが怒鳴る。

「やだやだ」


 ライナが私の体にしがみつきながら、頭をぶんぶん振る。

 そんなライナに苛立つように、父さんの顔が痙攣する。

 こうしてライナが間に入ってくることは、よくあることだった。

 そして、そういうときは決まって、父さんは昨日のように腹を立てながらも諦めてどこかに行ってしまう。ライナに手を出せないから仕方なくといった感じで。

 これまで、それを期待したことがなかったと言えば、嘘になる。

 ライナが間に入ってくれれば、父さんの暴力は止まるから。痛い時間は終わるから。

 だからライナがこうして助けに来てくれる度に、内心でほっとしている自分がいる。

 でも、今日はそうではない。

 今日はいけない。

 今日の父さんは、私に反抗されて頭に血が上っている。

 このままではたとえライナにでも、手を上げるかもしれない。


「ライナ。離れろ」


 ライナはなにも言わず、頭だけを振った。


「大丈夫だから」


 しがみつく手がさらに強くなる。絶対に離れないとでも言うかのように。

 仕方なく私は、強引にライナを引きがそうと手首を掴んだ。けれど、この小さな体のどこにそんな力があるのか、その手はびくともしない。


「ライナ」


 名前を呼んでも、ライナは頭を振るだけだ。

 このままでは――私は焦りを感じながら父さんを見る。父さんは苛立たしげに私たちを見下ろしている。だけどふと、とでもいうように表情からそれが消えた。


「そういやお前、あいつの指輪を持ってたな」


 はっとして自分の胸元を見る。そこにはライナの首から下がった小さな袋が乗っている――そう、母さんの形見の指輪が入った袋が。


「俺の分を売ったときは、結構な金になったんだよな。奮発したからな」


 父さんが袋に手を伸ばしてくる。

 それを見たライナが、首からさげた袋を両手で包んで隠した。


「よこせ」

「やだ。これはおかあさんだもん」

「は? 馬鹿か。あいつはもう死んだんだよ。灰になったんだよ。それはただの指輪だ」

「ちがうちがう」


 泣きそうな顔でライナが頭を振る。

 父さんの顔にまた、苛立ちが浮かんでくる。

 そんな二人を見ながら、私の頭の中にはある考えが浮かんでいた。

 だけど再度、ライナに手を伸ばしかけている父さんを見て、はっとする。

 馬鹿、なにを考えているんだ――心の中で自分を叱咤しったしながら、私はポケットから取り出した袋を突き出した。


「これでいいだろ」


 父さんは私の手から袋を奪うように取ると、無造作に握った。ジャリ、と硬貨がこすれた音がする。


「ったく、最初から素直に渡せよ」


 そう言い捨てるように言うと、父さんは家を出て行った。

 緊張の糸が切れたのか、ふぅと大きな息が漏れる。


「おねえちゃん、ごめんなさい」


 見ればライナは先ほどと同じく、泣きそうな顔をしていた。


「なんでライナが謝るんだよ」

「だって……おねえちゃんのがんばったのが……」


 どうやら自分が指輪を渡さなかったせいで、私が働いたお金を渡す羽目になったとライナは思っているらしい。もとはと言えば、私が素直にお金を渡さなかったせいだというのに。

 私は上体を起こすと、ライナを抱きしめた。


「いいんだ。お姉ちゃんのほうこそ、ごめんな」

「おねえちゃんこそ、どうしてあやまるの……?」


 その問いに、私は答えられなかった。

 ……先ほど、父さんに迫られるライナを私はすぐに庇ってやることができなかった。

 それどころか指輪を渡してしまえば当分、父さんが大人しくなる。そしたら一時でもお金をせびられることはなくなるし、私も痛い思いをしなくて済む――そう、思ってしまった。

 ライナは必死に母さんを守ろうとしたのに、私は母さんの形見よりも、ライナの気持ちよりも、自分のことだけを考えてしまった。

 これではまるで……父さんのようだ。父さんと同じだ。

 そんな自分が恥ずかしくて……情けなかった。


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