第9話
「その髪! 綺麗でかわいいね!」
殴られた。静の鮮やかなアッパーカットは綺麗な長髪を翻すほど大振りで、その勢いを乗せた拳が不猿の顎に炸裂した。校門前で倒れた不猿は地面を背に天を仰ぐ。今日は雲ひとつない晴天だった。その朝日が修也によって遮られる。
「おいおい、朝っぱらから何て様だよ」
「だって修也が褒めろって言うから褒めたのに、これじゃ褒め損じゃん」
「確かに褒めろって言ったがな、忘れたのか? 最初に見た目を褒めるのはタブーだって」
不猿が修也に相談をした日のこと。不猿は修也が蒲公英を射止めた経験から獲得した、女子のアプローチ方法の指南を受けていた。それが「褒める」ということ。人は自分のことを良いように言ってくれる人を邪険にはできない。その心理を突いて、まずは良い印象を持ってもらうというステップを踏もうと、方針を固めていたのだ。
そこで注意事項として挙げたのが「最初に見た目を褒めない」である。何故かというと、普通に気持ち悪いからだ。なのでまずは相手の内心を、特に相手の選択について褒めてあげるのが望ましい。消しゴムは角が多い消しゴムを選んでいて「機能性を重視している」とか、3つ組のプリンの2つ目を取る時に、包装や紙等をゴミ箱に捨ててあげることで最後の人がゴミ捨てをする手間を惜しまないようにしている「優しさ」とか。
しかし、その忠告は3キロバイト並の記憶容量には、ザルに水である。流れていった。
「いや、良い印象持ってもらった感じ全くしなかったんだけど」
「そうだよな、まるで最初から第一印象最悪な感じだった。何か過去に変なことしてなかったか?」
「変なこと? いやいや、そんな事するわけ……!」
記憶容量3キロバイトの脳を持つ不猿は思い起こしていた。そして、ある思い出が起こされた。それは、学校説明会の時に、個人情報をちらと盗み見たことである。個人情報はこの時代かなり貴重な物である。不猿の額から嫌な汗が滲み出た。
「え、うそ、マジであるの? スカートめくったり?」
「いやいや! そんなことしてないって! ただ学校説明会で書いてたアンケート用紙盗み見てただけで」
「趣味悪いことしてるな……それって水原さんに見られてたのか?」
「いや見られてないよ、視線だけで見るように頑張ったし」
「努力のベクトルがキモイことはこの際置いておいて、んー」
修也は首をかしげて、抱いた違和感について考える。それは、静が何故不猿に対して邪険な態度を取っていたのかだった。もしかすると不猿の記憶の外側で気分を害させた可能性は無きにしもあらずではあるのだが、それでなくとも、初アプローチで殴るほどの反応は、おおよそ初対面ではありえない。
「もしかしたら、水原さん側で何か問題があるのかもしれないな、低血圧だとか、朝は無条件で機嫌が悪い人だとか」
「何それ? 血圧低いと殴られるの?」
首をかしげる不猿に、修也は指を立てて、恋愛マイスターとしての助言を呈した。
「殴る。低血圧女子ってのは、まぁ傍から見れば弱っててふらふらよろよろしていて、それだけで抱きしめたくなる可愛さではあるのだが、その時はぐっと我慢だ。奴らは殴る。俺もそうだった」
「り、理不尽な……」
少し陰口染みたボーイズトークに花を咲かせられるところを、修也はそれこそぐっと我慢して本題に戻した。
「おほん、とにかく、お互いのコンディションが正常であることが前提だな。まともなコミュニケーションが取れないから」
「でも、だよ」と、不猿は顎を手でさすって思案する。意を決して、恋愛マイスターの助言に意を唱えた。
「そんなバッドコンディションなら、支えてあげないと!」
修也は一瞬、こういう逆転の発想ができるからこそ、主席を獲得することができたのか、と不猿の自頭に感心し驚いた。それが誤解であるとはいざ知らず、修也はその発想をベースとした方針を不猿に授ける。
「なら、何かドリンク等の差し入れをするのが良いかもな。蒲公英が弱っている時にコーヒーを差し入れしたことがあったんだが、その時の喜んでくれた表情が今でも忘れられなくってなぁ」
ニヘラっととろける笑みを浮かべ、修也の脳内は、華やかな思い出に支配される。
「あれは中学二年のころだった。蒲公英が体調不良で休みだと朝礼で知らされて、その日は一日中授業に集中できなくてな――」
「なるほどコーヒーだね! 小銭はあるし、今から自販機行ってくるよ!」
「あ! ちょっとまて!」
修也の話を途中で切り上げ、不猿は心配半分と静からの好意的反応へのワクワク半分で、そそくさと校舎に駆けていくのだった。
* * *
「んー、何が良いんだろう? 無糖? 加糖?」
薄暗い階段下に設置されている自動販売機があった。ぴかぴかと、左から右に流れる自販機の押しボタンを目で追いかけながら、不猿は二択に迫られていた。
無糖か、加糖か。
コーヒーといえば無糖! と言う人もいれば、苦いのは勘弁とばかりに加糖を望む者もいる。どちらが正解なのかと問われれば、それは差し出される者のみぞ知る。先ほど1敗してしまったために、不猿は頭を悩ませていた。
「何悩んでるのよ、早くして」
「いや、でも水原さんって無糖が好きなのか加糖が好きなのか分からなくて、って」
忘れもしない。
聞けばどんな言葉であろうとも、この人の声だけはイントロドンされれば絶対に逃さない。そんな声。
振り向くと、不猿の心臓が跳ねた。
彼女は清楚な雰囲気を漂わせながら、真っ白なセーラー服を身にまとっていた。その制服は襟元から胸元にかけて緩やかに広がり、その可憐なデザインが彼女の華奢な体型を引き立てていた。袖口は程よく膨らみ、手首にかかる長さでちょうど良いバランスを保っている。
そんな馬子にも衣装どころか、美しさ的に鬼に金棒な水原静は、まっすぐと不猿を見つめていた。金棒は持っていないにしても、鬼の形相で。
「何? 私に毒でも盛ろうっていうの?」
良くて「コーヒーは嫌い」と考えていた不猿の予想の斜め下、どころか急転直下の真っ逆さまなことを言ってきた。不猿は慌てて誤解を解こうとかぶりをふる。
「違うよ! 水原さんが体調悪そうだったから、差し入れをって思って」
「刺し、射れ?」
睨む皺がさらに濃くなる。明らかに印象が悪くなっていた。
「そうそう、とっても機嫌が悪そうだったから」
「そうね、私はとっても気分が悪いわよ。だからこれ以上私の気分を害さないでほしいわ」
焦る。
こんな時何もできずにいる不猿ではなく。急いで加糖のコーヒーのスイッチを押し、出てきたコーヒーを差し出した。
「だから!」
からん。重々しい缶の音が、狭い空間に響く。
「いらないって! あんたからの施しなんて!」
振り返る背中に、声をかけることができなかった。
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