花咲部長のアルアル業務日誌~世界と勝負するあるゴム商社マンの奮闘
さらしもばんび
第1話『周章狼狽』の巻
嵐は清水課長が受けたメールから始まった。
「花咲さん、大変です!」
「なんだよ朝から…」
「EUケミカルから、6月から20%の大幅値上げの通告ですよ」
花咲の会社は、ゴム材料を世界的な大手化学会社EUケミカルから購入して、それを、日本を代表するゴム自動車部品製造会社である帝国自動車部品株式会社に販売している。
「えっ、たった一本のメールでか?」
「ええ、メールで…あまりにも一方的ですよ」
「コロナ禍だから、外資系会社のEUケミカルはほとんど在宅勤務で、リアルな面談は禁止されているのはわかっているが…、あまりにも急だな。しかも20%だなんて…」
今までは5%の値上げ、¥50/kgの値上げ打ち出しぐらいが相場。それに2か月ぐらいかけてユーザーに4~5回通って、なんとか値上げ交渉をまとめるのが普通であった。もちろん、EUケミカルの営業担当者も2~3回同行してもらっての話だ。
「今回の値上げはこの2年間で何度目だ?」
花咲の問いに清水が頭を抱えながら答える。
「すでに昨年2回の値上げがありました。昨年秋の交渉では、値上げ幅を圧縮して、やっと帝国自動車部品の江藤購買部長に了解してもらったばかりですよ」
「そうだった…あの時江藤に『もうこれ以上の値上げはないよな!』って釘を刺されたのを思い出した」
「原油価格が上がり、さらに世界中でゴム材料が供給不足になった影響で、同業他社の材料メーカーも同じく値上げをしている風潮はわかるんですが…」
「それにしても、だんだん1回の値上げ幅が大きくなってきているような気がするな…」
「とにかく、どう交渉を進めます?」
「とりあえずは帝国自動車部品だな。江藤は中学時代からの仲だから、なんとかからめとるとしても、やっかいなのは購買担当の竹中常務だ」
「ええ、竹中常務は、結構頭硬くて筋が通らないことは 認めない人ですから」
「しかも、上昇志向が強いから、購買予算の削減を求める社長からどうして値上げをOKしたのかと追及されたら、自分のポジションも危うくなると考えるだろう」
花咲も清水も腕組みをして考えあぐねた。やがて、清水がニヤついて小声で花咲につぶやく。
「どうです花咲部長、竹中常務に尾行をつけて、愛人との密会写真を撮って…それをネタに脅して値上げをのませるってのは?」
「お前が言うと冗談に聞こえないから怖いよ」
「でも、そうでもしないと…」
「とにかく…」
花咲は未練たらしい清水の話を打ち切った。
「値上げまで4週間しかない。まずはもっと詳しくEUケミカルの値上げ情報を集めてくれ」
「はい」返事とともに清水は自分デスクにかけ戻った。
翌日。花咲と清水は打合せ室で額を寄せ合う。
「清水、EUケミカルの方はどうだった?」
「それが…値上げに理由をきいても『諸原材料の値上がり、調達の不安定性を是正し安定供給を図るための値上げ』とだけしか言わないんですよ。いくら聞いてもその詳細やそれぞれ何%の値上げなのかは 言えない、の一点張り」
「EUケミカルの担当はあのプライドの高いマイケル棚橋か?」
「ええ、いくら海外留学の高学歴とは言え、たまにあの高い鼻から鼻血が出るところを見たいと思わせるやつです」
「物騒なこと言うな(笑)…でも、そんな説明では、いくら旧知の仲とは言え、江藤も納得できまい」
値上げの詳細、明細を説明して、それぞれの理由について、吟味することが値上げ交渉をすることの基本である。それが、値上げに理由が言えないというのであれば、話にならない。
「とにかく、時間もないから江藤の部下の金子購買課長に電話で説明し、アポ取ってくれ」
「金子課長に話したところで、何の決裁権もない人だからどうせ上の人間に説明してくれって…2度手間になりますよ」
「仕方あるまい。値上げ交渉は手間が増えても手順を守るのがセオリーだ」
清水の予想通り、金子課長とのWEB面談は、聞いた内容ではとても社内で説明できないと言われ、さらに後日に金子課長の上司とのWEB面談をすることになった。
5日後、江藤購買部長を交え再度WEB面談が始まる。
「それでは、値上げの理由をあらためて説明してください」
金子課長が口を切って面談スタート。今回は、EUケミカルのマイケル棚橋も参加しており、ネイティブぶった英語を交えながらも『諸原材料の値上がり、調達の不安定性を是正し安定供給を図るための値上げ』と全く同じ説明の繰り返し。しかもその明細も明示できない。これはEUケミカルの方針だと投げつける。花咲も清水も棚橋の言いように得意先が爆発しないかと首をすくめる。
「これでは 値上げは飲めないと思ってください」
江藤購買部長の憮然とした一言で面談のドアがピシャっと閉まる。
WEBに残った棚橋、花咲、清水。
「私どものPresentationは終了しましたので、先方に値上げのConsensusを取ってください。それが商社としてのResponsibilityでしょ。さもないと残念ながら6月からの供給はストップせざるを得ませんから、ご承知おきを」
棚橋は鼻につく英語のイントネーションを交えながら一方的な発言を残して、WEB面談から退席。残された花咲と清水は茫然とWEBカメラ越しにお互いの顔を見つめる。
「どうしましょう…花咲部長」
清水の問いに考え込む花咲。
「とりあえず、この先何か月か限定でその値上げ差額をこっちで負担しましょうか?」
「それはダメだ」
黙り込んだ花咲ではあるが、清水の提案には即座に反応した。
「期間限定とはいえ売れば売る程赤字が積みあがる。それでは大赤字になるし、そんなことが前例になれば、今後この会社が持たなくなる」
「ならばどうすれば…」
沈黙のまま、WEB面談のタイムだけが過ぎていった。
その1週間後、花咲は江藤購買部長と新橋の大衆居酒屋で酒を交わしていた。
「マンボウも解除され、規制緩和のリバウンドかもしれんが、すごい人だな」
満席の居酒屋を見渡して江藤が言葉を続けた。
「まだまだ、会社では商用の宴席自粛が続いているのだがな…」
「今日は旧友同志の私的な席ってことで来てくれたのだろ、江藤」
「まあな…しかし花咲。ここで昔話に盛り上がろうって誘ったわけでもあるまい」
花咲が苦笑いしながら江藤のコップにビールを注ぐ。
「さすが江藤、察しがいい」
「値上げの話か」
「ああ、値上げを承諾してもらわないと、EUケミカルが6月から供給を止めると言っている」
「待てよ花咲、話が違うぞ。前の時、これ以上の値上げはないと言っただろう」
「ああ」
「前回は竹中常務もそれを聞いて承諾した。だから続けざまの値上げはいくら何でもだめだ」
「だが、いろいろやったが供給を止めると言っているEUケミカルは本気だ。どうにも動かすことができない。供給が止まれば、江藤のところもゴム製品が生産できず、自動車メーカーに迷惑をかけることになる」
「なんだ、脅しか」
「いや、そういうわけでは…」
「とにかく、今まで通りの価格で安定供給するのが商事会社であるお前等の義務のはずだ」
「確かにそうだが、今回は正直まいっている。値上げ期限が迫った今、もうこれ以上交渉は伸ばすことができないんだ…俺とお前の仲だ。今回は俺の借りということで社内を納めてもらえないか」
「値上げ阻止は本当にだめなのか?」
花咲は黙ってうなずいた。
「なら、今後のことで注文を他の商事会社に変更する声が上がるかもしれないが、それでもいいんだな?」
このことで、もし本当に供給するゴム材料が他社品に変わったら最悪だ。しかし、花咲はここが勝負どころだとまっすぐ江藤の目を直視して答える。
「構わん」
そんな真剣な花咲の視線を外しながら、江藤はニヤリと曲がった口をグラスに運ぶ。
「お前は昔からずる賢いやつだよ」
「なんでだよ」
「中学の時、俺たちマラソン大会をショートカットして手抜きゴール。それがバレそうになって職員室に呼ばれたことがあった」
「そんなことあったな」
「お前は体育教師に、コース表示が不十分だからコースを間違えた、と言い張った」
「確かに、でもそれで罰は免れたのだからよかっただろ」
「ああ、あの時は助かった…でも後から分かったが、お前は前日にコース表示の設置場所を調べ上げていて、不備が言い張れるショートカットコースを準備していたんだよな」
「それが今、何の関係が…」
「今回も、俺たちが他社に切り替えると言っても、製品を取り換えるテストをする時間もないことは、わかった上での返答だろ」
江藤はグラスのビールを飲み干して言った。
「仮に値上げを承諾すれば、注文量の供給は十分保証してくれるのだな?」
「それはたぶん大丈夫だと思う」
その答えを聞いて江藤が席を立つ。
「私的宴席だから割り勘ってことで」
江藤が去った後の机に千円札が数枚残されていた。
5月30日 ついに値上げ期限となった。ここまで帝国自動車部品からの返事がない。花咲もいよいよ腹をくくる時が来たかと覚悟し始めていた。
「清水、帝国自動車部品からまだ返事はないのか?」
「ええ…朝一で金子課長に連絡してみたんですが、江藤購買部長がかなり怒っているとしか教えてくれなくて…これは、いよいよ…」
その時、ファックスがピー!とけたたましい音を立てて稼働を始めた。
「花咲部長、帝国自動車部品からの注文書ですよ!しかも、明細が値上げ後の価格になってる!」
花咲は、注文書を手に小躍りする清水を眺めながら、自分だけに聞こえる声でつぶやいた。
『ありがとうよ、江藤』
その声に応えて、花咲の目には『今回は大きな貸しだぞ』と憮然として言い放つ、江藤の姿が見えた気がした。
ただ、嵐はそれでは納まらなかった。
EUケミカルに今値上げが承諾され6月からの供給を確保してくれと伝えた1週間後。実は供給がタイトで、帝国自動車部品からの注文量が全量は供給できない。たぶん80%程度しか供給できないとの連絡。それじゃ、値上げを承諾してくれた江藤に顔向けができない。花咲は清水とともに注文量確保のために奔走した。特に清水に至っては相手を殺すのではないかと思うほどの勢いでマイケル棚橋と大激戦。いよいよ追い詰められた納入日前週の金曜日。やっとのこと6月後半分については、ほぼ注文量が供給できることになった。棚橋の『毎回このようにできるとは思わないでください』との念押しにも、清水は隠れて中指を立てて応酬していた。
茅場町の中華の店。花咲と清水は、各々アクリル板に囲われながら昼食を取っていた。
「花咲部長、今回の値上げもそうですが、注文量の確保ができてほんとよかったですね」
「ああ、たぶん世界的な半導体不足が幸いしたみたいだな」
「というと?」
「日本だけでなく、米国でも自動車生産量が減っている上に、中国のコロナのロックダウンの影響で中国国内の自動車生産も今月は半減している。そのため、一時的に供給に余裕ができたのじゃないかな」
「なるほど…やれやれ、今はいったいなんの影響で自分が右往左往させられるのか予測できない時代ってことですか」
「ああ…しかし『周章狼狽の沼に泳ぐもまた怪(け)しからず』って言うだろ。その心境になってドタバタを楽しんでいくしかないようだな」
その時、清水のスマホのメール着信音が鳴った。オフィスに届くメールが自身のスマホに飛ぶようになっているのだ。
「花咲部長!EUケミカルがまた3ヵ月後に値上げを発表することが決まったそうです!」
花咲は頬張っていた担々麺を、テーブルにぶちまけた。 (第1話/了)
注※この物語はフィクションです。物語で起きる事件、および登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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