第40話 私には…彼しかいない

 それは、先ほど首に感じた衝撃とは比べものにならないほど、柔らかくて優しい力。

 次の瞬間、紅林の目の前で矢の雨が降った。

 雨粒のいくつかは桂長順けいちょうじゅんの身体をつらぬき、残りは紅林と桂長順とをわけ隔て、地面に一線を引くように打ち込まれていた。

 まるで、それ以上近づくことは許さぬとばかりに。


 前のめりに膝から崩れ落ちる桂長順。

 背には数本の矢が突き立っている。桂長順が紅林の後ろを見て「陛下」と呻くのと、背後から「大丈夫か、紅林」と言われ抱きしめられるのは同時だった。


 声を聞かずとも、振り向かずとも、紅林には自分を抱きしめる腕の主が誰だか分かっていた。だって、この場所を知っているのは彼しかいない。



 彼しかいないのだ。


「――っ関玿かんしょう!」


 自分には。



 紅林は振り向くと一緒に、関玿の首に抱きつき、つま先を立てて彼のたくましい肩口に顔をうずめた。


「無事で良かった……紅林」


 後頭部にそっと触れる大きな手に安心感を覚える。

 しばらく関玿は紅林の震える身体を慰めるため、背中をさすり、肩口に寄り添う小さな頭を、頬や唇で撫でていた。紅林が落ち着いたと判断すれば、関玿は次に頭上――北壁の上へと声を張り上げた。

 突然の大声に、びっくりして紅林の顔も一緒に跳ね上がる。


「将軍、よくやった。だが、もう少しでこちらまで当たるところだったぞ」


 どこに向かって声を掛けているのかと思い目を凝らして見れば、北壁の上からこちらを覗き込む者達がいるではないか。

 豆粒のような大きさだが。

 つまり雨はあそこから射られたということか。あんな、人が豆粒になるような高さから。


「当たりませんって。そんな阿呆射手アホウいてが自分達の中にいるわけないでしょう。それに射手を選んだのは陛下ですし、万が一当たっても自分に責任はないです」


「ったく」と関玿は、豆粒に呆れた声を漏らしていた。


「将軍以下の後宮への出入りを許す。長官の円仁えんにん捕縛と、この男を引き取りに来い」


 頭上で短い返事がされ、あっという間に豆粒は城壁から消えた。




        ◆



 

 すっかり辺りは夜になっていた。

 薄暗い中、足元で虫のようにうごめく桂長順の姿は、いささか不気味さがましている。どうやら矢は急所を外れているようで、息は充分にできているようだった。


順安じゅんあん、話は大理寺だいりじで全て聞かせてもらうぞ」

「ッハ、このようなことに、なるならば……っ、火など放たず……遺体の検分ができる、よに……しておくのだった」

「……何を言ってるの?」


 うわごとのように力なく口から垂れた言葉に、紅林は眉をひそめた。

 なんの話をしているのだろうか。

 しかし、隣の関玿には桂長順の言っている意味が分かったらしい。


「お前が燃やしたのか……後宮・・は」


 眉根をこれでもかと寄せ、桂長順への嫌悪を最大限に表わしていた。


 ――後宮? どこの?


 関玿の後宮は、一度も火事騒ぎなど起きていない。

 とすると、残された選択肢は一つしかない。


「え、待って……でも、林王朝の後宮を燃やしたのは……関……」


 隣を見やれば、こちらを向いていた関玿と目が合った。

 翠月国すいげつこくの民は皆、皇帝が後宮を燃やしたと言っていた。血も涙もない冷血漢だと。


「あなたじゃないなら、どうして噂を否定しなかったの!?」


 困惑気味に疑問をそのまま口にすれば、最初に声が上がったのは関玿ではなく、桂長順であった。

 馬鹿にしたように、鼻で一笑される。


「賢い、思ったが……っやはり、まだまだ……わらしか」


 やはり桂長順の言うことは意味が分からなかった。

 すると、関玿が閉ざしていた口を、薄い溜息を吐きながら開いた。


「宮廷内を制圧して、後宮の方へ向かったらもう火が上がっていた。助けようとしたが、熱でかんぬきは変形していて……。確かに火を放ったのは俺じゃない。だが、あの火災は反乱がなければ起きなかったものだ。だから、俺が火を放ったも同じことだと否定はしなかった。多くの者が死んでいった中、俺だけ綺麗な身でいようとは思わなかったから」


 突如、「アッアッア!」と潰れたヒキガエルのような濁声だくせいで笑いだした桂長順。笑う度に地面で身体が跳ね、本当に蛙のようだ。


「甘い! 甘いぞ若造っ、その……優しさ、が、命取り……なるぞ! 民はお前を冷帝と呼ぶ……そういう目で見る。人殺しだとなァ!」


 地面から見上げてくる桂長順の目は血走っていて、得も言われぬ凄みがあった。

 無意識に紅林の足は後退り、ふらりと身体が揺らぐ。


「――っあ」

「紅林!」


 しかし、すぐに関玿の腕に支えられ、そのまま腕の中に閉じ込められる。

 大丈夫だと答えていると、南側の方から騒がしさが近づいてくる。ドスドスと重い長靴ちょうかの足音と、野太い男達の声。

 どうやら先ほど頭上にいた豆達が、桂長順を捕らえに来たのだろう。

 あっという間に桂長順を引っ立てる男達は、まったく豆粒ではなく皆大柄おおがらで、関玿よりも大きい者もいる。


「これから……が、楽しみ……すね、陛下」


 両脇をすくわれるようにして抱えられた桂長順は、最後に目線だけこちらに向け、あの気味悪い声で笑った。


「ああ。お前にこれからを見せてやれなくて残念だよ」


 関玿の言葉に、桂長順は目の下を引きつらせ、何も言わずに視線を切った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る