第38話 忍び寄る足音

「この度は、なんとお詫びしたらいのか……助かりましたわ。ありがとう、紅林」

「そんな……顔を上げてください、朱貴妃様」


 朱貴妃に頭を下げられ、紅林は慌てて彼女の上体を起こしに駆け寄る。

 紅林は、内侍省から出た後、朱香に連れられ朱貴妃の宮である赤薔宮せきしょうきゅうへと来ていた。人払いされた部屋には今、椅子に座った朱貴妃と、向かいに紅林と朱香が立っている。


「本っ当ごめんね、紅林。私があんなことを頼んだばっかりに」

「そうよ、きょう。朱家の問題だったのだから、紅林を巻き込んでは駄目でしょう」

「だって……蘭姉らんねえが誰か殺しちゃったらって思ったら……っ」


 お互いを『きょう』『らん』と呼び親しげな空気を漂わせる二人だが、赤薔宮に来る途中に朱香から姉妹だと聞いたときはさすがに驚いた。

 同じ朱姓ではあるものの、顔などまったく似ていないのだ。言われなければ気付く者はいないだろう。何故と思ったが、以前に朱香が、優しい姉が拾ってくれて家族に迎え入れてくれた、と言っていたのを思い出し納得した。


「わたくしを思ってのことだってのは分かるけれど。わたくしは元より誰も害する気はなかったのよ」

「だから、朱貴妃様はご自身で毒をあおろうとされたのですか」

「何それ!? 蘭姉が毒をあおろうとしたって何!? 聞いてないよ!」


 紅林の言葉に朱貴妃は目を皿にして、朱香は噛みつくようにして朱貴妃に飛びついた。


「なんでそんなことしたの!? ねえ!」


 朱貴妃の肩を掴み、前後に揺する朱香。彼女の背にそっと紅林が手を置き、口の前に人差し指を立てる。


「朱香、あまり声を荒げると部屋の外に聞こえるわ。毒を盛ったのが朱貴妃様ってのは、後宮には広がってないんでしょ」


 我に返った朱香は部屋の入り口を見やり、そして「ごめん」と悄然しょうぜんとして呟いた。


「うん。後宮では、毒が酒に入っていたってことしか言われてないよ」


 どうやら安永季あんえいきは、この件について公表するつもりはないらしい。被害者が出なかったことが、やはり大きいのだろう。もしかしたら安永季ではなく皇帝の判断かもしれない。彼なら、確かに無駄に公にすることはしないだろう。


「それで……蘭姉はどうしてそんなことしたの」


 朱貴妃は眉を八の字に歪め、力なく笑った。


「もう、疲れてしまったの」


 確かに、彼女の笑みには諦念が濃く滲んでいた。


「父は、わたくしに陛下との御子を望んでいたわ。金でこのような分不相応な貴妃の位を買い与えてまで。きっと、将来の皇帝の祖父にでもなりたかったのね。今は商人だけど、それすらお金で買った元は平民ですもの。身分のある取引相手からは馬鹿にされるようなこともあったみたいで、父は地位がほしかったのよ」


 朱貴妃はどこを見ているのか。視線は部屋の窓の外に向いていたが、彼女の瞳はどの景色にも焦点が合っておらず、ずっとずっと遠くを見ているようだった。

 まるで、宮の外の囲いがない自由な世界に思いせるように、穏やかな眼差まなざしで。


「わたくしが後宮に入ってから、父はよく私を訪ねてきたわ。毎回毎回、媚薬効果のある香油や、男を引き寄せる護符なんかを持って」


 笑っちゃうでしょ、と朱貴妃は笑ってはいたが、自分の身に剣を突き立てながら無理して笑っているようにしか見えなかった。


「そして、とうとう他の四夫人を殺せときたものよ。もう、終わりにしたかったの。わたくしが死ねば、父も諦めると思ったし」


 確かにこれは自殺だった。

 ただ自ら望んでとは言いがたい。


「……っごめんね、蘭姉……私、気付かなくって……っそこまで追い詰められてただなんて」


 朱香は朱貴妃の胸に縋りついて泣いていた。

 その小さくヒクつく背中を、朱貴妃は愛おしげに見つめ撫でている。


「わたくしこそ、ごめんなさいね。あなたを一人のこしてしまうところだったわ」


 そして、と朱貴妃は紅林に目を向けた。


「ありがとう、紅林。あなたが来てくれなかったら、次はこの子が父の犠牲になるかもしれなかったのに……情けないことに逃げることに必死で、そこまで考えが至りませんでした。だから、止めてくれてありがとう」

「私も朱貴妃様には亡くなってほしくないですから」


 彼女は、自分を髪色で判断しなかった稀有な人だから。

 朱姉妹には、どうか幸せであってほしかった。


「朱貴妃様、聞きたいことがあるんですが」

「何かしら? わたくしが答えられることは全て話しましょう」

双蛇壺そうだこは、誰から貰ったものでしょうか」


 朱貴妃は「確か……」と腕を抱えて思案の格好をとる。

 うーんと次第に眉間は狭まり、唇は山なりになり、必死に思い出してくれていた。

 いつも微笑を浮かべて、まるで女仙にょせんのような清らかさがある彼女が、こうも人間味あふれる表情を見せてくれているのが、紅林にとっては嬉しくもあり、楽しくもあった。

 すると、思い出したのか、パッと彼女の眉間が開く。


「あれは父からだったんだけど、でも、父の持ち物ではないのよね。あんな物、家にいた時、一度も見たことなかったもの。それで確か、わたくしもどうしたものか聞いたのよ。父はどこかの偉い人からと……ああ、そうだわ。持ってきた人は、顔の半分が黒い面体めんていに覆われていたと」

「面、体……」


 そんな目立つ人っているのかしらね、と朱貴妃は言っていたが、紅林には心当たりがあった。

 



        ◆




 日が傾き、そろそろ戻らないとということで、紅林と朱香は赤薔宮を後にした。

 しかし、紅林はそのまま宿房には帰らず、朱香と別れて一人北庭へと向かっていた。というより、考え事をしていたら、いつのまにか北庭へと足が向いていただけであるが。


 北壁の際――いつも花を供えていた場所に、花はなかった。

 しなびれた、かつて花だったものしかなく、乞巧奠きこうでんの日から誰もここに来ていないことがうかがえる。

 紅林は茶色くなった花だったものの前に、膝を抱えて座りこんだ。ここは木に囲まれているため、隣に見える北庭よりも暗くなるのが早い。まだ空には夕日が残っているはずなのに、紅林の周囲だけは既に夜に足を踏み入れていた。


「さすがに、妃嬪達に顔を見せた後じゃ、もう衛兵のふりなんてできないわよね」


 きっと、彼は二度とここには来ない。


「別に……寂しくなんかないわ……」


 二度とあの声が「紅林」と呼ぶことはない。


「寂しくなんか……」


 膝の上で顔を伏せ、紅林は何度も「大丈夫」と呟く。

 元より、誰かに愛されることはないと、とうの昔に見切りをつけた生だったはずだ。

 元に戻っただけ。

 ただの宮女として生きていくことが一番で、死ぬまで母に花を捧げ続けられることが幸せだと思っていた、のに……。

 すると背後で、サクッ、と草を踏む音がした。


 ――まさか……っ。


 胸が跳ね、全身がびりびりと痺れる。

 振り向こうと顔を上げた次の瞬間――。


「――ッぅぐ!?」


 首を真後ろに引っこ抜かれた――そう感じるほどの衝撃が、紅林の首を襲った。


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