デコ捨て山

伊東へいざん

第1話 交番のお掃除

 警察組織は今日も末端の交番に至るまで平和なのだ。全国のどこかで2日に1件は警察官による不肖事件が起きていようとなんのその。「触らぬ神に祟りなし」「臭いものには蓋をしろ」の大号令で警察官諸君は組織の庇護の下にある。もし獅子身中の虫が騒ぎ出し、度を越したリークや告発などで懲戒処分にせざるを得なくなったとしても、組織の自浄部門である監察官室が動かなければ、当事者同士の人事異動程度で幕引きとなるのが常なのだ。何と素晴らしい職場なのだろうか!


 この物語の主人公は交番巡査を謳歌する不死川ふじかわ京平の日常である。不死川は高卒後、田舎のしがらみにうんざりして東京に出て来たものの、高卒如きでは希望の広告会社に就職出来るほど夢叶う寛大な社会ではなかった。駄目元で受けた就職試験もやはり学歴の壁で、会場の出口でお車代500円を渡されて何度ご親切に送り出された事だろう。

 不死川の田舎には最近まで長兄制度が色濃く残っていた。腫れ物に触るように兄を丁重に育てたものの、嫁姑の確執で関係破綻、次男は一早く家族の柵から養子という賢い手段で県外に脱出し、所帯を構えて親を引き取らない万全の体制を引いていた。上に姉が三人もいるが、親の扶養は男兄弟の義務とあって、京平は高校在学中に長兄制度の末っ子あるある状態に立たされたわけだ。

新天地に上京したはいいものの、田舎に残して来た母を早く都会の新生活に引き取って扶養しなければならなかった不死川は、正社員としての就職が決まらぬまま、日々アルバイトに明け暮れて必死に資金を蓄えるしかなかった。


 上京から一年も経たないある日、母から数日後に上京して来るという突然の連絡。バイト先の寮でしのぎを削っていた不死川は急いでアパートを借り、受け入れる準備をしたものの、到着したのは4トントラックの部屋に入り切らない引っ越し荷物。罪の意識と母の涙にムチ打たれながら、部屋に入り切らない荷物は廃棄処分。数か月で貯金も底を突き、寝ずの稼ぎは泡と消えていった。愈々追い詰められた不死川は、気の向かない警察官採用試験を受けてみた。皮肉にもそれは受かった。

 その日は雨だった。重い足を引き摺って受けた体力検査は、特に不死川にとって忘れられないものとなった。身体検査とあって、バイト帰りになけなしの金で買ったパンツを、そのまま穿いて行けばいいものを昨夜洗濯したばっかりにまだ乾いていない。母は気を利かしてその一張羅パンツを電気ストーブで乾してる途中、不注意で焦がしてしまった。場所が悪い。丁度、尻の部分だ。出掛ける時間になり、仕方なく悪い予感を押し殺して焦がしパンツを穿いて試験会場に向かった。

 筆記試験の後、肛門まで検査される身体検査、そのあとパンツ一丁で体育館に集められ、体力測定が行われた。焦がしパンツの事はすっかり忘れていた不死川の後ろに、検査官が数名集まって来て薄ら笑いをし始めた。体力測定が終わると、薄ら笑いをしていた一人が壇上で〆の挨拶に立った。

「この中にパンツにクソが付いている者がいた。ちゃんと洗って来るように!」

 “しまった!”、会場の笑いの渦が不死川の羞恥心を逆撫でした。さっき後ろで検査官らが集まって薄ら笑いしていたのは自分の焦げたパンツのことだったと今更気付いても遅いが、不死川の羞恥心はすぐに消え、気が楽になった。何故ならば、焦げ跡がクソにしか見れない受け狙いの挨拶をするやつらの浅はかさに、安心したのだ。思った通り、体育会系のノンキャリア連中が蔓延る警察官寮での生活はその延長だった。この世界はちょろいと思った。介護施設での修行ゲームと思えばどんな理不尽な扱いを受けようと腹も立たない。その分、自分が強靭になっていく。そして給料が貰える現場である交番は更にその延長だった。縦社会をいいことに先輩風を吹かして何十回と書類を作り直させるサービス残業のしごきは、交番の風物詩と解し、人格を否定する上司の怒号は子守歌替わりになっていった。

 母親の扶養の無茶ぶりから見れば、貧困に喘ぐことのない未来がある。味噌と胡瓜だけの食生活はきつかった。秋田から追い掛けて来た母と暮らし始めたばかりの長屋の家賃が払えなくなって追われたあの日、次に引っ越した部屋は殆ど荷物が入らない3畳の三角部屋だった。再び家財道具を失う母の涙に、罪の意識すら感じなくなっていた。蝶よ花よと育てた長男の嫁との不仲。家を脱出した賢い次男。残った三男坊の京平が母にとっての最期の砦。結局、母は何も期待していなかった末の息子に身を委ねて来たが、大きく期待外れだったろう。不死川にしてみれば、それは自立の足を引っ張られる過酷な試練でしかなかったが、子どもというのは親の魔力に洗脳された存在なのか、不死川は母親に不満を抱くことはなかった。


 さて、稚拙な警察官どもに振り回されながらも、不死川の警察官寮生活は充実していた。殆どの国民は、法知識の欠落している警察官が多数誕生していることを知らない。警察官は警察学校を卒業して実務に就くと、法律を学び直すことなど皆無だ。日々の精神的肉体的根性確認の追い込み組織で、業務上使用せざるを得ない最小限の法律だけが頭に叩き込まれる。先輩の一言一句は絶対的であり、口答えなどあってはならない理不尽な縦社会がその末端にまで蔓延っていた。

 この先、呉越同舟のバカどもから身を護るために、不死川は法知識を得る努力を怠らなかった。狡賢いほどに法律を学び直した。上司のパワハラを誰にも相談などせず、すぐに匿名で監察官室にぶん投げるゲームを知ったある日、内部告発がバレて騒ぎになったところで、最悪でも煙たがられて交番を移動になるだけと踏んだ。そのとおりだった。交番渡りの単身赴任は寧ろ不死川にとって扶養を押し付ける母親の余計な干渉から逃避出来る上、全国をトラベル気分で廻れるお得な職業だと益々気に入った。


 警察組織に属する人間が法に触れる事件や不祥事を起こした場合、世間に公表しなければならないという法律の制定はない。バレなければすぐに過去のゴミになって焼却される。警察組織と国民だけでなく、署内の上司と部下の間にも国という分厚い壁がある。例え上司の行為が不法行為と判断されても、彼らは個人として損害賠償責任を負うことはないと判断されている。正義感をもって警察官になったとしても、正義より組織のルールが優先する。教育で宗教観を植え付けることで警察官に犯罪への罪の意識や倫理を持たせようと試みたり、一般人よりも重い罪状にしたところで、組織が先頭に立って不祥事を隠蔽している以上、何も変わらない有難い温室だ。警察官による「事件の捏造」「証拠隠滅」「犯人隠避」など、権力を持っている警察の違法行為を一般人である国民が制御することはまず不可能であることも十分承知の上だ。しかし不死川には揺るがない自律の目安があった。例えば、交番に届けられた財布から現金を抜いたり、証拠品である指輪やネックレスの着服・窃盗などの愚は絶対に侵さない類の正義感は持っている警察官でもあった。


 何度目かの転属先の亀戸で交番勤務をしている頃、母が倒れたという報せが入った。日勤を終えて急いでアパートの部屋に駆け付けると、近所の人の手で粗末に部屋に転がされたまま、異様な臭いに包まれて動けないでいた。不死川が事件現場で何度も嗅いだ臭いだ。母の下半身は排泄物に塗れていた。救急車を呼んだものの、このままでは自尊心の高い母はつらかろうと、急いで汚物処理をした。“なぜ早く連れてこなかったんだ!” と医師に怒鳴られたが、そんなことは倒れた母を発見した人に聞いてくれと思いつつ、死を覚悟せよとの医師の宣告を受けた。気の毒な母である。三男坊のオレなんかを頼ったのが抑々の間違いだったんだと不死川は腹立たしく溜息を吐くしかなかった。


 一週間後、不死川の母は運ばれた病院で他界した。付き添いの不死川は、集中治療室の母の心電図の波が消えた瞬間を偶然見てしまった。スタッフは誰一人そこに居なかった。ナース室に人を呼びに行った。すると、今まで見たこともない医師が担当医を追い越して飛び出し、危篤に陥った母のもとに威勢よく分け入って心臓マッサージを開始した。気道確保のため切開が必要と看護師に指示して書類に署名を求めて来た。その酒臭いパフォーマンス医師に不死川は冷めていた。強引に延命の三文芝居を見せられている感覚だった。死んでいる母を起こしたくはなかったので “延命措置は結構です” と署名を断った。その三文芝居医師は “エホバでもやってんのか” と吐き捨ててクソ医師ぶりを露わにした。不死川はその病院が悪評高い脳神経外科であるという事を後で知った。


 10日ばかりの思わぬ長期有休を過ごした不死川は、ひとり母の火葬を終え、父の眠る墓地に向かうと、空々しい幾人かの身内が未だ石積みの墓の前で待っていた。バケツをひっくり返したような土砂降りの中、お互いに話す事は何もなかった。墓石すら建てられない兄に過去の不満も相まって、怒りが再燃する前にと、埋葬を終えてすぐに帰京の列車に乗った。


 各地の交番を流れ流れた不死川は、結局、今の喜多沢警察署管轄下の六地蔵交番に配属された。賑やかな街の規模にしては所長と居丈高の巡査長とどことなく場末のエロさ漂う女性巡査の三人という殺風景な交番だったが、交番の前の花壇の花々が、心地よいそよ風に揺られているのが印象的な初日だった。

 この交番は、立ち番の位置から道路を挟んで坂の上に峯伏ほうふく寺の主棟おもむねが僅かに見える。その寺は時の政権によって絶滅に追い込まれた村人たちが建立したそうだ。“報復” の語呂合わせで命名した寺で、どの宗派にも属さない寺である。


 交番勤務は何処も、慣れた頃に空気の読めない新人巡査が配属されて来ては、暫くの間の違和感を撒き散らしてから、やっとあきらめモードで落ち着く。ここも過去に配属されて転々としたこれまでの交番と変わりはない。この六地蔵交番が他と少し違っているのは、ちょくちょくいつもの散歩の老人が交番の前で立ち止まって、奥のほうを不思議そうに覗いては溜息を吐いてまた歩き出すくらいか。そしてこの交番にも居た。民家を覗き見するのが巡回パトロールだとでも思っている非常識極まりないセクハラ上司。その上司、妻子ある田中克好巡査長は最近、不死川巡査がパトロールに出るたびに、20代の部下の丘野優樹菜巡査と交番内で度々性行為に至るようになっていた。不死川巡査は綺麗好きである。交番内の風紀の汚れは徹底的に掃除しなければならないと思うようになっていた。


 ある日、不死川巡査が巡回から帰ると、交番の前に人だかりが出来ていた。いつの間にか設置された交番のひさしのモニターに更衣室の奥の映像が流れていた。男女の巡査の性行為があからさまに映し出され、交番の前は通りすがりの野次馬で大騒ぎになっていた。不死川巡査がその人だかりを掻き分けて交番の中に入ると、“こと” を済ませたばかりの田中巡査長が出て来て人だかりに驚いて不死川巡査に聞いてきた。

「何かあったのか !?」

「それは田中巡査長がよくご存じでしょう? 中の様子が交番の前のモニターに映ってますよ」

「モニター !? そんなもの、いつからあったんだ!」

「知りませんよ。開かれた交番ということで大分前からあったんじゃないですか?」

「オレはそんなこと聞いていない!」

「自分も配属されたばかりですから…」

 そんなわけはない。昨日の深夜、交番でひとりになった時に不死川自身がリースで取り付けたものだ。不死川は空々しく田中巡査長に問い掛けた。

「この交番は、中の様子が通行人の誰にでも分かるようになってますね」

 田中巡査長は絶句した。奥で聞いていた優樹菜巡査は出るに出れなくなってしまった。

「不死川、おまえ何とかしろ!」

「何とかって?」

「モニターを外せ!」

「分かりました」

 二階に上がろうとすると田中巡査長に止められた。

「待て! その前に交番の前の野次馬を追っ払え!」

「では、本部に通報するしかないですね」

 広帯域受信機で連絡しようとするとまた止められた。

「本部には通報するな! おまえが追っ払え!」

 不死川巡査は素直に田中巡査長に従った。

「皆さ~ん、どうかお帰りくださ~い!」

「昼間っから警察が交番の中で何やってんだ!」

「交番はおまわり専用のラブホテルか!」

 一人の野次馬が暴発の口火を切ると、集団が一斉に怒鳴り出し、交番前は一触即発となった。

「どうします、田中巡査長?」

 上司は項垂れたままになった。

「やはり、本部を呼ぶしかないですね」

 田中巡査長は項垂れて奥の部屋に引き籠った。

「警察官のくせに何だ、あいつ! あんた、どうするつもりだ!」

「私は数日前にここに配属になったばかりの新米なんで、何と言っていいか…しかし、驚きました。来て早々これではがっかりです。警察なんかやめようかな」

よくもまあ、こんな出まかせが言えるものだと、不死川巡査は自嘲した。

「駄目でしょう、あんたがしっかりしないと」

 不死川は逆に野次馬に励まされた。

「あれ !?」

「え !?」

「あんた、前から居たお巡りさんじゃない !?」

「よく間違えられるんですよ。なんか私に凄く似た人がいたらしいんですけど」

「オレは知ってるよ」

 あの散歩老人が話に入って来た。

「随分前の事だ。あんたに似たその警察官は依願退職したみたいだ」

「依願退職?」

「そいつはね、女子大生のアパートにパトロールだつって強引に押し掛けて、襲ったはいいものの抵抗されて殺しちまったんだよ」

「確か、警視総監が引責辞任する騒ぎにまでなったんだったな」

「あんた知ってるだろ !?」

「そうなんですか…」

「知らないのかい !?」

「はい」

「あんたも豪い所に配属になっちまったね」

 不死川巡査は “なるほど” と思った。どうやらこの交番は厄介おまわりの終点のようだ。そう思うと心なしか自分の肌に合った場所のような気がしてきた。

「交番勤務がきつくてストレスが溜まってたんでしょうか…ここだけの話、私もそろそろ警察官なんか辞めようと思ってるんですけどね」

「あんたは頑張んなさいよ。変態おまわりになんかに成りなさんなよ」

 不死川巡査の投げやりな態度は逆に野次馬の共感を得た形になり、誰も不死川巡査を責める者は居なかった。本部のパトカーが到着すると、野次馬たちは降りて来た刑事たちを取り囲んで再び罵声を浴びせた。不死川巡査に案内されて本部刑事係の御馬舎みまや景俊と東雲しののめ正太が交番に入り、奥から田中巡査長が引き出されると、野次馬の罵声は更に激しくなった。不死川巡査は、ふたりの厳しい聴取に狼狽える田中巡査長の無様に笑いが込み上げて吹き出しそうになりながら二階に上がった。不死川巡査は騒ぎのどさくさに紛れてモニターを外して下りて来ると、御馬舎刑事が咎めて来た。

「何しに行ってんだ!」

「田中巡査長にモニターを外すように指示されていたもので」

「そんなことより状況を説明しろ」

「さあ、自分が巡回中の交番の出来事は把握出来ませんので…巡回から帰って来たら、もう大勢の人が集まっていまして…」

 不死川巡査に聞いても埒が明かないと判断した御馬舎刑事たちは、仕方なく田中巡査長と優樹菜巡査をパトカーで連行して行った。パトカーが去ると、野次馬たちも三三五五に散って行った。間もなくモニターの引き取り業者がやって来て、手際良く回収して去って行った。“お掃除”が済んだ不死川巡査は、爽やかな春風の中、にんまりと立ち番に立った。


〈『第2話 交代勤務』に続く〉

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