お米とぎ
第21話 お米とぎ
河川でお米をといでいる、そして、炊いておにぎりを握っているという“お米とぎ”を、君は知っているだろうか――
ある夕暮れのことだ。うす暗くなって赤とむらさきが混ざったような、そんな色の空の下、川でため息なんかをついて、石なんかを投げたりしている、中年のサラリーマンがいた。
それから、川の中で水に両足を浸しながら、ザルにお米を入れてショキショキといでいる、ボロボロの野球帽をかぶったみすぼらしい、じい様もいた。
米をとぎ終えたじい様は川から上がると、サラリーマンに話しかけた。
「あんた、どうした? 嫌なことでもあったのかね?」
「ああ、嫌なことしかないね。仕事はつらいし、上司は能もないくせに威張るし、部下は言うことを聞かないし……家に帰れば、妻も子供も冷たくて、不満ばかり言ってくる。それで、こうして家に帰りたくないもんだから、ここに寄ってみたってわけ」
「そうかね。そりゃ、あんたも大変だわなぁ」
じい様は炊飯器に米を入れると、川から汲んだ水を入れ、スイッチを押す。
炊飯器はピッと鳴って、ジジジ……と米を炊き始めた。
「じいさん、その炊飯器はどこから電源をとってるの? コンセント、刺さってないよな?」
じい様は答えないで、ただフフフと可愛らしく笑う。
それから、サラリーマンは独り、ブツブツ文句を言いながら川に向かって石を投げつづけ、じい様はその様子を眺めながら飯が炊き上がるのを待っていた。
やがて、炊飯器はシューシューと湯気を吹き、三十分ほどして飯は炊き上がった。
じい様がジャーを開けると、ふっくらしてツヤツヤの、そしてほんのり甘いような香り立つ、輝くような白ご飯が現れた。
「なかなかおいしそうに炊き上がったな、じいさん」
いつの間にやら、じい様のすぐ横でサラリーマンは炊飯器をのぞき込んでいる。
「おにぎり作ってやるから、食べなさい」
そう言って、じい様はせっせとおにぎりを握り、皿にぽんぽんとのっけた。
「え、いいのかい?」
ブツブツ呪詛を吐き、石を投げつづけたサラリーマンの腹はペコペコに減っていた。
優しげなじい様に、すっかり気を許したサラリーマンは喜んで握り飯を食った。
ほおばって、ほおばって、ほおばって……
気がつくと、サラリーマンは川の真ん中で両足を冷たくしながら、米をといでいた。
「おーい、じいさん頑張れよ! 俺もあんたに代わって頑張るよ、幸せになるわー」
スーツを着たさっきまでの自分の後ろ姿を、川で米をとぐじい様は、ただ見送ることしかできなかった。
こうして、サラリーマンは米をとぎ、飯を炊き、そして、おにぎりを握らなければならないという、自らのさだめを背負うのだった――
「ふーん……じゃぁ、じい様の握り飯を食ったサラリーマンは、じい様と入れ代わっちまったってことか。じい様とサラリーマンなら、どっちが幸せなのかね? 田川さんとしてはどうなの?」
釣り糸を垂らす男は、さっきまで川の中で米をといでいたじいさん、田川に尋ねた。
「さぁねぇ、サラリーマンは米をとぎながら考え、入れ代わったじい様もサラリーマンをやりながら、どっちがいいのか、わかるんでねぇの」
「それにしてもよ。いくらうまそうに見えたからって、初見のじい様が川の水で洗って炊いた米で、しかも素手で握ったんだろう? そんなもの、食ったりするかね?」
へっへと男が笑っていると、田川のじいさんがスイッチを押した炊飯ジャーはシューシューと湯気を吹き出した。
やがて、チッチロリーと鳴って炊飯器が炊き上がりを知らせると、田川のじいさんはせっせと、おにぎりをこさえる。
「そういえば、田川さんはいつもそうやって、おにぎりを握って食ってるけど、一度も俺にくれたことはないよな? もしかして、俺がその握り飯を食ったら、田川さんと俺が入れ代わっちまったりして」
自分でこさえたおにぎりをうまそうにほおばって、田川のじいさんは答える。
「そうさなぁ。俺にも選ぶ権利はあるからなぁ。あんたと代わってもなぁ」
両手におにぎりを持って、田川のじいさんはあんまり楽しそうに笑うので、男もつられて力なく笑うのだった。
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