第一占 虎の尻尾に気をつけて ⑧

 月麗は雷に打たれたようになった。さっきの音はこれだったか。足音まで可愛いとは。


「ご所望の品々にございます」

「大儀である」


 皇帝は盆を受け取ると、机の上に置いた。盆に載せられているのは、筆記用具一式だ。筆や墨や硯、紙に加え、水差しや筆置き、文鎮、紙の下に敷く毛氈もうせんなどまで揃っている。


「他にご入り用なものがございましたら、何なりと」

「今のところはよい。下がれ」

「かしこまりました」


 宦官は、手を合わせ自分の前に掲げるようにした。きょうしゅしている。


「ああっ」


 月麗は再び雷に打たれた。打たれすぎて黒焦げになりそうだ。


「どうした」


 月麗の様子を怪訝に思ったか、帝がそう訊ねてくる。


「その、可愛いなと」


 ふわもふの毛玉である。それが喋り、ぽてぽて音を立てて歩き、拱手する。可愛いとしか言いようがない。


「ふむ。なるほどな」


 皇帝は頷くと、宦官に目を向けた。


「宦官と戯れたいか」

「はい!」


 思わず身を乗り出して答えてしまった。さすが帝、民草の求めるものが分かるらしい。


「許す」


 勅許が出された。早速月麗は宦官に躍りかかる。皇帝の眼前で、許しを得て宦官にむしゃぶりつく。字面だけだと、何ともいかがわしい。


「ああ、もふもふ」


 でも実際のところはこんな感じだ。月麗は思うさま毛の柔らかさを堪能する。


「あーれー」


 宦官が、悲鳴を上げて手足をぱたぱたさせた。


「こうか、ここかいいのか。もふもふ」


 それが可愛くて、月麗は更に撫で繰り回す。


「一つ言っておく」


 そんな月麗に、帝が言葉をかけてきた。


「可愛がるというのは、当人にとっては愛情表現だろう。しかし相手は自分の意思を無視して触りまくられるわけだから、必ずしも嬉しいとは限らぬぞ。もふもふもふもふそればかり言われてつらい、いい加減苦痛だと思っていたらどうする」

「うっ」


 宦官を撫でながら月麗はうめいた。これは厳しい指摘である。まさか帝位にあるものが、これほどまでにもふもふに対して深い考察を加えるとは。


「ごめんなさいね。つい興奮し過ぎちゃったわ」


 月麗は反省し、宦官を解放する。


奴才のうさいなぞに、勿体なき、お心遣い」


 よろよろと毛玉が立ち上がった。その姿がまた可愛いのだが、ぐっとこらえる。


「わたくし、昔からこういうもふもふとした生き物が大変好きでして」


 月麗は弁明めいたことを口にした。実際そうなのだ。犬にせよ猫にせよ、ついそういう生き物を見るとあーかわいいーと思ってしまうのである。


「そうなのか」


 帝が聞いてくる。


「はい、昔猫を飼っていたんです。黒猫で、毛がふさふさでもふっとしてました」


 月麗が、子供の頃。師や兄姉弟子と一緒に旅をしていた頃の話だ。


「可愛かったなあ」


 猫は月麗によく懐いた。月麗は猫を抱いたり、一緒に寝たりした。幸せな思い出だ。


「なるほどな。――好きだったのか? その猫のことが」


 帝が、探るように訊ねてくる。


「はい。大好きでした。家族のように思っていました」


 ある日、猫は突然いなくなった。どれだけ探しても見つからず、月麗は泣いて師や兄姉弟子を大いに困らせたものだ。


「分かった。その気持ちはりょうとする」


 帝は頷く。どうやら、月麗がもふもふ好きであることは諒解してくれたらしい。


「ただし、宦官をあまり強引に可愛がるのはやめてやれ。茂戸は忠実で忍耐強いが、その分何でも我慢してしまうところがある」


 ただし、釘は刺されてしまった。


「分かりました」


 月麗は素直に返事をした。


「陛下は、もふもふした生き物の気持ちがよくお分かりなのですね」


「いかにも」


 帝は深々と頷いた。よほど己の理解に自信があるらしい。


「下がってよい」


 帝が言う。宦官はもう一度拱手すると、ふらつきながらも部屋を出て行った。


「さて、それでは始めますか」


 月麗は、鞄から占筮の道具を取り出す。


 まずは筮竹だ。竹を削って作った細長い棒で、占筮者はこれを捌くことで占う。月麗が使うのは、漆塗りの美麗なものだ。


 次に、筮筒。捌く時以外に、筮竹を立てておくための道具である。そして算木。四角い柱の形をした黒い木片で、四面にそれぞれ違う柄が彫られている。これは、結果を記録するためのものだ。筆や紙なども、使いやすい位置に並べていく。


「いずれも美しいな」


 道具を見た帝が、感心したように言う。


「師から受け継いだものでして、手入れは欠かしておりません」


 ちょっと得意な気持ちになりながら、月麗は答えた。


 月麗はこの道具にこだわっている。師が愛用し、そして死ぬ前に譲ってくれたものだからだ。ものは、そのままではどこまでいっても「もの」である。しかし使う人間の思いがこもった時、ものは――宝物になる。


「それでは、始めます」


 言うと、月麗はまず筒に筮竹を一本立てた。残りの四十九本を左手で握ると顔の前まで持ってきて、右手を添えるようにして扇状に開いていく。


 そして、心神を研ぎ澄ます。


 こういう時、しばしば相手の未来が観える。生贄になるそもそもの切っ掛けだった「科挙での不正」にしても、いざ占おうとしたその瞬間に観たものだ。

 しかし、今回は――来ない。


『その力が、否応なしに使えなくなるので』


 本来のコセンキである女性の言葉が蘇る。本当なのだろうか。本当に自分は、あの力から解放されるのだろうか。


 湧き立つそうになる気持ちを、鎮める。気持ちを乱してはならない。天にはてはなく、時に終わりはない。それらと向き合う際には、ただただ落ちついていなくてはならない。


 ――陰陽のことわりと占筮の法を以て、天に問う。


 言葉には出さず、月麗は占字文せんじもん――占筮を行うにあたっての呪文を唱える。


 ――占者離月麗、未だこの国の国主の身に至る吉凶を知らず、その得失するところを知らず、その愛慕の成否を知らず。願わくは疑を決さんがため、しょうせい八卦はっか大成六十四卦卦かかこう三百八十四爻によりてその意を顕したまえ。


 唱え終わるや、目を開く。筮竹を捌き、算木を並べてその結果を記録していく。

 その流れを三度繰り返すことで、占問への答えが示された。


 ――の三番目。

 ――虎の尾をむ。人をくらう。


 凶。


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