生贄妃は天命を占う 黒猫と後宮の仙花

尼野ゆたか・佐々木禎子/富士見L文庫

序「境帝を占い高官に昇る」①

 ――いや、信じろっていうのが無理な話じゃない?


 鏡の前で、月麗げつれいは立ち尽くす。


 床まで垂れる筒状の長裙を穿き、その上から一重の衣である衫を羽織るようにして着るという出で立ちである。その組み合わせ自体は、一般的な女性のものだ。色合いは赤を基調としたもので、これもおかしいところはない。


 月麗が問題としているのは、その上質さだ。何というか、滅茶苦茶高価そうである。もうちょっと他に言い方はないのかという話だが、贅沢とは無縁な人生を送ってきたため、滅茶苦茶高そうな服のことは滅茶苦茶高そうとしか表現できない。


それ以上の語彙力を求めるのなら、まずどこかの公主お姫様として生まれ変わるところから始めさせてほしい。

 

 ちなみに服だけでなく、腰に巻いている帯も凄い。色とりどりの美しい宝玉があしらわれた、豪華な玉帯なのである。これまた高そうだ。というか絶対に高い。見ていると威圧されてしまう。月麗が玉帯を巻いているのか、玉帯に月麗が巻かれているのか、はたしてどちらなのかというほどの力関係である。


 服にせよ玉帯にせよ、いずれも月麗が着こなせる代物ではない。


 何しろ月麗ときたら、目がぐりぐりで眉は太く、髪も短ければ肌もつやつやということもなく、子供(しかも男の子)と間違われることさえよくある面立ちなのである。その顔で高価な服やら豪華な帯やらを身につけたら、ちぐはぐこの上ない感じになるはずだ。

 

 しかし、そんなことはない。なぜか? 理由は簡単だ。今の月麗が、月麗が知るどんな月麗よりも、優美に粧われているからである。


 目尻に差された紅が、ぐりぐり瞳を艶やかに色めかせる。眉は整えられた上に黛が引かれ、名のある書家の筆遣いを思わせる端麗な姿へと生まれ変わっている。

 

 髪に至っては、複雑かつ華やかな形に結い上げられていた。その上で、いくつもの煌びやかな髪飾りで美々しく彩られている。最早芸術だ。


 本来、月麗の髪は芸術とはまったくかけ離れた存在である。多分松の葉っぱとかの方が分類としては近い。つまりこれは地毛ではなく、女性用の特髻なのだ。


 作り物なのに、とてもそうとは思えない。そっと撫でれば、艶と張りと潤いとが一度に感じられる。きめ細やかで、さらさら。月麗の地毛より、髪としての格が遥かに上だ。


 自分の顔に、魅入ってしまう。これではまるで、お妃様か何かのようである。


「――ううん」


 呟いて、月麗は首を横に振った。

 みたい、ではない。月麗は本当にお妃様なのだ。なぜか、そうなってしまったのだ。


「さあ。こうしちゃいられない。そろそろ逃げよう」


 そして月麗は決断を下した。今の格好がいやだ、というわけではない。月麗とて、人並みの煩悩は持ち合わせている。素敵な服は着てみたいし、艶やかにお化粧もしてみたい。


 しかし、そういうわけにはいかないのだ。たとえどんぐり眼と松葉の髪に戻ろうとも、逃げるしかない。ここに長居していたら――喰らわれてしまうのだから。


「よし」


 月麗は、一つの鞄を手にした。


 月麗の私物が入った鞄だ。今まで見てきた諸々とは打って変わって、大変おんぼろである。高価でもなければ宝玉があしらわれてもいないが、肩紐が二つついていて背負えるようになっている。機能性は優秀である。


 月麗は鞄を背負った。高価な服装に、艶やかな化粧に、美しい髪に、おんぼろの鞄。


 青々とした春の野原に突如朽ち果てた切り株が生えてきたかのような不調和さだが、そんなことを言っている場合ではない。早く逃げないと、昔話のように喰らわれてしまう――


「邪魔するぞ」


 突然、そんな声が部屋に響いた。一人の男性が、部屋に入ってきたのだ。

 月麗はその場に固まる。――やって来たのだ。月麗を喰らおうとする、その相手が。


「遅くなった。政務が立て込んでいてな」


 黒い瞳が、深く静かな光を湛えている。何を考えているのかを容易に悟らせない深遠さと、何が起こっても簡単に動じない冷静さを感じさせる。


 高い鼻と形のいい唇は、目や顔の輪郭と合わせて見事な均衡を保っている。


 ふわりと流れを付けた黒一色の髪は、月麗の特髻と遜色ないほどに美しく艶めいていた。しかし、あちらは自らの髪だろう。とってつけたものではない、自然な柔らかさが感じられる。


 当代随一の役者、と言われても納得してしまうほどの見目の良さだ。しかし一方で、役者のような――というありがちな形容を拒むものを男性は持っていた。

 

 それは、高貴さだ。役者が卑しい人種だというのではない。彼の佇まいに、半ば人の身から離れたかのような尊さが滲み出ているのだ。

 身に纏っているのは美しい模様が丁寧に縫い取られた長袍。その布の色は、紫である。


 かつて学んだ知識が蘇る。その昔、紫という色は神と天とに通じる最も高貴な色とされていたという。その色を用いた服を着ることが許されていたのは、国に――ただ一人。


「皇帝陛下ですか」


 そう訊ねてから、自分の言葉遣いの大雑把さに気づく。「あらせられますか」とか「そのご竜顔はもしや」「ははー皇帝陛下のおなりー」みたいな方がよかったのではないか。

「口の利き方が生意気だ。処刑する」みたいなことになったらどうすればいいのか。喰らわれるのと処刑されるのとどっちがつらいだろう。うーんどっちもつらそう。


「いかにも帝だ。正しくは境帝である」


 究極の選択に月麗が苦しんでいると、男性――帝は鷹揚に頷いた。


「ふむ」


 帝が、月麗を見つめてくる。自然の摂理として、こんな美男子と視線を交わすと月麗の胸は高鳴ってしまう。顔は熱くなるし、視線は勝手に別の方向へ逃げ出してしまう。


 しばらくしてから、ちらりと目を戻す。何が面白いのか、まだ帝はこちらを見ていた。

 再び自然の摂理で目を逸らしつつ、月麗は考える。そう言えば、輿入れの儀式では一言も交わしていなかった。自己紹介した方がいいのだろうか。


「わたし、姓は離、諱は月麗、あざなは日天と申します」


 つい普通に名乗ってから、はっと気づいた。


「違いました。えー、コセンヒです」


 そう、普通に名乗ってはいけない。月麗は、コセンヒなる妃の身代わりなのだ。

 

 

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