第28話 涼 29歳 秋 ロウと伊那と過ごした日々

 山の神に捧げる歌は、何度もロウと一緒に練習した。最初はロウが山の神を呼ぶ歌を聴いているだけだったが、練習しているうちに、涼も山の神を呼べるようになった。涼には山の神がはっきり見えるわけではないが、空気の密度が変わり、涼しくて温かい不思議な空間に包まれることが、そうなのだと理解できるようになった。

 ロウの声と涼の声は、エナジーが違いすぎて重ねるのは難しい、そうロウは分析していた。山の神を呼ぶときは、最初のように声を重ねることはない。ロウが呼ぶ番、涼が呼ぶ番、とはっきりわけるようにしていた。


 一度、伊那が二人と一緒に山の神に会いに来たことがある。伊那には、山の神が人の姿としてはっきり見え、声も聞こえるのだという。ロウは、山の神の姿が見えるわけではないが、意図はわかる、と言っていた。涼はまだ、空気の密度が変わることがわかるだけだ。それでも、「神」と呼ばれる存在の空気を感じられることはうれしかった。


 そんな風に「神」を感じていると、神の意図はわからなくても、人の意図がわかるようになった。とくによくない意図ははっきり感じられる。自分を愛し、大切にしてくれる人と、自分を利用しようとしている人の違いがはっきりわかるのだ。もしエリクサに来ていなかったら、そうした「悪い意図」に乗せられて道を誤ったかもしれない。有名である、人気がある、ということは諸刃の剣のようなものだ。ちやほやされても、ろくなことはない。せっかく一度は成功という位置にたどり着いても、そうした「悪い意図」に足をすくわれ、消えていく仲間たちもたくさんいた。

 人の悪い意図は、必ずしも他者からの悪い誘惑として人生に現れるわけではない。「悪い意図」によるエネルギーは、運気の下降として現れ、車の事故、他者とのトラブルやケガとして現れることもある。自分の健康や才能に背かれ、仕事を続けられなくなることもある。人気という目に見えないエネルギーが下がれば、少しずつ忘れられて仕事が来なくなってしまう。

 誰と一緒に時間を過ごすかを慎重に選ぶ必要があることを涼は理解した。不平不満、怒りや悲しみ、嫉妬や恨みなどの暗い念を持つ人と一緒にいれば、運気は下降し、エネルギーは下がる。

 涼は、そうした人たちと時間を過ごすより、ひとりの時間を大切にしはじめていた。


 一本角の鹿の王は、ふたりが山を登るとき、姿を現したり、現さなかったりしたが、少しずつ涼にもなついてきたようだ。いつもロウだけを見つめていた黒い瞳は、ときどき涼にも視線を投げかけるようになっていた。あるとき、ロウに、なぜてごらん、と言われておそるおそるなぜてみたが、おとなしくなぜさせてくれた。

 どうして動物と心を通わせられるのですか、と聞くと、動物は人間の瞳からエナジーを読むのだよ、と答えが返ってきた。


「この星で、人間が動物の王として君臨していることはすべての動物が理解している。百獣の王といわれるライオンでさえもね。サーカス団のライオン遣いと、僕がやっていることは同じだ。決して、僕一人の特殊能力ではない。人間の瞳から強力なエナジーが流れ出すとき、動物は人間がこの星の王であることを思い出し、おとなしく跪くのだよ。

 人間はこの星に王として君臨している責任を取らなくてはならない。人間同士のつまらない争いにあけくれ、動物たちや植物たちを苦しめ、この星を荒廃させてはならないのだ。残念ながら、ほとんどの人間は、そうやってちっぽけな自分の欲にしがみついて、争いにあけくれているがな」


 涼が最初にエリクサに泊まったとき、一本角の鹿とロウの夢を見たことを話したときには、こんな風に説明してくれた。


「僕がこの土地で、山の神とアクセスする役目を負うことを、この一本角の鹿が認めてくれたのだ。そのことを、象徴として君は夢で受け取ったのだろう。正確には、僕と伊那が、ということになるのかな。僕と伊那が、この山で山の神とアクセスし、たとえほんの少しでも、この星から受けた愛をこの星に還元していく役割をしていくことを認めてくれたのだ。僕には歌があるからね。歌があれば、誰かの心に灯りをともすことができる。

 君みたいに大勢のために歌うのもいいが、たったひとりのために歌うのもそれと変わらず大切だよ。人間は一生を通じて、たったひとりの人の心に灯りをともすことができれば、それだけで生まれてきた甲斐はあるものだ。たとえば、君のエナジーのある声を、世に送り出すことができたのなら、それも十分、僕は役割を果たしたということになるのかな」


 アメリカに行くことがついに決まったとき、ロウに乗馬の大会に誘われた。いつもは北海道で行われる山を駆ける乗馬大会が、今年だけ長野で行われるのだという。

「ロウさん、馬に乗れるんですか?!」

 涼はびっくりしてそう尋ねた。

「乗れるよ。もっともしばらく乗ってないがね。そろそろ君は山駆けもできるようになっているだろう?今年に限って長野で大会が開かれるんだ。これは出るべきだな、と思ってね。日本で乗馬をしていても、長距離の山駆けをできるチャンスなど、ほとんどない。一度は長距離を走ってみるべきだよ。乗馬をする人間は特殊だから、君が俳優だからといってどういうことはないし、道行く人には、馬で走り抜ける人間の顔なんてたいしてわからないからね」


 馬で山を駆ける!なんて魅力的な誘いだろう。涼は、その馬術大会に出場したい、いや、出場する、と一瞬で心を決めた。もう仕事は減らしているし、問題はない。

「君と馬で一緒に走るのは、16世紀以来ということになるのか。400年ぶりだな」

 ロウはそう付け加えた。そうだった、と涼は思い出した。伊那に教えられたわけではなく、涼が自分で体験した前世だ。ロウは馬に乗って現れ、馬の首を撫でて何事か囁いていた。馬が嬉しそうにロウに撫ぜてもらっていたことを思い出す。ロウの前世は、乗馬の達人だったのだ。きっとロウは今生でもあっという間に乗馬できるようになったのだろう。


 120Km,80Kmの競技は選手権大会なのだという。一般から出られるのは60Kmからだ。60Kmの走行にはおよそ6時間がかかるらしい。6時間も乗馬をするなどもちろん初めてなのだが、獣医師や休憩場所を含め、サポート体制は充実しているそうだ。


 涼は事務所に連絡を取り、乗馬大会へ出場する許可をもらった。事務所も、乗馬に関しては問題ないだろうという返事だった。そもそも芸能界にも、乗馬をしたり、馬主になったりする人は多い。有名な時代劇の俳優が、昔この大会に出場したこともあるそうだ。


 その大会の日には、伊那もエリクサを休みにして見に来た。ロウが馬に乗るのを見るのは久しぶりだわ、と言って伊那も楽しそうにしていた。ロウ自身も、大会に出ることを決めてから、乗馬の訓練を再開したのだろう。いつもパワフルではあるのだが、さらに活気に満ちていた。

 ロウのエントリーには「潘田彪河」と記されていた。涼は、ロウさんの本名を初めて知ったな、と改めて思った。はんだひょうが、と読むのだという。いい名前ですね、というと、高瀬涼だってなかなかいい名前じゃないか、と返ってきた。宮本先生に「スターになれる名前だよ」と褒められたことを思い出した。

 涼は本名でエントリーしているが、だからといって誰からも特別に扱われることはない。みんな乗馬というものでつながった仲間なのだ。


 初秋の爽やかな風が長野の山々から吹いてくる。ロウは長野の馬術クラブから、日本馬で出場していた。サラブレットは短距離向けの馬であり、こうした長距離の山駆けには最適ではないのだと涼も聞いていた。涼は乗馬クラブから借りたアラブ原種の馬で参加した。つまりベドウィンたちが砂漠を走り抜けた馬だ。この馬がもっとも長距離走に向くのだという。涼はベドウィンだった前世のことに想いを馳せながら感慨深かった。

 ロウの日本馬も、アラブの血をひいているのだという。日本が鎖国を解き、西欧諸国に並ぼうと躍起になっていた時代、軍事力を上げるため、さかんに軍馬としてアラブ原種の馬が輸入された。もっとも耐久性に優れ、長距離の過酷なロードに耐えられるからだそうだ。そうして、アラブ原種の馬と日本馬との混血種の馬がたくさん生まれた。


 ロウが、ロウの馬の首を撫でて何事が囁いている。馬がうっとりと聞いているように涼には感じられた。前世でもこんな光景を見たな、と涼は思い出していた。


 競技が始まってすぐ、涼はロウのほうが自分よりはるかに上級者であることを理解した。涼にあわせて馬をコントロールして走ってくれているだけなのだ。涼のほうがよっぽどいい馬なのに、そんなことは関係ないようだ。

 ロウさんのほうが上級じゃないですか、と言うと、当たり前じゃないか、何年生きていると思っている、と笑いながら答えが返ってきた。

 馬で駆けながら会話をすることはほとんどできないが、長い競技時間の間に、ロウと乗馬との出会いは、ロウの昔の友人からだという話を聞かされた。馬主の父親を持つ、お金持ちの家の友人がいたのだという。友人に誘われてロウは乗馬をするようになり、すぐに乗馬の楽しさに取りつかれた。

「今から思えば、前世で何度も馬に乗っていたからスジがよかったんだよな」

 とロウは言っていた。あっという間に馬主の息子であった友人のレベルを追い越し、乗馬クラブでは競技のほうに進むことを勧められたそうだが、ロウにとっては音楽のほうが魅力的で、乗馬競技をすることはなかったという。

 「それでも乗馬はずっと続けていたよ。ここ数年乗っていなかったが、久しぶりに乗馬の楽しさを思い出したな」


 渡米前の最後のエリクサの訪問時、涼はロウと一緒に山を登り、山の王と山の神に挨拶した。ロウは一本角の鹿をなでながら言った。

「涼くんが日本に戻ってくる頃には、おそらく代替わりしているだろうな」

 涼はしんみりと感慨深かった。鹿はまだ威厳を保っていたが、すっかり年老いてきたのがわかっていた。

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