第55話 青藍祭の朝


 翌朝の小桜の目覚めは最悪だった。

 帰ってから両親に一部始終を報告してベッドに横になったが、興奮がすぐに冷めるはずもなく、なかなか寝つけなかった。

 明け方にようやくうとうととし、そして起きぬけに伸びをして、めまいのためにしゃがみこんだ。生まれて初めて献血したのだ。そのための貧血なのか、単なる寝不足なのか、自分の身体がいつもどおりなのか、それすらも今の小桜には判断材料がない。


 青藍祭の準備で、生活が不規則になっていたところへのダメージである。小桜は意識して腰を落とし、自らに活を入れた。この程度のことでは負けない。負けてはならない。「根性」などと自分に言い聞かせるのは、生まれて初めてのことである。


 小桜は学生服を着て、昨日渡されたマントを羽織った。

 朴歯は忘れぬようにバッグにしまう。朝からこんなものを履いたら、自転車は漕げないし、足の指の間に豆ができてしまうかもしれないからだ。



「おはよう。すごい格好だね」

「昭和、戦後すぐという感じかな」

 母と父がそれぞれに言う。

 マントの積み重ねた年月の凄みが、両親にその言葉を言わせるのだろう。


 小桜は生返事をして、朝食の席についた。目の前には2つの目玉焼きと何枚もの焼いたベーコン。トーストの枚数も多い。

 いつもの朝食に出てくる量ではない。


「今日は大変らしいからね、パワーを付けて行きなさい」

 母の言葉に、小桜はありがたくフォークを握る。いつも朝はそれほど食欲が湧かないのだが、分厚いかりかりのベーコンともなれば話は別だ。

 そう言えば……。


「昨夜の、『いろいろあるから、あとで話す』ってのは、どういうこと?」

 小桜の質問に、母は笑った。

「私の叔父、将司は保育園の頃に会ったきりだけど、その人は外科医でね。勤め先は国道1号線沿いの総合病院だった」

「うん」

 小桜は、トーストに目玉焼きを乗せて、かぶりつきながら相槌を打つ。


「東海道の幹線という場所柄、交通事故の救急搬送が多くてね。目の前で起きた交通事故の患者を自分の車に乗せて、救急車をぶっちぎってオペ室を確保したって話を聞いたことがあるのよ。確率的にこっちの怪我人の方が生命が危ないってね。まだ、トリアージなんて言葉が一般的でなかった頃だけど、医者は当然そういうのを考えていたのね。

 たしか叔父は、そういうことは人生で2度あって、2度目は逃げる犯人と追うパトカーの両方をゴボウ抜きしたって言ってた」

「うわっ!

 で、それ、あとで問題にならなかったの?」

 さすがに驚いて、小桜は聞く。


「2台目のパトカーが救急受付まで追ってきたそうだけど、『あとで出頭でも何でもするから、これからこの患者のオペだから今は帰れ!』って言って、その後なにもなかったって聞いた。

 その話を聞いたときに、ついでにいろいろと教えられたのよ。滝のように輸血しながら看護師が馬乗りで心臓マッサージして、胸を押す度に噴水噴き上げるみたいな勢いで出血するのをその場で縫い合わせて止めていくって話とかね。そんなの見せられたら、そりゃ警察だって帰るわ。

 で、病院によっても違うけど、5分以内の輸血、30分以内の輸血、あとなんだったかな……。ともかく、そんな感じで輸血には緊急性が定められているんだって。だからね、30分以内ってのはかなりヤバいわ。だから、急げるだけ急いだ」

「……」

 初めて聞く話に、小桜は相槌を打つ余裕すら失っていた。フォークを握った手も止まっている。


 改めて、世の中は知らないことばかりだと思い知らされる。人生で一番付き合いが長いはずの母からですら、こんな話が出てくるのだ。誰もがいろいろな経験をしていて、その結果どんなことを考えるようになったのかなどと考えると、改めてめまいがするような気分になる。

「そうか……。母さん、ありがとう」

 小桜の口から、自然とそんな言葉が溢れていた。母にこの知識があって、そのお陰で急いでもらえた。いくら感謝してもし足りない。


 だが……。

「アンタに礼を言われる筋合いはない」

 その母の一言は、言われてみればあまりに本質を突いていて、小桜には反論の余地がない。


「そりゃ、そうかもしれないけれど……」

「それとも、そういう筋合いでもあるの?

 恵茉ちゃんと将来の約束でもした?」

「そ、そんなわけないだろ」

 小桜は、一気に追い詰められた気分になった。



 ※

 一瞬で人間がスプラッタ映画みたいになるんですから、交通安全は大切。

 それはもう、本当に大切。

「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」などと言いますがね、信念に殉じるならまだしも、事故じゃあねぇ……。



 母親にいいように追い詰められたものの、たんぱく質と脂には一定の効果があった。

 小桜は、身体の芯の体温が上がる手応えを感じている。

「行ってきます」

 とのあいさつとは別に、心のなかでは「さあ、勝ちに行くぞ!」と雄叫びを上げ、小桜は自転車を漕ぎ出した。背に翩翻と翻るマントがなかなかにいい。これからもマントで通学してみようかと、そんな気になった。まぁ、今も売っているのであれば、だが。


 学校に着くと、まずは教室で出欠の確認である。担任は、小桜のマント姿に、うんうんと頷いた。その目は軽くうるんでいるようにも見えた。

「俺も、昔はそれを身に着けたぞ」

「あ、先生、懐かしいんですね?」

「ああ。青藍祭が終わるまでの間に取り合いで、みんなが1度は身に着けた。大先輩たちの姿だからな」

 言われて気がついた。

 クラスの皆の熱い視線に、である。


「今日はいろいろあってダメだが、明日な」

 小桜の声に、一様に皆頷いた。



 出欠のあとは、生徒会室に顔を出さねばならない。

 だが、まずはその前にと、小桜は人気の少ない理科室前の廊下まで移動し、恵茉に電話を掛けた。

 病室にいたら電話に出ることはないだろう。だが、着信記録だけでも残せば、父親の容態を知らせてくるに違いない。やはり、当然のこととはいえ心配なのである。


 だが、あっさりと恵茉は電話に出た。

「小桜さん、昨日はありがとう」

「容態はどんなもん?」

「今、それを伝えようと、スマホ使っていいところまで移動したところだったんだよ。容態は変わらない。あ、悪い意味じゃないよ。容態は安定していて、この状態が1時間でも2時間でも続けば、それはそのまま回復を意味するって先生から言われた。

 麻酔はもう醒めている時間だし、昏睡から醒めて意識を取り戻せば、それでもうほぼ心配はないって。出血は多かったけど、怪我自体が単純だったので、機能も失わないだろうし、回復にも長い時間は要しないだろうって」

「……よかった」

 一気に話す恵茉に、小桜は安心の意を伝える


「小桜さん、これから大変なんだよね。父が意識を取り戻したら、すぐに行くから」

「無理すんな」

 小桜はそう恵茉を押し止める。


「いいえ、これはこれで私の問題でもあるから。政木女子高が共学化なんてされてたまるもんですか。そのための戦いの現場だもん。見届けに行きたいよ」

 恵茉の言葉に、「なるほど」と小桜は思う。

 当然、小桜のためだけに来るわけではないのだ。だが、それはそれで、小桜は恵茉に対し、同じ目的を持つ同志としての一体感を強くした。


「じゃあ、無理してでも来いよ」

「うん」

 小桜の言葉に、恵茉は頷いた。



 ※

 さあ小桜、この問題については振り返る必要はなくなった。

 前を向け。そして、自らに課せられた任務を果たせ。

 次話、「腕を撫し、待ち構える」。いよいよ敷間高の連中が来る。

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