第53話 S.O.S.


 いよいよ明日から青藍祭。

 どうなるかわからないにせよ、明日は戦わねばならないことだけはわかっている。小桜は学校に泊まり込むことは止め、自宅に帰った。しっかり食べ、しっかり寝る。これこそが戦いの前日に必要なことだ。


 小桜は受験についても同じように考えている。つまり、試験の始まる寸前まで単語カードを繰る者もいるが、それは無駄という考えである。脳が疲れていたら、そしてその脳を支える肉体が疲れていたら、戦いなどできるはずがない。試験とは、記憶力だけを問われるものではないのだから。


 母親には早めの夕食を頼んでいる。さっさとシャワーを浴び、「仕事が忙しい」とか、「今日は、敷間で結構大きい事故があったんだよ」などと話しかけてくる母親に生返事を返し、小桜は用意された食事を完食して自室に寝に戻った。敷間市で事故があったにせよ、敷間高に問題がなければ小桜の予定に変更は生じない。


 ベッドに横になり目をつぶる。逸る心を押さえつけ、睡眠の淵に心を誘う。メリノ種の羊を37まで数えたところでスマホが鳴った。

 恵茉からである。

 明日のことについて、なにか情報があるのかもしれない。小桜は、通話ボタンをタッチした。


「……小桜さん!」

「どうした、坂井さん!?」

 恵茉の声は、蒼白な顔色を連想させた。

 小桜は、即座に問い返していた。


「本当にごめん。本当に本当に……」

「だから、どうした?

 らしくないぞ。落ち着け」

 恵茉は、小桜の声を聞いてさらに取り乱したようだ。小桜は、あえて厳しい声を掛ける。


「AB型だったよね。明日、体力を使うのはわかっているけど、だけど、ごめん、血をください」

「だれか、交通事故かなんかに巻き込まれたん?」

「父が、父が……。うちは、家族全員の血液型が違っていて……。今日はたまたま敷間の事故で病院の血液も足りなくて……。30分以内にお願いできそうな人は、もう誰もいなくて……」

 言葉の後半は、泣き声になっていた。


「すぐ行く。病院はどこだ?」

「市の総合病院」

「そこのどこに行けばいい?」

「救急受付」

 そこまで聞いた小桜は、恵茉への返事もせずに通話を切り、そのまま自室を出た。


「母さん、車出してもらえないか?

 坂井さんの父親が事故で、AB型の血が至急欲しい、と」

「どこ?

 病院は?」

「市の総合病院、救急受付、30分以内」

「すぐ車に乗りなさい」

 母親は机に広げていた仕事の続きを放り出し、車のキーを手に取った、



 ※

 ナレーター役、共通テストの前日に、コレを経験しました。

 病院に向かう途中で不要ということになりましたが……。ああ、足りたという意味で、もう必要でなくなったという意味ではありません。

 事故は、そしてそれが重なるのはつくづく怖いです。



 夕方なので、街から出る車線は混んでいるものの、街に向かう車線は空いていた。小桜の母は、躊躇いなくアクセルを踏んだ。軽自動車とはいえ、時速100kmを超え、ほぼ暴走状態である。母親は右へ左へこまめに車線変更を繰り返しながら、他の車をぐいぐい追い抜いていく。

 だが、焦りに支配された小桜には、恐怖を感じる余裕もなかった。


 病院が近づくと、救急車のサイレン音が聞こえてきた。

 おそらくは、別件の患者を運んでいるのだろう。小桜が仰天したのは、母が構わずその救急車を抜き去ったことだ。助手席から小桜は、救急車を運転する救急隊員の驚きの表情を確かに見た。


 そして、救急車を従える形で病院の駐車場になだれ込み、そのまま救急受付の脇に車を止める。小桜は車の車輪が止まらぬうちに転げ落ちるように飛び出し、病院の中に駆け込んだ。


「坂井さんへの献血者、来ました!」

 小桜が叫ぶと、すぐに看護師が「ついてきてください」と、小桜を誘導する。

 その後ろで、救急隊員がストレッチャーで自分たちの患者を運び込んできた。


 小桜は看護師に続いて小走りに走り、手術室の前に着く。そこでは、制服のままの恵茉と顔だけは知っている恵茉の母親がおろおろと立ち尽くしていた。

「こちらへ」

 視線だけ恵茉と交わすと、小桜はすぐに前処置室に案内され、そこの簡易ベッドに横になるよう指示された。

 恵茉から電話をもらって15分以内、病院に駆け込んでから1分と経たず、小桜の腕に注射針が突き立てられた。


「ありがとうございます。早かったですね。通常、生血は使わないので、私たちもこういうのは久しぶりなんですよ」

 ここでようやく、看護師が小桜に話しかけた。

 そう言いながらも、その手は慌ただしく小桜の腕から抜き取られつつある血液を、検査用のサンプルチューブに分けている。


「連絡を受けて、ぶっ飛んできました。坂井さん、大丈夫ですか?」

「太い血管が破断しちゃってショックを起こしているから、すぐに対応しないとね。だけど、怪我自体は単純だから、傷口が塞げて血圧さえ戻れば……」

「俺、肝炎等の感染歴はありません。極めて健康体です。俺の体重は65kgなんで……」

 小桜の頭に式が浮かぶ。


 65÷13÷3.3=……。


「1.5リットルくらいは抜いても平気なはずですから、どんどん抜いて……」

「次の人も来てくれるらしいから、大丈夫。気持ちだけもらっておくから」

 看護師はそう言って、小桜を安心させるように微笑んだ。


 小桜は頷いて目を閉じた。

 もう小桜にできることはなにもない。ここの医療スタッフにすべてを委ねることしかできないのだ。

 なら、リラックスし、少しでも早く血液を抜いてもらうことだ。


「血液型適合確認。交差適合試験、クリアです」

 どこからかのその声とほぼ同時に、小桜の腕から針が抜かれ、血液バッグを持って看護師が走っていく。

 身体を起こそうとする小桜を、別の看護師が止めた。

「少しの間、横になっていて」

「はい」

 小桜は素直に頷く。


 恵茉と話したいし、母は救急隊員に怒られているかもしれない。だがこの場で、医療スタッフに迷惑は掛けられない。素直に言うことに従うのが、最良の選択のはずだ。

「ほら、これを」

 そう言われて、小桜は渡された紙パックのジュースを飲む。ストローはすでに挿されていて、首を起こす程度で飲むことができた。


 飲み終えて、思わずため息が出た。

 自覚していないまま、結構強く緊張していたらしい。

 手術中に「絶対助かる」とも言えないだろうが、看護師の口ぶりからは、手当さえ上手く行けば生命に関わる可能性は低いように感じられた。

 小桜としてできることは、もう祈るだけである。


 10分後、小桜は簡易ベッドから足を下ろした。

 上半身を起こすが、特にめまいなどはない。

「失礼します」

 忙しそうな看護師の背中にそう声をかけ、小桜は前処置室から出た。



 ※

 さてさて、突然の事件が割り込んできたのだ。

 これがどう影響するのか……。

 だが、なにがあろうと気迫と心遣いは見せろ。

 次話、「割り込み処理終了」。小桜、頼り甲斐を見せる。

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