第23話 再びの東京散策2
小桜は思い返していた。
恵茉は成績が良く、なんでもよく知っていた。
その恵茉が知らない知識に戸惑い、それを得たときの喜びの表情は滅多に見れるものではなく、それはそのまま小桜の喜びになっていた。その表情が見たいがゆえに、「産まれたての鳥の卵は柔らかい」などというホラまで吹いたのだ。
そんな自分の心情が、初めて無意識の深みから浮かび上がり、認識とともに納得として心にすとんと落ちていた。
だが、小桜は葛藤する
これは、意地悪く取れば、「恵茉を喜ばしている自分が好き」と言えるかもしれないからだ。なにしろ中学時代、自分以外の誰も恵茉にこの表情をさせられなかったのだから。
とはいえ、恵茉のことを自己満足のために利用しているだけだとも言い切れはしない、とも思う。小桜が、恵茉のこの表情が好きなのも真実だからだ。
「わぁっ」
再び恵茉が感嘆の声を上げ、小桜は現実に引き戻された。
江戸城のお堀にたどり着いたのだ。
その規模はあまりに大きく、小桜と同じく向こうには渡れないという実感を抱いたのだろう。地図で調べた小桜は、堀の幅がこの辺りでも60mはあることを知っている。地元の政木城の堀の幅は7、8mしかないのだから、初見の恵茉がその規模の差に驚くのは当然と言えた。
2人は堀に行き当たったところで左に折れ、堀沿いを歩く。
時間帯がまだ朝とはいえ、土曜日のためかジョギングしている人もいて、2人を軽々と追い越して行く。その度に小桜は恵茉の後ろに回って、その人たちがストレスなく走り抜けるだけのスペースを確保する。恵茉も、その度に軽く歩速を上げて前に出る。小桜は恵茉の長い髪と小さい背中を見ながら、息のあった協同ができていることに心がざわめいていた。
※
恋に落ちるとは、数学記号で書くとこうなるのだ。
近いところにいる⊃息が合う⊃切っ掛けの存在
さあ、残すはこの「切っ掛け」だ。
そして、恵茉から見ての切っ掛けとは……。そもそも、存在しなかったらどうしよう……。ぬぬぬぅ。
日比谷公園が近づいてきて、堀は直角に曲がるがその幅は変わらない。そして、桜田門まで見通した堀はあくまで広い。
「……これ、一体全体どんな規模!?」
「そう思うだろ?
このあたりはまだ狭くて、広いところでは幅が115mもあるらしい」
恵茉の感嘆に小桜は応じる。
「当時のことだから、重機もトラックもない。もっこで担いで歩いて往復して、ここにあった土を運んだんだよね?」
恵茉の問いに小桜は答える。もうすでに何度も考えたことだからだ。
「だと思う。一往復で2人で50kgの土を運んだとすれば、1日20往復しても1tしか運べない。2000人が働いて1000t。でも、1000tの土砂なんて、この規模の土木工事なら大した量とは言えない……」
小桜の答えに、恵茉はつくづく呆れたという顔になった。
「たかだか10m×10m×10mで1000tの重さになっちゃうもんね。で、土砂は水よりは重いだろうから、もっと少しの体積しか運べない……。
なのに、115mって……」」
恵茉の言葉に、小桜は小桜で感動を覚えていた。先行して小桜が独りで考えていたことを、恵茉が正確にトレースしてきたからだ。
「そう、そのとおり。江戸は埋め立てで作られた街だっていうけど、そのための土にするにしたって、運べば運ぶほど運ぶ距離は増えるんだよね」
小桜の言葉に、恵茉は頷く。
「そうだよね。そして、運ぶ人が2000人いれば、それぞれが食事して排泄して、寝るところの面倒も見て、さらにそれらの人たちをマネジメントする人間も必要だから、動員人数は1.5倍ぐらいにもなるかもね。実際は運ぶ人が1万人いたという話になれば、その辺りの負担はさらに増すし……」
今度は、恵茉の言葉に小桜が頷く。
自分が考えていたことより鋭い考察を、恵茉が語ったからだ。
「徳川家康、恐るべし、だなぁ。こんなの、教科書みていても実感なんかできなかったよ。天下統一なんて言葉も習ったけど、その具体的に意味もここで始めて見た気がする。天下人になるとここまでの大事業が可能になるし、安土桃山時代でもこれだけのことができる国富があったんだねぇ」
恵茉はさらに興奮気味に言葉を続ける。小桜は無言でその横顔を見つめた。
「来て、見て、よかっただろ?」などと聞くのは押し付けがましくて避けたかったからだが、やっぱり聞いてはみたいのだ。「来て良かった」という言葉を聞き、安心させて欲しいのである。
恵茉の喜びの表情が好きで、好きだからこそ、この表情を自己満足に利用しているという自らの疑惑から逃れたいのだ。
もっとも、恵茉の反応に作った風は見えない。自国に対してカルチャーショックを受けていることに間違いはないし、来たことを後悔はしているはずもない。
「あのレンガの古い建物は?」
恵茉が、道を挟んだ反対側を指差す。
「法務省。明治時代のもの」
「……うわ」
「道を挟んで警視庁、そして堀側が渡って桜田門」
「ああ、サスペンスドラマで桜田門って呼ばれているのがここかぁ……。あっ、国会議事堂が見える」
「テレビでは毎日のように見るけど、実物を見るってあんまりないよね」
小桜の言葉に、恵茉はこくこくと頷く。
「中学の時の修学旅行も、京都だったしね」
「うん。京都でもいろいろ見たけど、今回歩いて、東京も本当にすごいよ」
恵茉の声は弾んでいる。
中学の時の修学旅行は、何班かに分かれての自由観光の日があった。男子と女子で分かれての班編性になってしまったから、小桜は恵茉と行動をともにしていない。だから、恵茉は小桜の見ていないものを見ているはずで、そこに一抹の不安を抱いていたが杞憂で済んだようだ。
「新聞部なんて言っていても、私、いろいろなことをぜんぜん理解していなかったなぁ。小桜さんがショックを受けたっていうの、本当によくわかる。テレビとかでも見た風景だというのに、実際にはこんなに大きいものだったとはね……」
あの、桜田門の方に行ってもいいかな……」
「当然。ただ、このまま真っすぐ500mくらい進んで最高裁まで行って、戻りながら桜田門を見た方が動線に無駄がないんだけど……」
「じゃ、そうする」
恵茉は、小桜の言った案をそのまま受け入れた。
道は緩やかに上り、江戸城は石の城から土の城へ趣きを変えていく。
そして、恵茉はふたたび堀を見下ろして「うわぁっ」と声を上げた。
「……掘る量がさっきとは桁違いすぎる。地形が変わっているよ。これが江戸幕府なんだね……」
「ほら、大仙陵古墳とは違う驚きがあるだろ?」
「うん、小桜さんの言っていたことも、これを見せたいって気持ちもよくわかったよ。すごいとしか言いようがない……。
……これだけの城があるのに、なんで幕府は薩長に負けたんだろうね」
恵茉の問いに、小桜はくすくすと笑う。恵茉は、またもや自分と同じ疑問を持っている。
同時に、恵茉の知識欲に興奮した顔にいまさらながらに見惚れる。
今日は恵茉のこの顔が見放題で、至福の小桜なのである。
「じゃあ、そろそろ桜田門に戻ろうか」
小桜の言葉に、恵茉は頷いた。
※
つまり……、小桜は恵茉の気を引く方法論を確立したと言えるのだ。
実はかなり茨の道ではあるのだけれど。
それでも、小桜、君はその道を行くのだろうな。
次話、「再びの東京散策3」。飯食って、次行くぞ、次!
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