第22話 再びの東京散策1


 あっという間に、その日は来た。

 小桜は、今回の東京行に恵茉と行くのは親に話していない。後ろめたいことはないが、なんとなく話しにくかったのだ。

 一方で、小桜はいつものとおりに家を出るが、それだと恵茉は一時間以上家を出るのが早くなることになる。「それで構わない」と恵茉は言ったが、それは彼女が彼女の親に今日のことを話しているからなのかどうか、小桜には知る由もない。


 ただ、地元の駅の改札で恵茉を見つけたとき、早朝にも関わらず小桜の血圧は一気に上がった。恵茉本人を目の前にして、夢でも見ているのではないかと疑う気持ちが抜けない。一緒に東京まで行くというイベントが実現したのが、この期に及んでも信じられないのだ。


「おはよう」

 と軽く声をかけるが、それ以上は周囲の目もあるので無言である。なんせ、ここはまだ地元過ぎる。小桜と恵茉が認識していない知り合いから見られている可能性は否定できない。同じ町内の年寄りなんて、こちらは誰が誰だかまったく認識していないのに、向こうはこちらをよく知っていたりするのだ。

 とりあえず、話し込むには街に出て、東京行きの電車に乗り換えてからだ。


 小桜は、無駄遣いする質ではない。

 だから、お年玉などで貰ったものは相当額貯金してあった。今回はそれもみんな持ってきている。

 通勤快速のグリーン券を買ったのもそこからだ。恵茉をラッシュで揉みくちゃにしたくないというのが最大の理由だが、通勤快速のグリーン券の価格が高くなかったというのも大きい。


 始めて足を踏み入れるグリーン車は静かで、二階建て客車の上に登ると席はがらがらに空いていた。その一つ一つの席も大きく余裕がある。隣り合った2席が中央の廊下を挟んで2列、そしてそのすべてが前を向いている。

 つまり、小桜と恵茉は並んで座ることになる。


 小桜にとって、異性と並んで座るなど、初めてのことである。

 空いているから別れて座ってよかったのかもしれない。だが、グリーン車は席を自分で指定して座ることになるので、混んできたときのことを考えれば別れて座ることも躊躇われた。


 ※

 もちろん、各駅停車のグリーン席は好きなところに座れるし、好きなときに移動もできる。だけど、初めて乗った2人にその知識はないのだ。

 今回、その知識のなさが2人にとっては……。

 吉だよね、吉になったんだよね?

 と、いうことにしておこうではないか……。



 恵茉に窓際を譲り、通路側に座った小桜は、予想外の恵茉との距離の近さに頬から耳までが熱くなった。2席の中央の肘掛けにも触らないくらいに身を離しているのに、それでも近いのだ。思えば、並んで座る以前に、30cm以内に女子がいるということ自体が初めての経験である。


 肩と肩は、10cmくらいしか離れていないのではないか?

 いや、8cmぐらいしかないかもしれない。5cmよりは近づかない方がいいよね?

 と、動転して、距離の数値ばかりが気になっている小桜である。距離をきっちり把握しておかないと、気を抜いた瞬間にむき出しの前腕同士が触れ合ってしまう。夏で半袖なのだから、当たり前のことだ。

 だが、それを想像するだけで、再び耳が再加熱される小桜なのだ。


 2駅を過ぎて、ようやく恵茉の髪を束ねているのがバレッタで、着ているものが涼し気な白い上着と淡いピンクのスカートということに小桜は気がついた。恵茉は座った足の上に小さなバッグを置いているのだが、その先に膝が見えていることに気がついたのだ。

 つまり、それまで恵茉をまともに見ることすらできていなかったということになる。


「東京駅で降りマス」

 なんとかそう恵茉に話しかけた小桜は、見下ろした視界に恵茉の長いまつ毛を見つけて再び耳が熱くなるのを感じた。これでは、まともに顔を見て話すこともできない。さすがに、情けないにもほどがあると自覚が追いかけてくる。


「そうだね。少しでも涼しいうちに歩くコースは済ませてしまって、暑い時間帯は美術館なんかどうかな?」

「いいところ、ある?」

 恵茉の提案に、小桜は聞き返す。相変わらず頬のあたりが熱いのが、自分で許せない。


「入光美術館で仙厓の絵を見たいな。こういうの。お堀端だから、近いよ」

 そう答えた恵茉は、スマホでその仙厓の絵というのを小桜に見せる。

「あ、これは可愛い」

 小桜の口から、思わずそんな感想が漏れた。

 水墨画でありながら、一見稚拙とも思える絵がスマホの画面に映し出されている。だが、見れば見るほど可愛いとか稚拙だとかの言葉では表せないものがあるのがわかる。なにか、とても深いものを感じさせるのだ。


 そして、その仙厓の絵は、小桜にいくらかの冷静さを取り戻させた。

「たしかにこれは、ちゃんと見たくなるね」

 小桜の言葉に、恵茉は頷いた。

「小桜さんも、案があるんでしょ?」

「浜離宮で池の真ん中にある涼しい茶室でお抹茶を頂いて、そのあと浜離宮発の水上バスで浅草までクルージングしてもいいかなって思っていた。浅草から上野までは銀座線で1本だし。

 でも、俺も仙厓の絵を見たいなぁ」

 小桜の感情のこもった声に、恵茉はくすくすと笑った。


「入光美術館、規模が大きいわけじゃないから、そう時間は掛からないと思うよ。江戸城を見てからの時間配分で、いろいろ考えればいいんじゃない?」

「うん、そうだね。あんまりに暑かったりしたら、また判断も変わるしね」

 小桜の返事に、恵茉は再び笑う。

「やっと、いつもの小桜さんになったね」

 そう言われて、小桜は再び頬に血を上らせていた。



 東京駅で電車を降り、人混みの中を歩く小桜は、恵茉とはぐれないためにこまめに振り返る。だが、それはあまりに危険でもあった。人混みというだけでなく、床の段差も多いからだ。

「小桜さん、きちんと見失わないで付いていくから、振り返らずに歩いて」

 恵茉にそう言われて、小桜は前を向く。

 だが、否が応にも、「見失わないで付いていく」という言葉を反芻せざるをえない。言葉どおりの意味しかないのはわかっていても、だ。


 小桜は普段の8割ほどのスピードで歩き、恵茉の足に負担が掛からないようにする。だが、手をつないで恵茉をエスコートするなど、今の小桜には到底思いもよらない。

 それでもなんとか無事に駅の改札を抜け、丸の内北口のドームを見上げた恵茉は「わぁっ、綺麗」と、思わず声を上げていた。

 これだけで、小桜の心は軽くなっていた。恵茉がこの1日で、たくさんのものを得たと実感してくれれば、それで小桜の目的は達成できたことになる。


 そして小桜は、恵茉の喜びの表情に見惚れている自分を図らずも発見していた。

 自分は、恵茉のこの表情が見たくて、中学校の時からいろいろと語ってきたのだ、と。


 ここへ来る電車の中でのどきどきとは違う。あれは、女子が近くにいたから、どきどきしたのだ。恵茉でなくても、きれいな女子が横にいたらどきどきしたかもしれない。

 でも、今の感情は相手が恵茉でなければ起きないものだ。小桜は、それに気がついたのである。


 ※

 この気付きは、小桜を冷静にする。のべつ幕なしに上気している自分が、女子ならだれてもいいと思っている証拠だなんてこと、許せるはずがないのだ。

 さあ、小桜。一日は始まったばかりだ。

 どう過ごし、どう自覚し、どう話すのか。

 次話、「再びの東京散策2」。一生忘れない一日を悔いなく過ごすのだ。

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