第3話 名刺
七月五日 午前二時三十七分
「モッチー、冷やし中華ってある?」
「冷やし中華は始めませんよ」
「だよね」
「生ハムとブロッコリーでバジルソースの冷製パスタなら作れるけど」
さすがにオーセンティックなバーに冷やし中華は無いだろうとは思ったが、やっぱり無かった。当たり前か。
あの事件以来、望月には連絡すら出来なかったが、午後十時過ぎに望月から来店を要請された。
「松永さん、疲れてるね」
「無理もないっしょ」
望月は事件について何も聞かない。
加藤の一件については、ここの所轄と話は通してある。形式的な事情聴取はあったが、それだけで終わっている。
「笹倉さんはお変わりなく?」
「……連絡してない」
「えっ……」
望月は俺が優衣香と会えないどころか帰宅すら出来ないことを知っている。
空いたグラスを下げ、モヒートジンジャーエールをコースターに乗せた望月は俺に視線を向けたが、俺は目を合わせられなかった。
「石川さんは?」
「……どうかな」
事件があった日、望月は『三年ぶりに石川さんが来店した』と言っていた。元々は石川さんがこのバーに来ていて、ハードダーツが出来るからと優衣香を誘ったそうだ。
「石川さんと須藤さんは知り合いなの?」
――珍しいな。
「何よ? 何が聞きたいの? 俺を呼んだのはその話?」
望月は視線を俺の左後ろに移した。
そこはボックス席の袖壁一面に客の名刺がピンで刺してある場所だ。
俺はカウンターチェアから降りて名刺を見ると、石川さんの名刺があった。
「石川さん、役職が上がるたびに新しい名刺をね、置いていくのよ」
壁の真ん中あたりに石川さんの名刺があった。総務課の課長代理、か。
「今度、本社勤務になるんだって」
――望月は何を言いたいんだ。
俺と望月は目を合わせたまま、しばらく黙っていた。俺は望月の次の言葉を待った。だが、望月は何かを言いあぐねているように思える。
しばらく沈黙が続いたが、観念したように視線を一度落とした後、意を決したように望月は口を開いた。
そして、思わぬ言葉を聞いた。
「石川さんの名刺の右側を覆ってる名刺の男は、
俺は望月が何を言っているのかわからなかった。最近消えた男とは吉原絵里の男のことか。それとも他の人間のことを指しているのか。
望月は俺の情報提供者だったが、八年前に関係は終えている。今の関係はあくまでもプライベートの付き合いだ。
思考がまとまらないまま望月を見ると、大きく息を吸った望月は、カウンターに両手をついて、俺の目を見ずに言った。
「男の名刺を刺したのは女です。『石川奈緒美さんは恋人とよく来るの?』と聞かれました」
――吉原絵里か。
「どんな女よ?」
「動画と写真があります」
望月はカウンターの下から茶封筒を取り出し、カウンターに置いた。
「背が高くて痩せてて、髪の長いかなりの美人。四十前後かな」
俺は席に戻り、封筒から中身を取り出した。
写真に写るのは、やはり吉原絵里だった。
望月は続ける。
元々、吉原絵里の男は望月の知り合いで、四月に吉原絵里を連れて来店したという。
だが昨夜に一人で来店した吉原絵里は男とは別れたと言い、石川さんの名刺の横に名刺を刺し、石川さんのことを訊ねたと。
「あの時、須藤さんがずっと石川さんの手を握ってたから、恋人関係なのかなと思いまして」
吉原絵里の男は、『自分が消えたら望月を頼れ』と伝えていたという。
「
「ここにも?」
「ええ。実はね、奈緒さんと葉梨さんが初めて二人で来た時にいたんですよ」
昨年十一月末のことか。
望月は、たまに二人で来る男を覚えていたが、加藤と葉梨が来店し、背が高い方の客が加藤を見た瞬間に動揺したことから違和感を覚えたという。加藤を知っているのなら警察かと思ったが、態度はいつまでも客だったから望月は何もしなかったと。
「俺から須藤さんにお伝えした方が良いですか?」
「いや、何もしなくて、いい」
望月の目を見る。
意図は通じたようだ。望月は頷いた。
「冷製パスタは、お作りします?」
「今日はもう帰る」
「かしこまりました」
俺は会計を済ませ、バーを出た。
◇
午前三時十二分
バーを出て捜査員用のマンションに戻ろうと歩道を歩いていると、脇道から出て来た男が俺の前に立ちふさがった。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
――なんだその頭は。
コーンロウの藤川充さんだった。
黒いTシャツにベージュのストレッチパンツを履いてる。スーツの時はあまり感じなかったが、ずいぶんと体を鍛えているようだ。Tシャツ越しに筋肉の隆起が見える。だがなぜコーンロウなんだ。
「コーンロウ、ですね」
「ああ。やってみたかったんだよ。髪切る前にね」
「そうですか」
「で、吉原絵里に動きがあったんだろ?」
――望月のバーへ行ったのは把握してるんだ。
石川さんのマンションの上階に借りた部屋は既に契約を取り止めていて、吉原絵里は海っぺりのマンションに居住したままだ。
俺たちは部屋の監視のみをしているだけで、行動は追っていない。
「何があった?」
「吉原絵里は、『石川奈緒美さんは恋人とよく来るの?』と望月に聞いたそうです」
「……そうか」
藤川さんも捜査員用のマンションに行くことになり、俺たちは横並びで歩き出した。
「最初ね、
「そうだったんですか」
「玲緒奈さんはさっさとやれって言ってたけど」
――あのモンスターめ。相変わらず容赦ねえな。
「須藤は吉原絵里を忘れられないんだろ。あいつ、別れた嫁も、しばらく見てたようだし」
「そうみたいですね」
「男って、弱いな。ふふっ……」
藤川さんは口元に笑みを浮かべ、薄暗い歩道の先を眺めながら、藤川さんはさらに続けた。
「なあ、女、紹介してよ」
――いきなり何を言い出すんだよ。
「えっと、真面目なお付き合いか、遊び、か。どちらで?」
「遊び」
「お好みは?」
「背が高くて、痩せてて、髪の長い美人」
「そんなあなたに吉原絵里!」
「俺もさ、今、自分で言っててそう思ったよ」
藤川さんと顔を見合わせて笑い、前方に視線を戻した時だった。二十メートル先に見覚えのある男がこちらに歩いて来るのが見えた。
藤川さんも気づいたようだ。
「岡島、か?」
「そうですね」
岡島は俺たちにハンドサインを送っている。話がある――。
岡島の表情は固い。何があったのだろうか。
昨日の午後、岡島が事務所へ来た時は黒のスラックスに白の半袖ワイシャツ姿だったが、今はベージュのストレートパンツに黒いTシャツで、黒いキャップを被っている。ベストも着ていて、『ザ・捜査員』の格好だ。
「お疲れさまです」
走り寄った岡島は藤川さんの隣に並び、俺を見た。二人は同じ背丈で同じ格好をしているが、藤川さんと並ぶと岡島はムッチムチだ。
岡島も同じ格好だと気づいたのだろう。藤川さんを見てお互いに笑っている。
「岡島さ、また太ったろ?」
「触ります? 揉み心地いいですよ?」
「ふふっ……」
藤川さんは少し離れて、岡島の腹を見て笑っている。そんな藤川さんの体に手を伸ばして腹筋や大胸筋に触れ、驚いている岡島は楽しそうだ。
だが俺をちらりと見た岡島は口を開いた。
「飯倉から連絡ありまして、助けて欲しい、と……」
――何があったんだ。
藤川さんは鋭い目線を岡島に向けた。
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