第5話 母の眼差し
午後十一時三十四分
捜査員用のマンションに戻って来たのは加藤奈緒だった。
マンションへ戻る途中に買った品をテーブルに置き、中山陸へ月餅を渡している。
「チキンスープ美味しいですよね」
「これってモッチーが作ってくれたやつでしょ?」
「そうです。後で両手鍋を返して来ます」
「ごめんね、迷惑かけて」
「いいんです。私だってご迷惑おかけしましたし」
松永玲緒奈はキッチンからアイスを三個持ってリビングにいる二人の元へと来た。
「小豆のアイスと高級アイスと普通のアイスがあったよ。ウチなら取っ組み合いのケンカになるわ」
「んっふ……中山さんは高級アイスで」
「いいよ、俺は普通のアイスで」
「だめよ。高級アイスは諒ちゃんが買って来たやつだから陸が食べなさい」
「……はい、すみません、頂きます」
「奈緒ちゃんは普通のアイスね。私は小豆のアイスにするからここに置いといて」
そう言った松永玲緒奈はリビングを出て行った。
◇◇◇
午後十一時三十七分
母との電話を切った後、バーに入ろうとした時にプライベート用のスマートフォンにメッセージが届いた。優衣香からのメッセージだった。
位置情報も添えられたメッセージは、午前零時十二分の信号サイクルを確認するとあり、今は望月のバーにいるという。
――あれ。今、岡島と飯倉がいるはずだけど……。
飯倉と優衣香は面識がある。
マッチョしかいないジムで会っているが、優衣香は嫌悪感丸出しで飯倉を嫌っていた。確か飯倉は警察官だとは伝えていないはずだ。大丈夫かな。
そんなことを考えながら、藤川さんと須藤さんが待つバーの二階に上がった。
二人は背もたれの高い半個室のようになっている半円形のソファ席に隣合って座り、藤川さんは須藤さんの耳元で何かを話している。
須藤さんは俺を一瞥して視線を藤川さんに戻すと、何か話し出した。
俺は二人に行き着くまでの間に店内を見回した。前回同様にバーテンダーはいない。階段側に接するソファ席は二つ。二人がいるソファ席は窓際だ。
俺はゆっくりとそのソファ席へ向かったが、二人の正面に女がいることに気づいた。
テーブルに置かれた色白な左手、薬指には結婚指輪とダイヤの立て爪リング、銀色の腕時計、腕の中ほどには黒地に小さい花柄の袖が見えた。
背もたれに隠れていて姿は見えないが、女を前にする須藤さんと藤川さんは緊張しているようにも見える。
ソファに近づいた俺に須藤さんは「座れ」と言うだけだった。俺は女の隣に座るのかと思った時、女の姿が見えた。
「あら、久しぶりね、敬志。元気だった?」
女はそう言って、クラッシュアイスを詰めたグラスに注がれた琥珀色の液体を口にした。
「お母さん……」
「なによ? お母さんは夜遊びしちゃいけないの?」
「……そうじゃなくて」
――なんでお母さんがいるの。今さっき電話したのに。おやすみって言ってたのに。『お母さんねー、十時まわると起きてられないのよー、朝も五時前には目が覚めちゃうしー、もーやんなっちゃうわー』とか言ってたのにバッチリ化粧してお洒落して酒飲んでるじゃないか。ここにいるなら電話する必要なかったじゃないか。もうっ。
俺は母が座るソファ席の前で立ち尽くしていた。母は俺を見て愉快そうに笑っている。その笑顔を見てわかったことがある。
――ここは、母の息がかかってる店だ。
そして須藤さんと藤川さんのどちらかが引き継いでいる。おそらく藤川さんだろう。
俺は母の隣に座り、二人を見た。
須藤さんはさっきまでの緊張感はどこへやら、藤川さんと穏やかに話している。母はそんな二人を微笑みながら眺めた後、視線を俺に向け、二人に言った。
それは俺の心臓を跳ねさせるのに十分な言葉だった。
「岡島直矢と加藤奈緒で、いいわよ」
母の隣に座る俺に向けられる二つの視線は、全く別のものになっていた。母の視線は俺を見透かし、須藤さんの視線は俺を見ていなかった。
◇
午後十一時五十分
母を見送りに一緒に店を出た。
なぜ、優衣香と一緒に石川さんも実家に行くのだろうか。どういう経緯で行くことになったのか。母と石川さんが会う理由は何なのか。
母に聞けば良いだけだが、聞けない。
「ふふっ、須藤くんの恋人のことが気になってるんでしょ?」
「はい。そうです」
母は今でも警察官の妻としての立場を崩さない。自分の母でありながら、何を考えているのかわからない時がある。
「須藤くんは別れるつもりだったけど、お付き合いを続けることになったそうだから、どんな方か知りたいだけよ」
――それも把握しているんだ。
「そうですか」
「須藤くんは彼女と結婚する意志は無いようだけどね。念の為よ」
母のその言葉の奥には、まだ何か真実があるように思えた。母は俺のそんな思いもお見通しのようで言葉を続けた。
「警察官と結婚しちゃだめだもんね、ふふっ」
優衣香ちゃんね、昔、お義母さんから『警察官と結婚しちゃだめだよ』って言われたんだって――。
そうだ。母は優衣香にそう言ったと玲緒奈さんから聞いていた。だが母は『警察官の妻で幸せだった』とも言ったという。
「お母さん、あのさ……」
「ん? なに?」
「優衣ちゃんが警察官の奥さんになってもいいの?」
「もちろん」
「どうして?」
「優衣香ちゃんの夫は絶対に生きて帰って来るから」
母は俺を真っ直ぐに見て微笑んだ。その目は、優しい母の目だった。
◇◇◇
午後十一時五十一分
捜査員用のマンションの玄関で、両手鍋を手に持った加藤奈緒が靴を履いていた。
黒いストレッチパンツにライトイエローの麻のシャツを着て、白い小さなトートバッグを肩に下げている。
加藤は振り返り、見送りに出た中山陸の肩越しに洗面所から聞こえるドライヤーの音を聞いた。
「望月さんのバーで葉梨と食事して来ますね」
「うん。気をつけて。ごめんね、迷惑かけて」
「んふふ……いいんです。では行って来ます」
加藤奈緒を見送った中山陸はドアに施錠し、小さく息を吐いている。
その時、洗面所のドアが開きシャワーを浴びた松永玲緒奈が出て来た。
「ん? どうしたの?」
「ああ、加藤が両手鍋を返しに行きました」
「そうなんだ」
「葉梨と落ち合うようです」
「……そう」
松永玲緒奈の目が動いたことを見た中山陸は口を開いたが、松永玲緒奈が先に言った。
「小豆のアイス、食べなきゃ」
口元を緩ませているが鋭い目線を送る松永玲緒奈に、中山陸は口を閉じた。
二人はリビングへと行った。
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