第7章

第1話 ベイサイドファクトリー

 夜が近づいている。


 高層タワーマンションが林立する中央区のベイエリアを走る黒いワンボックスカーを、松永敬志が運転していた。

 助手席に座る須藤諒輔は無言で前方を見つめているが、二人は緊張し、どこか苛立っている。


 昼過ぎから降り出した雨は急速に激しさを増した。

 ヘッドライトの灯りに照らされた道路はほとんど見えない。フロントガラスに打ちつける大粒の水滴をワイパーで懸命に払うが、松永は路肩に車を停めた。


 助手席の須藤はスマートフォンの画面を松永に見せている。雨雲レーダーは中央区を含むエリアが真っ赤だった。

 須藤は画面下部をスライドさせ、雨雲はあと十分で抜ける事を確認すると、二人は顔を見合わせて口元を緩めた。

 そのまま二人は叩きつける雨音を聞きながら、無言で前を見ていた。



 ◇◇◇



 六月二十五日 午後七時二十三分



 ――君との別れはベイサイドファクトリーだった。


 なんか俺、カッコいい事を言ってる気がする。ただ海っぺりの工場で女とお別れ・・・しているだけなのに。

 しかもここは横浜の新山下でもない。東京と横浜の緩衝地帯の海っぺりにあるオンボロ工場だ。雨漏りしてるし、カッコ良くない。


 中央区のタワマンから俺と須藤さんはここに来た。岡島、飯倉、葉梨は既に到着していて、須藤さんと葉梨は横浜へ戻っている。


「岡島はさ、こういう時に何を考えてるの?」

「えーと……」


 慣れた手付きで女の関節に指を押し込む岡島は作業・・しながら答えた。


「普段見ないタイプのAVを脳内再生してます」

「例えば?」

「未亡人モノとか」

「えー、見ないの? 俺はけっこう好きだよ」

「見ないですね。松永さんは?」


 岡島は対象者・・・が女の場合は性癖が歪まないようにしていると言っていた。まあこの状況でハードコアとか陵辱とか脳内再生したら碌でもない事が起きるから未亡人モノなのもわかる気がする。


「好きなAV? 俺は女教師モノで夜会巻きの女を立ちバックでガン突き」

「……ホント、好きですよね、女教師モノ」

「うんっ!」


 この前、優衣香が女教師モノの格好をしていて俺は驚いた。優衣香は『こういう格好じゃないとまともに話を聞かない男性っているんだよ』と言っていた。

 働く女性はいろいろ大変なんだなと思ったが、優衣香は女教師モノの格好をする時はTバックを履くと言っていた。ソングは謎の緊張感があるから、と。


 そうだ。あの日女教師モノの格好をしていた優衣香はTバックを履いていたのだ。その話を聞いたのはめくるめく愛の世界へゴーゴーした後のヘブンでだったから、また俺は優衣香の生Tバックを見逃したのだ。本当に、敬ちゃんはバカだ。


 あの時、酔って甘えて来た優衣香をベッドに押し倒して、スカートをたくし上げてTバックをずらしてインすれば良かったのに。妄想カタログにも数ページあるシチュエーションなのに、敬ちゃんはまたチャンスを逃した。敬ちゃんはしょんぼりだ。


「松永さんの彼女って、女教師モノみたいなタイプなんですか?」

「いや、可愛い系だよ。茶髪でふわふわしたパーマの」

「あれー? そういうのあまり好みませんよね?」

「うん」


 優衣香は可愛い系の格好をするが、中身は武闘派だ。子どもの頃から一ミリも変わっていない。

 まさか加藤と既に仲良くなっていて、マッチョしかいないジムの格闘技系のスタジオプログラムに誘っているなんて思いもしなかったが、俺はもう諦めた。優衣香のやりたい事を制限するのは良くないから。リンゴの一件も、我慢する。


 それに兄と須藤さんから既に逮捕術を習っている優衣香には、もう何も言えない。

 須藤さんは逮捕術の何を教えたのかは絶対に口を割らなかったから優衣香に聞くしかないが、怖くて聞けない。


 俺は、優衣香の可愛い笑顔とおっぱいと風にそよぐ長い髪があれば良い。武闘派でも逞しくても、もう、いい。諦める。



 ◇



 午後九時五十三分


 仕事・・を終えた俺と岡島、飯倉は横浜へ戻っている。

 東京と横浜の緩衝地帯にあるベイサイドファクトリーを出て、首都高に乗るはずが入口を通り過ぎ、そのまま一般道を南下して横浜市鶴見区を走っていた。


「もー、飯倉くんさー、捕まらないでよー?」

「はい! 大丈夫です!」


 運転席の飯倉は後ろに座る俺をルームミラー越しに見た。運転席の後ろ、俺の隣には岡島が座っているが、窓の向こうの首都高を見上げている。


 ――わかるよ。ビューンって、帰りたかったよね。


 若干の疲れが見える岡島は前を向き、そして俺の顔を見た。何かを言いたそうにしているが、飯倉をちらりと見た。


「……どうした」

「あの……群馬県警の中村なかむら清隆きよたかさんなんですけど」

「んんっ? 中村さんがどうした?」

「奈緒ちゃんと中村さん、何かあったみたいで……」


 岡島は、中村さんはイケメンだし葉梨とケンカしていたし、加藤の心が浮ついているのではと言う。


「でもダーリンと仲直りしてウッキウキだろ?」

「はい、元通りですけど、なんか変で……」


 確かに加藤はいつもと違う。何か不安があるのか、怯えているのか、これまで見た事のない挙動をしている。てっきり俺はダーリン葉梨の件なのかと思っていたが、岡島は群馬県警の中村さんが原因だと言う。


「中村さんって、元は静岡県警の安藤あんどう哲也てつやさんじゃないですか」

「んんっ!?」

「あれ? ご存知ないですか? 奈緒ちゃんと相澤が刺された時の……」

「あー、あの人が二人を救護してくれた人なの?」

「あれっ? 知りませんでした?」

「俺、その時は潜ってた・・・・から事件を知らないんだよ」

「あー、そうでしたか」


 俺が相澤と加藤が刺された事を知ったのは二ヶ月後だった。たまたま通りかかった静岡県警の警察官数人が応急救護をして容疑者の確保もしてくれたとは聞いていたが、中村さんだとは知らなかった。そして、以前は静岡県警の身分でいたのも知らなかった。やっぱり偽名だったのか。だが所属まで偽っているとは思わなかった。


 飯倉はルームミラー越しに俺を見て、口を開いた。飯倉は俺が彼らと初めて会うよりも前に中村さんを紹介されている。


「中村さんって、本当に警察官サツカンなんですかね? なんか、毛並みが違うというか……」


 ――毛並み、か。


 確かに中村さんは警察官には見えない。それはもちろん俺たちだって意図的にそうしているが、同業から見ればわかるものだ。


 ――どこかで見た顔。


 ヘッドレストに頭をもたげ、中村さんとどこかで会ったのか思い出そうとするが思い出せない。同業ではないのなら、どの官庁だ。それとも民間なのか。いつ、どこで会ったんだ。


 飯倉の言葉に岡島が反応した。


「松永さんのお父様の警察葬で……俺、中村さんを見た記憶があるんです。だから警察官サツカンだと思いますけど……」

「ああっ!!」


 思い出した。

 父の警察葬で俺は中村さんを見た。そうだ、確かに見た。

 警察葬が終わって別室で懇談している時、席を外した俺が会場の前を通ると、祭壇へ献花している男性がいた。拝礼し、父の遺影を見上げる後ろ姿を見ていると、彼は俺に気づかず会場を後にした。

 横顔が確かに中村さんだった。体型や顔つきが今と違い過ぎて結びつかなかった。


「奈緒ちゃん、どうしちゃったのかな」

「んー、でもさ、もし加藤が中村さんに何かされたとしたら、チンパンジーは相手が誰でも容赦なく東京湾に沈めるよ?」

「ですよねー」


 目に明るさの戻った岡島は口元を緩めた。

 葉梨はスイートハニーの変化に気づいているのだろうか。俺はそんな事を考えながら窓の外のベイサイドファクトリーを見ていたが、ある事に気づいた。


「飯倉さ、首都高の入口、また通り過ぎてるよ?」

「首都高は怖いから下で帰るんです」


 飯倉はホストクラブで勤めている間は運転しておらず、その前も二年近く運転していなかったから運転が怪しい。飯倉はハンドルを握ってはいるが、車が左右に揺れている。


「でもここ、都内じゃないよ?」

横羽線よこはねせんは似たようなもんです」


 俺は飯倉の謎の言い分を聞きながら、無事に帰れますようにと、心の中で願った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る