幕間 恋する乙女と葉梨の葉梨

 捜査員用のマンションの仮眠室で眠っていた私は目が覚めた。


 正面は壁だ。右を下にして横向きになっているのか。真っ暗だが外廊下に面した窓のカーテンから明かりが漏れている。背後にあるドアが開けられ、廊下の明かりが筋状に壁に映り、広がって行く様を見ていた。


 ――須藤さんだろうか。


 療養は捜査員用のマンションでするようにと須藤さんに指示され、迷惑を掛けてしまうのは申し訳無いと辞退したのだが、署の近くにあるクリニックに同伴してくれた中山さんに無理矢理公用車に乗せられ、『最後の気力を振り絞って助手席に乗ってろ』と言われて捜査員用のマンションへ連行されて来た。

 中山さんは、『車の運転は五年ぶりだから何かあったらごめんね』と走り出してから言い、気力を振り絞るとはそういう意味なのかと理解した。


「奈緒ちゃん、起きてる?」

「はい、起きてます」


 私は寝返り、ベットの脇に膝立ちする須藤さんを見上げた。

 葉梨と岡島が戻って来たと言う。


「俺と岡島は外で話してくる。二十分。その間に葉梨と風呂に入れ」

「嫌です」

「命令」

「嫌です」

「引っ叩くよ?」

「んふっ」


 葉梨と交際報告を上げた以上、本来は一緒に仕事をする事はあり得ないのだが、捜査が大詰めとなっているから大目に見ているようだ。

 それに、松永さんのお兄さんの敦志さんと須藤さんが関わる四年前の事件で、対象者だった女と山野花緒里が接触したという。山野は元警察官という事で、二人には既に完全な監視体制が敷かれている。

 だから須藤さんは私も葉梨も手元に置きたかったのだろう。中山さんも飯倉もいて、十分な体制だ。


「岡島が小豆のアイスを買ってきたから、風呂入る前に冷凍庫から出しておきなよ」

「んふっ、硬いですもんね」


 立ち上がった須藤さんは廊下に出て岡島を呼んだ。

 小豆のアイスを二本持ってリビングから出て来た岡島は、私を見て笑顔で「アイス食べてね」と言い、マンションを出た。


 見送った葉梨は施錠し、仮眠室にやって来た。


「お一人で入れますか?」

「うーん、大丈夫だとは思うけど、念の為、洗面所にいて欲しい」

「わかりました」


 須藤さんは、私たちがまだ体の関係が無いなど思いもしないのだろう。一緒に風呂へ入れと言うが、私も葉梨も恥ずかしいのだ。


 ベットで抱きしめ合い、唇を重ねて肌に唇を這わせて、お互いに鼓動が早まる様を合わせた肌から感じた事はある。だがその先は、まだだ。


 ベットの脇にいる葉梨が手を差し伸べた。私は手を差出し、手を繋ぐ。

 廊下に出て、洗面所に向かい、葉梨は洗面所の扉を閉めた。


「服、脱ぐから後ろを向いてて欲しい」

「ああ、失礼しました」


 葉梨は背を向けた。

 私はパンツとブラジャーさえ着ていれば、男の前で服を脱ぐ事は問題ない。組織に染まってしまったのだ。女としてはそれではいけないと思うが仕方ない。

 だが、裸になるのは恥ずかしい。葉梨とはまだ体の関係が無いし、恥ずかしい。


 服も下着も脱ぎ、ちらりと葉梨の後ろ姿を見て浴室のドアを開けた。

 だが浴室に一歩踏み込んだ瞬間、私は洗面所と浴室の段差に足を取られて転んでしまった。

 音に気づいた葉梨は私の名を呼んだ。


 ――加藤奈緒、三十五歳。一生の不覚。


 初めて恋人に見せた産まれたままの姿が、すっ転んでケツ丸出しのバックショットだ。一生の不覚だ。

 私の予定ではベットの上で、葉梨の腕の中でだったのに、どうしてこうなった。すっ転んだからだ。もうっ。


 葉梨は慌てて浴室に入って来て、抱き起こそうとした。だがその時、葉梨はシャワー水栓に肘をぶつけ、シャワーが葉梨のワイシャツの前面に降り注いだ。

 葉梨は慌てて水を止め、私の顔を見た。


 ――葉梨、ビッチャビチャ。


 私の不注意で葉梨に迷惑をかけてしまった。申し訳無い。私は目を伏せて唇を噛んだ。

 色気も何もない、すっ転んでケツ丸出しバックショットを見てしまった上にスーツの上からシャワーを被ったのだ。本当に、申し訳無い。


 葉梨は私を立たせ、抱き寄せた。

 私の腰と肩を抱く葉梨は耳元で囁いた。


 俺がついていたのにごめんね――。


 葉梨の顔を見上げると、しょんぼり顔をしていた。私は恥ずかしさで涙が滲む。


「奈緒、ごめんね」

「……うん」


 葉梨は自分のせいだと思ってしょんぼり顔をしているが、どう考えても私のせいだろう。だが私の恥ずかしいケツ丸出しバックショットを自分のせいにする事で、私を庇っているのかも知れない。


「私もごめんね、ちゃんとしてなくて」

「ううん、俺のせいだよ。一人で大丈夫?」

「……どうしよう……一緒に入る?」


 葉梨は私が何を言っているのか理解出来なかったようだ。だって今、一緒に入っているのだから。葉梨はスーツ姿だが。


 私と葉梨は見つめ合う。

 しばらくしてやっと意味を理解したようで、葉梨の耳はみるみる赤く染まった。


 葉梨は私から視線を外すと、何か考えるように眉間にシワを寄せながら唇を噛んだ。

 目が彷徨っている。いろんな事を考えているのだろう。

 そして意を決したように、真剣な眼差しで言った。


「パンイチで」


 ――お前は何を言っているんだ。


 ここまで来たら全部脱げ。私はそう思った。

 だが葉梨にも譲れない一線があるのだろう。尊重しなければならない。私は全裸なのにフェアじゃないと思うが、仕方ない。


 葉梨は浴室を出た。

 シャワーを出してお湯が温まるのを待っていると、葉梨はそっと扉を開けた。

 葉梨は恥ずかしそうな顔をして浴室に入って来たが、私はある事に気づいた。葉梨は黒のボクサーパンツを履いている。だが、いつものとは違う、と。


 ――もっっっのすごいローライズじゃないか。


 普段のボクサーパンツのウエストゴムはヘソ下三センチほどだが、今日のボクサーパンツはかなりのローライズだ。事故が予見されるローライズ――。


 これはマズいだろう。

 葉梨の葉梨が熱量を増したら、絶対に葉梨の葉梨がローライズから飛び出して私と葉梨の葉梨がコンニチハだ。とんだ初対面――。そう思うが、葉梨には譲れない一線があるのだ。尊重しなければならない。


 私は葉梨の下半身から目線を外し、葉梨を見た。

 葉梨はシャワーヘッドを手に取り、左腕を私の腰に回し、シャワーを私の体に掛けた。


 泡立てたボディソープで葉梨は私の体を優しく洗い始める。

 私は葉梨の首に両手を添えているが、葉梨は時折私の目を見て、不安そうな顔をする。


「ごめんね、こんな事までしてもらって」

「うーん……」

「ん? なに?」


 葉梨は私を引き寄せて耳元で囁いた。


 またおあずけ――。


「んふふっ……」

「うーん……」


 療養は四日だ。私のせいで他の捜査員は休み返上になっている。本来の休みの予定は来週だが、休めない。またしばらく葉梨とはプライベートで会えないのだ。

 須藤さんや松永さんは、私たちが一緒の日に休めるようにしてくれている。だが、そんなものは我儘だと思っているから遠慮している。


「いつ会えるかな」

「ふふっ、いつも会えてるのにね」


 そう言って、葉梨は私に唇を重ねた。


「次は、おあずけじゃないよ」

「本当に?」

「うん」

「んふふ……奈緒、好きだよ」

「んふふっ、私も」


 シャワーで泡を流し、葉梨は体を拭いてくれた。

 こんなに優しくしてくれる男がこの世にいたのか。

 私が好きな男が私を好きなんて幸せすぎる。


 葉梨の首に添えた指先に力を込めて、キスをねだった。優しく微笑む葉梨の瞳には私だけが映っている。


 一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男――。


 私はもう、葉梨に夢中だ。

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