第2話 身を焦がす男と胸を焦がす男たち
須藤諒輔は雑居ビルのエントランスにいた。
八階建てのその雑居ビルは三階と四階がオーナーの住居で、一階は学習塾、五階から八階は司法書士事務所や弁護士事務所、市の外郭団体等が入居している。
駅から徒歩二分のこの雑居ビル二階が彼らの会社だ。
須藤はエレベーターは使わずにビル裏手の非常階段で二階に上がった。
暗い廊下の電気を付け、事務所のドアを解錠して中に入る。
室内にこもる熱気を一身に受け、眉根を寄せた須藤は日が差し込んで明るい室内を見回して空調のスイッチを入れた。
◇◇◇
六月十一日 午後一時十五分
非常階段のドアを開けた音がした。
足の運び、歩幅、背丈、体重――。
敬志だ。飯倉かも知れないが、足の運びが飯倉ではないから敬志だろう。
事務所のドアが開けられた。
そこから覗く顔はやはり敬志だったが、いつもと雰囲気が違う。髪を切ったのか。だが、弟の美容院へは行ってないのだろう。理容室に行ったのか。
「お疲れ様です」
「……お疲れ」
体型に合っていないスラックス、磨いていない黒い革靴、長袖の白いワイシャツを腕まくりして、青のネックストラップを付けたスマートフォンは胸ポケットに収まっている。
「いいね、普通のサラリーマンだ」
「んふふっ……聞いてくださいよ」
「えー?」
弟が研修で対応出来ないからと敬志は久しぶりに理容室へ行ったと言う。そこは親子二代でやっている理容室で、四十代と思科される息子の方にある程度の髪型を指定して切ってもらったが、後で入った客に息子が対応した為、仕上げは高齢の父親が対応したという。
「お父さんに昭和のいい男にされました」
前髪をフワッと固められたスタイルは顔剃りで整えられた眉毛と相まって男前に見えた。
「いいね、優衣香ちゃんに自撮り、送ってやれよ」
「えー」
敬志は優衣香ちゃんに一切連絡していない。
中山からは連絡するように敬志へ伝えたと報告は受けたが、敬志は自撮りを送らないだろう。
「お前が送らねえなら俺が送っちゃうよ?」
「やめてくださいよ」
敬志は室内を見回している。
自撮りの背後に何も映らない場所を選んでいるのだろう。送る気になったのか。
敬志は離婚した後、女を食い散らかして何度かトラブルを起こしていたが、今は優衣香ちゃん以外の女に見向きもしない。中学の頃から優衣香ちゃんを好きだと聞いた時は驚いたが、惚れた女の事しか考えていない敬志は幸せそうだ。
何度も角度を変えて、キメ顔で写真を撮る敬志が微笑ましい。
「早く送れよ」
「うーん……」
「ふふっ」
――奈緒美さんは、俺の写真なんていらないだろうな。
はにかんだ笑顔でスマートフォンの画面を見つめる敬志を羨ましく思った。
◇
俺の右斜め前のデスクに座る敬志はパソコンのモニターから俺に視線を動かした。
「加藤の熱、どうなりました?」
「ん? ああ、インフルとか他の感染症じゃなかったよ」
「そうですか」
昨夜は公用車で署に行ったが、俺も加藤も傘を忘れてしまい、車を誘導する際にトランクから傘を出した。
俺は傘を差し、運転席から降りる加藤に傘を差し出したまでは良かったのだが、加藤は足を滑らせてしまい俺の足元に転がった。
加藤を起こそうと右手を差し出したが、加藤が変な体重の掛け方をしたから俺も転んでしまった。
台風の影響による強風と豪雨だった。
傘を差すのはやめて署まで走ったが、スロープでまた俺たちは転んだ。
それでお互いにヤケクソになり、二人で笑いながら両手を広げて空を仰いだ。体調が良くなかった加藤は、それでとどめを刺されたのだろう。
「感染症じゃないから、マンションで療養してる」
「ん? あっちの? 自宅?」
「あっちの。加藤は一人暮らしだし、何かあった時は俺らがすぐ見れるあっちのマンションが良いだろ?」
「そうですね」
「今は中山がいる。治るまでは誰かしらいるようにするから」
「わかりました」
そう言えば、敬志は中山が優衣香ちゃんと接触済だと知ってキレていた。
優衣香ちゃんの好みのタイプが中山みたいな奴だとは事前に知っていたから中山に接触させたが、敬志が本気でキレた事には驚いた。
優衣香ちゃんが中山に惑わさせる事は無いのは分かっているはずなのに、恋する敬ちゃんは不安なんだろう。
優衣香ちゃんが夜中にふらりとドライブに出かける理由――。それは敬志に会えないからだと敬志に思わせろと中山へは命令したが、俺も中山も理由は別にあると考えている。
敬志は思い至っただろうか。優衣香ちゃんは犯罪被害者だと。敬志だって同じじゃないかと思うが、警察官は一般人とは立場と視点が違う。だから思い至らない。警察組織に染まると『普通の感覚』が分からなくなる。
――普通は、身元調査された時点でドン引きだぞ。
優衣香ちゃんは警察官の妻になる為におばさんへ教えを乞うた。おばさんは自身を律して三人の息子を厳しく育て上げた。真面目な優衣香ちゃんは、敬志が安心して仕事が出来るようにおばさんをロールモデルにしている。
高校時代、敦志の家に遊びに行くと必ず挨拶に来てきちんと頭を下げる中学生の敬志が可愛かった。それは今でも変わらない。どうか、幸せになって欲しい。だが――。
「あの、須藤さん」
「なに?」
「須藤さんは中山の恋人の事も把握しているんですか?」
「もちろん」
「そうですか」
パソコンのモニターに視線を戻した敬志だったが、横目でちらりと俺を見た。
「なあ、敬志」
「はい」
体を俺に向けた敬志へ俺は言わなくてはならない。優衣香ちゃんの事になると冷静さを欠く敬志を、このままには出来ない。
「俺さ、対象は
口角が下がり、ありありと動揺が見て取れる目。ダメだ、こいつ。
「お前さ、仕事と女、どっち選ぶ? 警察辞める?」
「えっ……」
「お前が優衣香ちゃんを選んでも、俺は賛成するよ」
俺の問いかけに敬志の目は揺れる。
敬志は俺と同じ道を選ぶのか。
俺は敬志に気取られないように息を吐いた。
「あの、どうしてか、教えて頂けませんか」
「ふふっ、官舎から優衣香ちゃんの車に乗ったろ? それは良いんだけどさ、優衣香ちゃんのマンションに着いた時、中山はお前を見てた。でもお前は全く気づかなかった」
目を閉じて唇を噛む敬志に、怒りと愛しさが湧く。どうか俺と同じ道を選ばないで欲しい。惚れて結婚した女が家を出た事を三ヶ月も気づかなかった俺みたいにならないで欲しい。
でもまだ、敬志は大丈夫だ。
「ちゃんとさ、優衣香ちゃんに連絡しなよ」
「……はい」
「敬志、中山の恋人の事は本人に聞け」
「はい」
中山の存在に気づかなかった事を悔やんでいるのだろう。敬志はまだ唇を噛んでいる。
「俺から言える事は、お前ら仲良いから恋人も似たような女性だ、って事だけ」
「似てるってどういう意味でですか?」
「関係が長い。中山は十五年」
「えっ……」
「あとは本人に聞け」
中山はマメに連絡している。中山が恋人の事を相談して来た時に俺が適当にアドバイスした、『毎日大好きってメッセージを送れ』を本当に実行しているという。男はバカな方が、ちょうど良いのかも知れない。
中山も敬志も胸を焦がす恋人がいる。羨ましい。
奈緒美さんと知り合って二年が経つが、奈緒美さんの気持ちが俺に向く事は無いと思う。
でもそれでいい。今のままでいられるなら、俺はそうしていたい。もう失くしたくないから。
あの日、三ヶ月ぶりに家に帰った俺が見た手紙、テーブルに置かれた結婚指輪に添えられた手紙は今でも夢に見る。
もう私を解放して下さい――。
身を焦がす恋をしている今が一番幸せなのだと思う。
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