第2章

第1話 会議室のスイートハニー

 六月十一日 午前零時三十三分


 強い風の吹く夜半過ぎ。

 窓の外で降り続く激しい雨音が部屋に響いている。時折その強さを増した風に煽られ、激しい雨風が窓ガラスを叩きつける。その度にガラス越しに見える景色が激しく揺らいでいた。

 吹き荒れる風のうなりと共に雷鳴が轟き、外の世界を照らし出す。まるで世界の終わりを思わせる光景を前にして、彼はただ立ち尽くすしかなかった。窓の外を見つめたまま動けずにいる。


 隣県と接する署の四階にあるこの会議室には、彼以外にまだ、誰もいない。


 ◇


 隣県との境にある川の急な増水による通報が相次いで署員が慌ただしくしている中、松永まつなが敬志たかし葉梨はなし将由まさよし岡島おかじま直矢なおやの三人は、会議室のある四階まで階段で行こうとしていた。

 その階段を見上げながらエレベーターを指差す岡島は、松永に髪を掴まれて壁に打ち付けられた。その様子を見ていた葉梨は後退りしている。


「行くぞ」


 松永の声で、三人は階段を上り始めた。

 階段の踊り場にある鏡は階数を重ねる毎に三人の体力差を如実に写していく。遅れを取る岡島を二人は置き去りにする。


 二段飛ばしで駆け上る松永は三階の踊り場で止まった。

 踊り場の鏡で呼吸を整えながら髪を直しているが、松永は一月十四日以来弟が勤める美容院へ行けずじまいだ。伸ばしたままの長い髪は後ろに流している。


「遅えよ、岡島」


 松永の呼びかけに階下から岡島の返事は元気よく返って来るが、姿は見えない。

 踊り場へ着こうとしていた葉梨は岡島の声を聞いて階下を覗き込むと、階段を踏み外し脛を打って悶絶している岡島の姿が目に入った。葉梨が岡島に駆け寄ろうとした時、女の悲鳴のような声がした。


 深夜の署は五階の交通捜査課と刑事課に動きはあるが、四階は静かだ。

 松永と葉梨は声がした四階へ駆け上った。


 松永は隣に追いついた葉梨へ「今の声はお前のスイートハニーだよな」と言うと、松永を二度見した葉梨が「おそらくそうです」と答えた時、また女の声がした。女の声は会議室から聞こえる。


 自分を追越し、廊下を走る葉梨を見た松永は口元を緩める。

 岡島はやっと四階について廊下へ出た。

 会議室のドアを開ける前に葉梨は叫ぶ。

 そして葉梨はドアを開けた。


 そこには男を指差す加藤かとう奈緒なおがいた。


 葉梨に続き会議室の中に入った松永の目に映ったのは、ボックスティッシュを掴んだ葉梨と、その男、飯倉いいくら和亮かずあきの鼻の穴に指を突っ込むジャージ姿の加藤の姿だった。


「何やってんの?」


 眉根を寄せてそう言った松永に続いて目尻に涙の跡が残る岡島が入室し、同じく「何やってんの?」と言うと、加藤は答えた。


「手元が狂ったんです」


 その言葉にティッシュを加藤に手渡そうとしていた葉梨は唇を噛み締めながら目を閉じ、松永は「でしょうね」と言い、岡島と共に小さく頷いた。


 ◇


 会議室の椅子に座り、手を洗いに加藤が廊下に出た事を横目に見ていた松永は、鼻にティッシュを詰め込まれ上を向いている飯倉へ話しかけた。


「俺はティッシュを巻いた指を突っ込まれたよ」


 それを聞いた飯倉は顔を動かし、「それなら俺よりも痛かったんじゃないんですか?」と答えた。松永は「うん」とだけ答え、飯倉の顔から視線を外し、下を向いて肩を震わせた。


「あれ、加藤、どこ行くの?」

「トイレですー! 手を洗いにですー!」


 廊下で交わされる大声を聞き、会議室にいる四人が開け放たれたドアを見ると、ジャージ姿の須藤すどう諒輔りょうすけが会議室に入室してドアを閉めた。だが彼は飯倉の姿を見て眉根を寄せた。


「なに? 鼻血?」

「えっと……鼻血が、出ました」


 飯倉の顔を見て噴き出した須藤が理由を問うと、飯倉は話し始めた。


 ◇


 七ヶ月ぶりに署に来た飯倉は所用を済ませ、会議が始まる午前一時まで会議室のソファで仮眠を取ろうと午後十時半頃から横になったが、台風の影響による雷雨で目が覚め、会議室の電気を付けぬまま窓際に寄り外を眺めていた。

 そこに廊下を歩く足音が聞こえ、会議室の前で足音は止まった。飯倉はドアに近寄り、入室を告げる加藤に返答してドアを自ら開けて加藤を出迎えた。


「俺、癖で『おかえりなさい! 姫様!』って言っちゃって、加藤さんからグーパン食らったんですよ」


 松永は口元を緩めて須藤を見た。岡島はテーブルに肘をついて頭を抱え、葉梨は唇を噛んで上を向いている。

 笑う須藤は葉梨の姿を見て、「加藤がホス狂だった話、知ってる?」と言った。


 その言葉に真顔になった葉梨は須藤を見つめた。

 松永は薄く笑いながら、「そんなの葉梨にバラさなくたっていいじゃないですか」と言うが、須藤は話し始めた。

 松永は廊下の気配を覗っている。


「七年くらい前かな、安く酒を飲みたいからって休みのたびにいろんなホストクラブの初回に行ってたけど、飲み過ぎで界隈に情報が回って出禁食らったんだよ。しかも入店時の身分証提示でアイツは――」

「開けてー! 誰か開けてー!」


 廊下から中山なかやまりくの声がするが、同時にくぐもった声も聞こえる。

 葉梨がドアを開けると、猿轡をされて手首を後ろ手で拘束された加藤が中山に担がれていた。


「お前のスイートハニー、署内では油断すんのな」


 葉梨を見上げて笑う中山は体の向きを変え、葉梨に加藤を渡して会議室に入った。

 中山は松永の隣に座る際に松永に耳打ちすると、途端に目付きが鋭くなった松永は加藤を一瞥し、立ち上がって須藤の元へ寄り、囁いた。


 ◇


 午前一時五分


 ピピッ ピピッ ピピッ


 小さな電子音は加藤の脇の下で鳴っている。

 視線を集める加藤は体温計に表示された体温を読み上げた。


「七度二分です」


 須藤は加藤の平熱を問うが、加藤が「五度八分です」と答えた瞬間、須藤を含む六人は眉根を寄せた。


「熱、完全にあるな」

「うーん……」

「朝イチで感染症か調べて来い」

「はい」


 須藤は小さく息を吐き、封筒の中に入った書類を取り出した。


 左手前にいる飯倉へ書類を手渡し、捜査員それぞれの名前が左上に鉛筆書きされた書類を捜査員へ配るよう指示し、右手前にいる葉梨には同じ文面が記載された書類を回すよう指示した。


 全員に行き渡った事を確認した須藤は書類を一読すると口を開いた。


「五分だ。覚えろ」


 渡された書類に書かれた事を全て記憶する制限時間は五分という意味で、須藤は腕時計で時間を見た。


 飯倉が捜査員へ配った書類は履歴書のようなものだった。

 氏名、生年月日、年齢、住所、本籍、学歴、職歴等が書かれているが、もちろんそれは実在しない人物のもので、葉梨が配った書類は共通のものだ。脈絡の無い単語と数字が羅列されている。

 須藤は封筒の中から偽造運転免許証を取り出した。


 ◇


「回収」


 須藤の言葉で飯倉は立ち上がり、二枚の書類を捜査員から回収してバケツに張った水に沈めた。

 その様子を見ていた松永は飯倉に声をかけたが、その声は飯倉にしか聞こえない。飯倉は振り返らず小声で返している。

 葉梨は二人の様子を見ていたが、すぐに須藤の話へ意識を向けた。

 須藤は話し始める。


「マンションはそのままで会社は隣駅。でも歩ける距離だから。会社へは今日の午後三時に集合。何か質問あるー?」

「はいっ! 質問あります!」


 手を上げた飯倉へ、須藤は続きを促した。


「ああ、えっと、加藤さんと葉梨さんってお付き合いしているんですか?」

「あれ? 知らなかった?」

「あの、俺は七ヶ月ぶりに署に来たし、月イチの連絡で、それは知らされて無かったです」

「あー、そっか。ごめんね、うん、付き合ってるよ」

「マジっすか……」


 その時、飯倉が呟いたひと言に反応した加藤は手の甲で飯倉の顔を叩いた。


「痛っ!!」


 飯倉の正面にいた葉梨はまたボックスティッシュを掴み、席を立って飯倉に寄った。


「加藤さ、そろそろパワハラで処分されるよ?」

「その時は須藤さんもご一緒にいかがですか?」

「ポテトかよ」


 松永と岡島は不機嫌な顔をしている加藤と目を合わせないようにしているが、中山は葉梨に声をかけた。


「葉梨、お前がスイートハニーをどうにかしろよ。ダメだろ、これじゃ。分かったか?」

「はい……」


 消え入りそうな小さな声で答える葉梨に睨める視線を送る加藤は中山にも視線を送ったが、中山はニヤリと笑って、葉梨に言った。


「あと、署内でも油断すんなって言っとけよ。猿轡に後ろ手で拘束される女警官なんてAVじゃねえんだからよ」


 そう言って、中山は加藤を真っ直ぐ見た。




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