第5話
帰宅は7時前になった。思ったよりも早く帰れたので彼は安心していた。嫁は娘と寝室にいて声をかけても返事はなかった。 まだ夕食はできていなかったので、息子と一緒に風呂に入ることにした。
「夕食は風呂から出る頃に出来てるよ」と父が言ったからだった。 夕食は鍋にした。おせちなんかはもう食べ尽くしてなかったし、彼はお酒を飲みたかった。7時半すぎまで待つと鍋が食卓に乗った。 彼は一度2階にある寝室へ行った。
「夜ご飯ができたけど食べるか」と嫁さんに訊いた。
「この子のがめを覚ましたら大泣きするでしょう?」
「食べないの?」
「私はいい」
彼は違和感しかなかった。別段そんなに慎重にならなくても問題はないはずだ。 彼は一回に降りて、食卓に座った。父は食器を洗っている。
彼は先に食べることだけを告げて、子供に分けて、自らも箸で取って食べ始めた。去年の暮に貰った獺祭が一合ほど残っていたので、それを飲みながらいっしょに具材を頬張った。
彼は酔ってくると腹が減ったのか鍋の具をガツガツと無心に食べ始めた。子供にもすすめるが、ぼんやりゆっくり食べている。父親もやがて橋を持って食べ始めた。すると彼はいつの間にが時間が9時を過ぎているのに気がついた。取り皿の具材だけ食べて風呂にしなければと思った。 と、そう思った時だ。2階からバタバタと音がして扉が空いた。嫁だった。目が血走って、膨れ顔とはこういうのか、本当に顔が真っ赤になってこういうのだ。
「お前らは頭がおかしいよ!!」
「なに?」
彼が口にできた第一声はこの程度だった。
「もう宏も眠そうにしてんじゃん。いつまで飯食って酒なんか飲んでんだよ!! ふざけんじゃねえぞ!」 とだけ言ってバタンと扉を閉めてまた嫁は二階に上がった。彼の内心はこうだ。
「やったかーー」
モーツァルトが姑に嫁に対する扱いが酷いとガミガミと延々言われたときに鳥の囀りのような曲をひらめいたという逸話があるが、そんなもので済まされるわけがない。
彼は一も二もなく突然喚き散らした嫁が許せず、二階の寝室の明かりをつけて話した。
「おい、どういうことだ」
「なに、やめてよ。娘が寝てるんだから」
彼はやはりと思った。卑怯な女だ。子どもを盾に自らの発言の責任は取らないつもりだ。それはこの男にとってとても残念な結果だった。もう今更後には引けない。次に出た言葉はこれしかなかった。
「だったら、出てってもらうしかないな」
嫁の表情は変わらない。
「金は払ってやるから、今すぐ出ていけ!! 子供を連れて実家に帰れ!! もう戻ってくるな!」
彼は嫁に怒鳴ったが、嫁は意に介せず無表情のままだ。 彼は嫁のことはどうでも良かった。子どもなど盾にしようが、ここまで来たら関係なかった。向こうが非道なやり方を取るならこっちらも同じようにやるだけだ。当たり前ではないか。 彼は寝ている娘の脇を抱えて寝台から放り投げた。床にゴンと音を立てて落ちた娘は、悲鳴を上げて泣き叫んだ。
「早くこいつと、下にいるお前の息子、一緒に連れて出て行け!!」
「やめてよ」
嫁は投げられた娘を抱きかかえてこちらを見た。
「ああ!? 関係ねえだろうが! 俺等は頭おかしいんだろ? ふざけんなはこっちの台詞だろうが! 何様だ。子ども盾にして言いたいことだけ言いやがって、そんなに嫌だったらな、さっさと出てけ!! わかったのか!!」
嫁は黙ったままだ。娘はまだ泣いている。 彼はそのまま黙って1階に降りた。宏はまだ食事を食べ終えていなかった。
「宏、早く食べな」
彼は残っている鍋の具材を少しずつ彼に食べさせた。そうしているうちにまだバタバタとニ階から音がして、バタンと扉が空いた。 嫁が娘を抱えて泣きながら来たのだ。そして父親に向かってこういった。
「全部お前のせいだ。畜生! 全部お前のせいだからな!」
彼はもう飽きれる他なかった。もはや恐喝に近い言い草だった。彼は黙って息子に食事を与えているが、息子も怖くなってその場で泣き始めた。父はそれを見るやいなや言う。
「どうしたっていうんですか?」
「うるせえ! あんたのせいだ! ふざけんじやねえぞ!」
「愛衣さん、私のことは何を言われたっていい。けれど子どもたちの前でそんなことは言っちゃいけない」
「畜生!」
それだけ話すと嫁は二階へまた逃げた。 彼はそれを追いかけた。 二階の客間で続けて怒鳴り合う。
「お前なんだってあんなこと言ったんだ」
「子供があんなに眠そうにしてたじゃない。どういうつもり?」
「そう思うなら連れたいってくれてよかった話だろう」
「私に何でもさせるの?」
「お前、わからないだろうが、あんな親でも俺の唯一人の肉親だぞ、もう帰ってくるなとでもいうのか? お前がいつも言ってるのはそういうことなんだぞ」
「うるさい! 二人してそうやって私を悪く言って! ふざけるんじゃねえ!! おかしいのはアイツだ!」
その瞬間、彼は自分でも何をやっているのかわからなくなっていた。気がついたら彼は嫁の顔を何度も殴っていた。 気がついたときには嫁の目のはしと口の端が紅く腫れていた。 数時間経った。 子どもたちは父親とともに一階の客間に布団を敷いてたち親が寝かせた。 彼は嫁と二階の客間で互いに座っている。
「もうこれで言い逃れできないね」
嫁は高圧的にそういった。
「自分の言ったことをよく考えてみろよ。別に警察に申し出たければ出ればいい。そもそももう家を出ていけと言ってるんだ。私が捕まれば仕事がなくなって、私は養育費を払えなくなる。そうしたらアンタは働きながら二人を養わないといけなくなるぞ」
この場合、たしかに警察沙汰にするのは利口ではなかったであろう。 親は翌日早々、家をあとにして1階は子どもたちだけ寝ていてあとはもぬけの殻になっていた。
彼はさらに嫁にいつ家を出るのかと言い寄ったが、未だに答えが返ってくることはなく、またいつもの生活に戻っていくだけであった。
鳥の囀り 三毛猫 @toshim430
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