やがて人が死ぬ

北里有李

前編 謎の男

 あまり詳しくは言えないのですが、私は貿易に関する仕事をしています。数年前にその関係でアメリカに出張することになったのですが、その道中のことです。

 空港でコーヒーを飲んでいると、三十メートルくらい向こうに変な人が歩いているのが見えました。ガリガリにやせており、猫のように内側に巻いた肩から生える手は少し長めです。下を向いているため、顔を窺い知ることは全くできません。

 その人がふと、こちらを見ようとしました。私はさっと、手元にあった雑誌に視線を落としました。因縁をつけられてはかないません。私は喧嘩が弱いのです。

 一度コーヒーを啜ってから、もう一度視線を上げると、そこにはさっきの人はいませんでした。私は安心して、また時間が来るまでのんびりと過ごすことにしました。そのときのコーヒーは美味しかったです。

 時間がきて、飛行機に乗り込みました。私は少し奥の席に座りました。周りには外国人と日本人が同じくらいの比率で乗っています。特に気になるようなこともなく、どかっと席に座りました。

 私は大げさな仕草で意識高そうな本を取り出し、眺めていました。空港の書店で買ったものですが、当時はそういったものを読むサラリーマンへのあこがれが強く、文字を読むのが苦手な私は、読んでいるフリをすることで真似をしていました。はたから見れば、イケてるサラリーマンに見えていたことでしょう。

 そんなわけで周りの目を気にしつつ本を眺めていたのですが、入口のほうから異様な雰囲気の人がやってくるのが見えました。子供が描いた絵のように線の細い男で、私はその男に見覚えがありました。

 さっき空港内で見かけた男です。

 近くで見ると、その男はより不気味に見えました。まず、清潔感という概念がないような風貌で、無精ひげがボーボーだし、髪の毛は油でギトギトだし、シャツはヨレヨレだし、とにかく最悪でした。その中でも群を抜いて最悪だったのは、その男が私の隣に座ったことです。気の強い人なら乗務員に言って席を変えてもらったのでしょうが、私は意識高い系を気取った気の弱いブ男で、そんなことを言い出す度胸はありませんでした。

 そんなわけで初めこそ最悪な気分だったのですが、離陸してからはそんなに気にすることも無くなりました。その男はとにかく存在感が薄く、見た目の割には臭いなどもなかったので、視線をやらなければ快適な旅だったのです。私は男のことなど気にすることなく、意識高い系の本を眺めながらボーッとしていました。

 夜になり、機内が消灯されました。薄暗くなった機内では、眠っている人もいて、本を眺める以外の暇つぶしを持ってきていなかった私も寝ることにしました。後ろに人がいなかったので遠慮なく席を倒します。あの不潔男の後ろには誰かいました。つまり、私の斜め後ろです。そのせいで席を倒せないようで、不潔男はじっとしていました。内心ざまあみろと思いつつ、おくびにも出さずに目を閉じました。

 しばらくして、うとうとしていた時です。突然誰かに手を掴まれました。私は飛び上がるほどに驚いて、情けない声をあげそうになりました。しかし、声が出ず、体もまともに動きません。突然の事態に、私は何とかして体を動かそうとすることしか考えられませんでした。いくらやっても動かないのですが、でたらめに力を入れます。

 そのとき突然、腕に痛みが走ります。泳いでいた視線は、痛みの発生源に向きました。そこには骨だけしかないような細い腕が、私の腕を掴んでいるのが見えました。皮膚が突っ張るほど強く握られています。その腕を辿っていくと、不潔男の顔があります。不気味に折れ曲がった首が、肩のあたりから生えているのです。明るいときに見たのであれば面白かったでしょうが、こんな状況では不気味でしかありません。

 男の頭は、段々と腕を伝って私の方へ近付いてきます。男の頭は首の辺りで雑に切られ、その切り口から虫の足のような何かが沢山生えていました。わさわさと私の腕まで近付いてきます。

男の目は黄色く不健康な色に光っており、がたがたの歯並びがいっそう不気味に見えます。私は叫んで気絶したいところでしたが、体は許してくれませんでした。目だけは動くのですが、他は動きませんでした。

 男の顔は私の腕までやってくると、ゆっくりと口を開け、味わうかのように私の腕に噛みつきました。まるでゾンビ映画を見ているかのようです。男の顎の筋肉が動き、鋭い痛みが走ります。血がじわりと溢れてきて、男の口の周りを囲うように浮かび上がりました。私はそのまま食いちぎられるのかと思いました。涙目になっていた私が、腕を食いちぎられる覚悟を決めようとしていたとき、突然全く違う種類の痛みがやってきました。焼けるような痛みです。昔、火傷をしたときと同じ痛みでした。肉が焼ける匂いを感じた気がして、必死にもがこうとしますが、まだ体は動きませんでした。

 男は力を抜き、ゆっくりと顔を上げます。血のついた顔に浮かぶ表情を見て、私はぞっとしました。笑っているような、憐れんでいるような表情をしていたのです。私は恐ろしくて仕方ありませんでした。まだ何かされるのではないかと思いましたが、男の頭はまたカサカサと気持ち悪い移動で元の位置に戻っていきました。そして掴まれていた腕が離され、男の頭もあるべき場所に戻ります。一時間にも感じられるほどの時間が経ち、私が冷静さを取り戻し始めたとき、突然体が動くようになりました。

 私は体が動くようになってすぐ、隣に座る男を確かめました。男は微かな寝息を立て、そこにいます。幽霊ではなかったようです。襲ってこないかを確認するために顔の前で手を振ってみたのですが、全く反応はありませんでした。

 つぎに腕です。さっきまで噛まれ、焼けていたはずの腕ですが、そのような痕はどこにもありませんでした。代わりに、よく分からないマークが刻まれていました。甲骨文字のようで、手足がそれぞれ四本あり、体がねじ曲がったような奇妙なマークでした。そのマークは入れ墨のようになっており、実際に体に傷がついているわけではないようでした。

 私は男に話しかけることはできず、アメリカにつくまでじっとしていました。明るくなると当然男も目覚めるのですが、私は得意の読書のフリで目を合わせないようにしました。

 アメリカに着き、飛行機から降りるとき、私は小心者なりに話しかけてみました。男が本当に幽霊だったら、早く日本に帰って霊能者に除霊を依頼しなければなりません。

「あの、すみません……」

「はい?」

 想定外だったのですが、思っていたより人間らしい返事が返ってきました。男の「はい」の発音はアメリカ訛りの日本語のように聞こえます。私は「あっなんでもないです」と情けない小声で返し、さっさと飛行機を降りました。

 その後の仕事では、大体のことは寝れば忘れてしまう特性のお陰で、何事もなくこなせました。私は大体一週間の滞在期間のうちに、この出来事のことはすっかり忘れてしまっていたのです。思い出したのは、帰国してから起きた出来事のせいでした。

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