第十六話 ≪撲殺≫
蹲っている間に瓶の蓋を、そして袋の縛りを解いていた。服と一緒に浮いた粉の入った袋は、ガスマスクのガラス越しに舞う。≪撲殺≫はそれを素手で払い、より粉は辺りに拡がっていく。
「ぺっ、なんだこれ。鬱陶しい!」
少量が口の中に入った。砂利を口に含み、唾液とともに吐き出した。変な匂いがする。鼻から吸い込んでしまったかもしれない。何かをされたのは間違いがない。こんな、虫みたいなやつに。
「うぜえ!!」
「ぐああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!」
踵が顔に向いていた。小枝のような足を、丸太のように太い足が踏みつけた。骨が折れる時の音とはまた違う。砕かれた音というのは思いの外小さい。叫び声が木霊する。≪撲殺≫の怒号ほどではないにしろ、高い声はより遠くまで響いた。
「ぎ……ひぃ……ぶっ」
「小細工!! しやがって!! もっと!! 堂々と!!
「っ、がっ! ……んんっ……ぐぁ!」
殴る。殴る。殴る。熊が馬乗りになって、か細い猿を蹂躙する。テンポよく、太い両の腕で痛めつける。抵抗せず、固定された相手を殴るのはひどく簡単だ。簡単すぎてつまらない。子ども遊びのようなものだ。≪撲殺≫にとってはゲームでもそうでなくとも、なんどもやってきた。プロだった。
≪撲殺≫には復讐相手はいない。≪撲殺≫はうわさを聞きつけ、適当に理由をでっち上げたのだ。もちろん、運営側は調査している。でっち上げに気付いたうえで、『この人物は面白いだろう』と期待を込めて招待としたのだ。
運営側の気を引き付けたのは、≪撲殺≫の経歴。≪撲殺≫は『地下闘技場』の常連選手だ。ここ数年では負けたことがない。地下闘技場の運営側から、このままでは賭け事がうまく成立しない、一方的な状態であることを懸念する声があった。運営の一人が『復讐者専門学校』の運営とつながっていたため、内容を聞いたことで「ここでも負けはしないだろうが、怪我でもしてハンデを負えば今後面白くなる」と考えた。だから、運営は≪撲殺≫に『復讐者専門学校』の話をした。『地下闘技場』では一方的、かつ瀕死の状態で終わってしまうこともあり、不完全燃焼の燻りが≪撲殺≫を焦がしていた。本人としては「つまらない」「もっと強い相手を」「もっと強い刺激を」と考えての応募だった。
ゆえに、≪撲殺≫は招待されたことに悦びを感じていた。景品なんてどうでもいい。肌が痺れて、脳が焼けて、身を焦がすような強い刺激が得られるのなら。そして出会えた。≪撲殺≫が本気でかかっても仕留めきれない、同等に渡り合う≪模倣犯≫。
遠距離恋愛中の恋人との逢瀬を邪魔された気分の≪撲殺≫の怒りは、言葉の通り凄まじかった。
「……、……」
≪毒殺≫は虫の息だった。ガスマスク越しに殴られていたはずだが、マスクは変形し、壊され、顔が露出している。露わになった顔は赤く、青く、白く、黒く、少しだけ肌の色が見える。容赦のない殴打は輪郭を倍以上に膨らませ、眼球は潰してしまった。ガスマスクのレンズが砕かれ、顔も、口腔内も鋭く傷つけた。足の痛みは、もう感じなかった。
さらに不幸なことは、それでも意識があることだろう。痛みで朦朧とし、けれど意識は飛ばない。自分にかかる重みが内臓を圧迫する。内臓すらも吐き出しそうだ。吐くほどの体力も残っていないのだが。
「クソ。何の抵抗もなしかよオイ!」
ここまでやっているが、≪撲殺≫は『蹂躙』が好きなわけではない。自分に予想のつかない反撃が来ることを期待していた。最初の粉は何だったのか? 体は不調を感じていない。ブラフか? はっきりしない状況が、苛立ちと再認識を強める。
「やっぱり、俺の相手は≪
立ち上がった≪撲殺≫は、片足で≪毒殺≫を踏み台にして叫ぶ。すでにその場を離れた≪模倣犯≫にも、届いていることだろう。逃げるならばよし。追うだけだ。
一歩目で内臓を踏み潰し、二歩目で頭蓋骨を踏み潰した。≪撲殺≫は一階の奥へと進んで行く。足跡には血液以外にも付着していた。
二階から様子を伺っていた業とシュナは、巨獣の足音が遠ざかってから大きく息をした。距離が離れているとはいえ、人を殴る音、それも他生の音の変化で状況がわかってしまうのは、呼吸すらも忘れてしまうほどの恐怖だった。
二人の服は汗でじっとり濡れている。寄りかかった壁は湿っていた。離れた背中がシュナは青白い顔で歯を食いしばっていた。歯が当たる音ですら立てることができなかったから。しかし。業は、表情を消していた。がちがちに固まった首を動かして業の様子を見たシュナは、抑制のきかなくなった頭で考えたことを問うた。
「怖く、ないんですか?」
「……半分」
「半分?」
片膝を立てて座る業を、膝を抱えたシュナは覗き込む。
「強い相手は怖い。だから極力戦いは避ける。生き残るのが目的だからな。死んだら参加した意味がない」
「……そんなに、報酬が欲しいんですか?」
「欲しい」
立てた膝に、腕をのせた。拳は強く握られる。拳の奥に見える
「あいつを、絶対に殺す」
「でも」
シュナからは業の様子は反面しか見えず。刻まれた皺も、食い込んだ爪も、どれも見えない。正面を向いて、まるで独り言のように呟く。
「得点を得ないと、負けちゃいますよ?」
「わかってる」
握る力が抜けた。爪には血が付着していた。業は立ち上がり、背を伸ばす。シュナの方を振り返らず、歩き出した。
「行くぞ」
「どちらへ?」
シュナも立ち上がる。軽やかに駆け寄り、後ろで手を組む。
ショッピングにでも行きそうな足取りだった。表情からはもう、恐怖は消えていた。
「≪模倣犯≫を探す」
崩壊した階段から離れて行く。足音が響かない廊下の先は暗い。
業の後ろをついて歩くシュナは、口を歪めた。
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