第十五話  虫

「ほ、本当に……やったんだな」

「はい」


 二人の目の前に蹲る業。浅い呼吸を繰り返し、息苦しいのか喉を引っかいている。すぐ近くにいる二人に気付く余裕がないのか、猫が地面で転がる様にうごいている。


「ちなみに中身は何だったんですか?」

「……メタノール」

「……メタノールってああなるんですね……」


 消毒液で有名なものではない。もちろんだが、基本的に飲むものではない。視神経を侵す猛毒だ。目の周囲を強く握り、苦しそうにもがいている。


「り、量にもよる……普通に死ぬこともある……」

「思いっきりぶっかけました」

「……このまま死ねば君が殺したことになる」


 囚人にも殺すメリットはある。≪毒殺≫は一応の懸念メリットを口にした。シュナは考えるそぶりを見せた後、一歩後ろに引いた。


「このまま死ぬのを待っているのも怖いんです……。確実に死ぬとも限らない。もし死ななかったら……私は……」


 報復を恐れるのは当然だ。業はガタイがよく、小柄なシュナでは敵わないだろう。むしろ一度でも逃げられたのが奇跡にも近いほどだ。そして≪毒殺≫も、恵まれた体格ではないので、毒がなければ負ける可能性が高い。

 今は、その可能性がひっくり返ったまたとないチャンス。


「……よし」


 唾液を二度飲み込んで、小股で近づく。胴体の下に頭を潜り込ませて小さくなった業を、ガスマスクが見下ろす。白衣のポケットから取り出した瓶。その中に、ビニール袋。ビニール袋の中には粉が入っている。

 固く締められた瓶を開け、袋を取り出す。また唾液を飲み込んだ。忍び足ならぬ忍び腕で、苦しむ業の上に袋をひっくり返――


「わあああああああ!!」

「っ!? な、え!?」

「よくやった」

「お、おま、おまええええええええ!!! だま、だ、だっ、騙したなあああああ!!? っんご!!?」


 シュナが後ろから抱き着いて、意表をついた。その隙に業が立ち上がって脱いで抱え込んでいた上着越しに毒の袋を掴む。反対の手で腹に拳をねじ込んだ。意識を飛ばしかけ、四肢が脱力する。毒の入った袋を奪い、上着で両腕と胴体を拘束した。ガスマスクを外し、毒を使うことを躊躇わさせた。


「あの……」

「行くぞ」

「え」


 どこに、と問う前に、業は歩き出した。それは初めて通る通路のはずで、さっき行き損ねた場所。

 下の階から、人の争いで起こるとは思えなさそうな音と振動が響く。逃げたはずなのに。逃がされたはずなのに。業は進んで、地獄に進んでいく。


 目の前には階段。なぜか下り階段が抜け落ちてしまっているという目を疑う状況。業は奪い取った毒の袋を瓶に詰め直した。

 そして≪毒殺≫を揺さぶり叩き起こす。呻き声をあげてもぞもぞと身を捩ったところで、耳に口を寄せ、本人にしか聞こえないように囁く。


「下には≪撲殺≫と≪模倣犯≫がいる。生き抜きたければ殺せ」

「な、にを……っ、ぅああああああああああっ」


 業は≪毒殺≫を突き落とした。時間差で、毒の入った瓶を包んだ上着も投げ捨てる。

 人間が二階から落ちた時、打ち所が悪ければもちろん命も落とす。業は足から着地できるよう、≪毒殺≫を足から落とした。

 だが、腹を殴られた鈍痛が残り、かつパニックになっている。さらには≪模倣犯≫と≪撲殺≫によって階段は瓦礫の山となっているのだ。

 お世辞にも体育会系の体つきとは言えない≪毒殺≫。不器用に体を強張らせ、足首・・をつけた。


「ぃぃいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」


 まるで毒虫のような汚い叫び。歯を食いしばり、足首が受けた衝撃を発散する。残念なことに、両足は骨がむき出しになっている。骨によって解放された傷口は感染症のにかかりやすい。さらに残念なことに、彼は≪毒殺・・≫だ。

 さて、彼の持つ独が傷口に触れてしまったら、どうなるだろうか。

 業は1階に落とした≪毒殺≫が生きていることを確認し、吹き抜けとなったその穴から身を引いた。1階から聞こえていた音が消えたのだ。音を出していた誰かが、事態に気が付いた。未だに鳴き続ける≪毒殺≫は、目と鼻の先の気配にも気付いていないが。


「おい」

「ぃうぇ!?」


 襟首を掴まれた。立つ力などない≪毒殺≫の体が、自動で起き上がる。いや、足元が宙に浮く。人一人を軽々と持ち上げた≪撲殺≫は、腹を膨らまして息を吸い、一時貯め――


「う る っ せ え                !!!!!!」


 声は木霊した。1階に。2階に。屋上に。

 業と。シュナと。≪模倣犯≫と。≪銃殺≫と。もしかしたらどこかで見ている運営側にも。

 この鼓膜を破るに留まらず、空気すらも退けてしまいそうな声を、耳を塞いで聞いているかもしれない。


「テメェのせいで≪模倣≫のヤローにまた逃げられたじゃねぇか。ふざけんじゃねぇ」


 そんな殺人的な怒号を至近距離で聞かされた≪毒殺≫は、鼓膜を破るまではいかずとも正気を失いかけた。耳元で放たれた空気砲は、≪毒殺≫の脳を直接揺さぶった。

 静かになったことに満足した≪撲殺≫は≪毒殺≫を投げ捨てた。死にかけたように動かすことがままならない体。それでもぴくぴくと、少しずつ、着実に、≪撲殺≫から距離をとろうと這いずる。


「ゃ……め、て……ころさ……ぃ、で……」


 何人も殺してきた人間の、窮地の言葉。それは自身が投げかけられてきた言葉と相違ない。言われたからと言って覚えていたわけではない。これは、≪毒殺≫も言ってきた言葉だ。

 かつていじめられていた。ひどく、惨たらしく、悍ましく、悲惨な記憶。「こんなこと、よく同じ人間にやろうと思ったな」と、誰かが言っていた。同じ人間として認識している者もいた。けれど、主犯格は、違ったのだ。

 人間と思っていなかった。だからできた。


「ふん、まるで虫だな。気持ちわりい」


 …………。

 動きが止まる。腹が痛むのか、ダンゴムシのような体勢で制止した。


「……   僕を

「あ?」


「虫って、言うなあ                  !!!!」


 手でつかんだ業の服を、這いつくばりながら後ろにいる≪撲殺≫に向けて投げつけた。




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